「爆風で目玉が飛び出るぞ!」1日4回の空襲に苦しめられた硫黄島の兵士たちが両目、両耳を覆った理由

〈「頭がそっくりない遺体が多い島なんだ」硫黄島で散った日本兵たちは、なぜ「首なし兵士」になったのか?〉から続く
太平洋戦争末期、日に日に激しさを増す硫黄島戦。そこでは耳を疑うようなある命令があった――。硫黄島を実際に訪れた記者が上梓した『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』(講談社)より一部抜粋。米軍上陸直前まで硫黄島にいた元兵士の証言と共に、圧倒的な物量差で苦戦を強いられた日本軍の戦いを振り返る。(全2回の後編/前編を読む)
【写真】80年近く前、米軍上陸直前まで硫黄島にいた元兵士西進次郎さん
◆◆◆
硫黄島戦は1945年2~3月の地上戦を一般に指すが、必ずしも正確とは言えない。それ以前から地上戦に先だって米軍は連日、空襲や艦砲射撃を日本側守備隊に加えていたからだ。
「私が島に着いたころ、1日4回の空襲がありました。現地の兵士たちは、それを『定期便』と呼んでいました。避難に慣れたもので、動じている様子はなかった。島の北部には電波探信儀(レーダー)があって、爆撃機が100キロ圏内に近づくと、元山飛行場の見張り所に連絡しました。見張り所の兵士は『180度方向! 敵編隊100キロ近づく!』などとメガホンで周知する。その後、80キロ、60キロ、40キロと近づくたびに周知の声が発せられる。20キロになったらサイレンが鳴り、皆、作業を中断してぞろぞろと防空壕に入っていった。さらに差し迫ると『ばくそーひらくー(爆倉開く)!』『ばくだんとーかー(爆弾投下)!』。そして、ピシャーという夕立のような音がする。爆弾が落ちる音ですよ。その音を、避難した壕の中で聞く」

米軍による空襲の頻度は増すばかりだった。
「壕の中では皆、うつぶせになり、両手で両目と両耳を覆う。耳を塞いでいても、鼓膜が破れんばかりの爆発音が轟きました。目を覆わないと、爆弾の衝撃で目が飛び出る、と教えられていました。近くに爆弾が落ちると、入り口からきな臭い爆風が入ってくるんですね。みんな我慢しましたよ。息が苦しくて。爆撃機が爆弾を落とし終えてUターンして帰っていくと、みんな壕を出て、深呼吸しましたね。12月末ごろになると、空襲は倍増しました。そのころになると爆撃機が消えた途端、また次の爆撃機が来ると知らされました。『情報! 情報!』って」
なぜか海岸に並べられ、標的となった戦闘機「艦砲射撃も4回ありました。南の方からやってきて島の5000メートル手前から攻撃してきた。巡洋艦と駆逐艦。あまり大きくない。艦隊はいつも9艘でした。いつも同じルートでした。守備隊は反撃しなかった。無抵抗ですよ。だから艦隊は悠々と島を回っていましたね。低速で。完全になめきっているんですよ。護衛する戦闘機もなかった。1回の艦砲射撃はだいたい2時間でした。その間、ずっと防空壕に入ったきりでした。壕を掘る兵士たちも壕の中で休憩していましたよ。反撃は一度も見たことがないです。だからどこに砲台があるのかは分からなかったですね。艦隊が近づいても味方戦闘機は迎撃に行かなかった。空中待避です。舞い上がって砲撃中、(上空で)待避するわけです」 西さんは「妙な光景」を目撃したこともあった。「本土から持っていった隼はみんな旧式でした。だから半分ぐらいは十分に使えなかったですね。故障した機体は全部、海岸沿いに廃棄するわけですよ。艦砲射撃でこの飛行機を撃て、というようにね。海に向かって置くわけです。ほかの被害を減らすためにですね。海岸に運ぶのを見ていましたよ。自分でプロペラを回して自走して行っていました。妙な話ですよね。敵に撃たれるのではなくて、故障が多かったですよ。海に並べたのは12月だったと思います。私が見たのは2~3機並べられた光景でした」竹ざおを持った兵士たちも活躍 空襲のターゲットは主に飛行場だった。航空戦力の無力化を図るためだ。しかし守備隊の補修作業は見事だったという。「空襲を済ませた敵が退散しますとね、もう飛行場に何ヵ所も大きな爆弾の跡があるわけですね。それを工兵隊20人ぐらいがトラック2~3台で乗ってきましてね、そして飛行場でトラックから飛び降りて、みんなでその穴埋めですよ。スコップをみんな持っていましてね、穴埋め。もう慣れたものですよ。そうすっと家の建物の1戸分ぐらいの穴が空いているのがですね、20人で取りかかって穴を埋めました。たちまち元の飛行場になりました。そしてロードローラーで押し固めるわけですね。すると元の飛行場になるわけですよ。ロードローラーは1、2台ありましたね」 工兵隊の中には穴埋め以外の作業を行う者もいた。「(米軍が落とした中に)時限爆弾があったんですよ。10分とか20分とか。時には10時間ぐらいたってから。我々が晩に寝ているときもですね、あちこちでバーンバーンと破裂するんですね。どこに落ちているか分からないでしょ。いつ爆発するか分からない、危ないでしょ。トラックには、(穴埋め作業の兵隊と)別の兵隊が2、3人乗っていましてね。長さ3メートルぐらいの細い竹を持っていた。竹の先頭に小さな赤旗が付いていて。その竹を持って、時限爆弾が落ちている場所を探るわけですね。兵隊は慣れていて、どこに落ちているか分かるんですね。そいでそこに竹ざおを(目印として)刺すんですよ」 こうした爆弾の雨は連日続き、やがて西さんはこんな思いになったという。「(滑走路に落としてもすぐに修復されるから)米軍が落とす爆弾はほとんど無駄弾ですよ。しかし、米軍がいくら落としても無限に爆弾を持っているわけですね。いかに物量が豊富か分かるわけですよ。そうした現実を見たときに、敗北を直感しましたね」硫黄島には川がない。2万以上の兵が苦しめられた渇き 当時の守備隊兵士たちの心境について、西さんはこう振り返った。「あれだけ空襲してくるのだから、いずれ米軍が上陸するのは明らかでした。でも、島の兵士たちの雰囲気はあまりにも和やかなんですよ。妙な言い方ですけどね。地上戦になったら連合艦隊が救援に来てくれるとか、もうあんな状況では援軍が来そうな雰囲気ではなかったですよ。諦めというんじゃなくて、その時、その目の前の任務に命令通り、精一杯取り組むだけです。悲観的な会話は全然なかった。みんなこの島を守る戦いで骨を埋める覚悟ができていたと思います」 西さんたちは米軍の攻撃以外でも苦しめられた。喉の渇きとも戦い続けたのだ。「硫黄島には川がありません。だから飲み水には苦労しました。私たちの部隊の補給担当者は毎朝、みんなから水筒を集め、それに給水所で水を入れて、各人に返していました。1日の飲み水はこれがすべてです。水というよりお湯でした。貯めた雨水を煮沸したのでしょうね。雨水頼りの島ですが、私が島にいた約40日の間、土砂降りはたったの一度でした。2万人以上の兵がいた島です。よくそれだけの分を貯められたなあと思います」 飲み水だけでなく、生活用水の確保も容易ではなかった。「私たちの部隊は壕を掘る作業がありませんでしたが、硫黄島の多くの部隊は、地熱と戦いながら連日連夜、壕を掘り続けていました。水のない中で、本当につらかったと思います。ちなみに硫黄島で風呂に入ったことは一度もありません。トイレは、掘っ立て小屋みたいのがありましたが、どのように衛生を保っていたかはよく覚えていません」極めて不衛生な環境でシラミも発生 水不足で洗濯もままならない中、空と海からの砲爆撃で毎日、全身砂ぼこりにまみれた兵士たちは、極めて不衛生だった。「シラミには悩まされました。12月の途中から。なんかむずむずと気持ち悪い。夜になって寝ようとしても、かゆくて眠れないのですよ。私たちの壕には電灯が付いていました。そこでみんなで脱いで、シラミをつぶしました。将校も兵隊も。その体で本土に帰ってきましてね。下着は全部、お湯で煮たんです」 西さんは、水不足の記憶に関連して、こんな話も聞かせてくれた。硫黄島の戦いと言えば、島南部の摺鉢山に米軍兵が星条旗を掲げようとしている、有名な写真を思い浮かべる人もいるだろう。この旗ざおについてこう話した。「旗は複数回掲げられましたが、最初に星条旗を立てる時に使った旗ざおは、おそらく(水不足に悩む日本軍が)水を貯めるために使っていたパイプだと思います。硫黄島は火山の島なので、地面から水蒸気が吹き出していました。そこに長い金属パイプを突き刺して下に桶を置き、パイプをちょろちょろと伝わる水を貯めていたのです。そんなパイプが島のあちこちにあったのです。それを米軍兵がどこからか拾ってきたのではないかと思います。ちなみに、桶には『絶対飲むな』と書かれてありましたね。私は、どうしても喉が渇いて、夜中に壕を抜け出して一度だけ飲んだことがありました。硫黄臭くて、とても飲めるもんじゃなかった。あの水は飛行機を掃除するときは使ったけど、大部分を何に使ったのか私は見た覚えはないですね」「陸軍の食糧事情はひどかった」 硫黄島の島民は約1000人だったのに対し、進出した兵士は2万人超。食糧確保は深刻だった。「島の北の方にサトウキビの畑がありましたね。豊かな島だったと聞いていますよ。それをね、各部隊が分けているんですよ。部隊の所有物みたいにして。自分たちが植えたんじゃないけど、区域をつくってね、これは何中隊、これは何部隊ってね。サトウキビを分けていましてね。それを知らずにうちの兵隊がかじっていたら、どこかの中尉ぐらいの人に叱られていました」「陸軍はひどかったらしいですよ。12月の中頃だったか、夕方に一人の陸軍軍曹がね、私のところに寄ってきて『海軍の給与はどうですか』と聞いてきました。『もう陸軍はひどくてね』と。それでこれから増配を陳情するって言っていましたね。陸軍の人たちは、みんな空腹をこらえていましたよ」 一方、海軍はまったく違ったという。一方、海軍での食糧事情は……「私たちの部隊は、海軍の航空部隊との共同作戦のため島に来たこともあり、食糧は海軍と同じでした。食事は恵まれている方でした。島に来た直後、見張り台の隊長とみられる将校が、原っぱで休憩中の私たちの所にやってきて『食う方と寝る方は心配せんでよろしい』と言いました。まさにその通りで、千葉県にいた時よりも食事は良かったぐらいです。ご飯は真っ白ですよ。みそ汁も出た。本当のみそではなく、粉を溶かしたようなみそでしたが。それに乾燥した野菜とかが入っている。大きな缶詰の牛肉も出た。千葉ではね、牛肉なんてなかったですよ。さすがに(海上輸送を担った)海軍は待遇がいいんですね。あんな島でこんなごちそうがあるとは夢にも思わなかったですよ」「この島の補給は、陸軍と海軍はまったく別でした。私たちが在島中に、海軍の輸送艦が来たことがありましてね。私たちと同じ飛行場にいる水兵たちは、みんなポケットの中に上等なたばこを三つや四つ入れていましたよ。海軍兵士の間で分散したそうですね。荷揚げしたものが爆撃で吹っ飛ばされないようにすぐ分散する。それでたばこなんかをポケットに入れていましてね」(酒井 聡平/Webオリジナル(外部転載))
「艦砲射撃も4回ありました。南の方からやってきて島の5000メートル手前から攻撃してきた。巡洋艦と駆逐艦。あまり大きくない。艦隊はいつも9艘でした。いつも同じルートでした。守備隊は反撃しなかった。無抵抗ですよ。だから艦隊は悠々と島を回っていましたね。低速で。完全になめきっているんですよ。護衛する戦闘機もなかった。1回の艦砲射撃はだいたい2時間でした。その間、ずっと防空壕に入ったきりでした。壕を掘る兵士たちも壕の中で休憩していましたよ。反撃は一度も見たことがないです。だからどこに砲台があるのかは分からなかったですね。艦隊が近づいても味方戦闘機は迎撃に行かなかった。空中待避です。舞い上がって砲撃中、(上空で)待避するわけです」
西さんは「妙な光景」を目撃したこともあった。
「本土から持っていった隼はみんな旧式でした。だから半分ぐらいは十分に使えなかったですね。故障した機体は全部、海岸沿いに廃棄するわけですよ。艦砲射撃でこの飛行機を撃て、というようにね。海に向かって置くわけです。ほかの被害を減らすためにですね。海岸に運ぶのを見ていましたよ。自分でプロペラを回して自走して行っていました。妙な話ですよね。敵に撃たれるのではなくて、故障が多かったですよ。海に並べたのは12月だったと思います。私が見たのは2~3機並べられた光景でした」
空襲のターゲットは主に飛行場だった。航空戦力の無力化を図るためだ。しかし守備隊の補修作業は見事だったという。
「空襲を済ませた敵が退散しますとね、もう飛行場に何ヵ所も大きな爆弾の跡があるわけですね。それを工兵隊20人ぐらいがトラック2~3台で乗ってきましてね、そして飛行場でトラックから飛び降りて、みんなでその穴埋めですよ。スコップをみんな持っていましてね、穴埋め。もう慣れたものですよ。そうすっと家の建物の1戸分ぐらいの穴が空いているのがですね、20人で取りかかって穴を埋めました。たちまち元の飛行場になりました。そしてロードローラーで押し固めるわけですね。すると元の飛行場になるわけですよ。ロードローラーは1、2台ありましたね」
工兵隊の中には穴埋め以外の作業を行う者もいた。
「(米軍が落とした中に)時限爆弾があったんですよ。10分とか20分とか。時には10時間ぐらいたってから。我々が晩に寝ているときもですね、あちこちでバーンバーンと破裂するんですね。どこに落ちているか分からないでしょ。いつ爆発するか分からない、危ないでしょ。トラックには、(穴埋め作業の兵隊と)別の兵隊が2、3人乗っていましてね。長さ3メートルぐらいの細い竹を持っていた。竹の先頭に小さな赤旗が付いていて。その竹を持って、時限爆弾が落ちている場所を探るわけですね。兵隊は慣れていて、どこに落ちているか分かるんですね。そいでそこに竹ざおを(目印として)刺すんですよ」
こうした爆弾の雨は連日続き、やがて西さんはこんな思いになったという。
「(滑走路に落としてもすぐに修復されるから)米軍が落とす爆弾はほとんど無駄弾ですよ。しかし、米軍がいくら落としても無限に爆弾を持っているわけですね。いかに物量が豊富か分かるわけですよ。そうした現実を見たときに、敗北を直感しましたね」硫黄島には川がない。2万以上の兵が苦しめられた渇き 当時の守備隊兵士たちの心境について、西さんはこう振り返った。「あれだけ空襲してくるのだから、いずれ米軍が上陸するのは明らかでした。でも、島の兵士たちの雰囲気はあまりにも和やかなんですよ。妙な言い方ですけどね。地上戦になったら連合艦隊が救援に来てくれるとか、もうあんな状況では援軍が来そうな雰囲気ではなかったですよ。諦めというんじゃなくて、その時、その目の前の任務に命令通り、精一杯取り組むだけです。悲観的な会話は全然なかった。みんなこの島を守る戦いで骨を埋める覚悟ができていたと思います」 西さんたちは米軍の攻撃以外でも苦しめられた。喉の渇きとも戦い続けたのだ。「硫黄島には川がありません。だから飲み水には苦労しました。私たちの部隊の補給担当者は毎朝、みんなから水筒を集め、それに給水所で水を入れて、各人に返していました。1日の飲み水はこれがすべてです。水というよりお湯でした。貯めた雨水を煮沸したのでしょうね。雨水頼りの島ですが、私が島にいた約40日の間、土砂降りはたったの一度でした。2万人以上の兵がいた島です。よくそれだけの分を貯められたなあと思います」 飲み水だけでなく、生活用水の確保も容易ではなかった。「私たちの部隊は壕を掘る作業がありませんでしたが、硫黄島の多くの部隊は、地熱と戦いながら連日連夜、壕を掘り続けていました。水のない中で、本当につらかったと思います。ちなみに硫黄島で風呂に入ったことは一度もありません。トイレは、掘っ立て小屋みたいのがありましたが、どのように衛生を保っていたかはよく覚えていません」極めて不衛生な環境でシラミも発生 水不足で洗濯もままならない中、空と海からの砲爆撃で毎日、全身砂ぼこりにまみれた兵士たちは、極めて不衛生だった。「シラミには悩まされました。12月の途中から。なんかむずむずと気持ち悪い。夜になって寝ようとしても、かゆくて眠れないのですよ。私たちの壕には電灯が付いていました。そこでみんなで脱いで、シラミをつぶしました。将校も兵隊も。その体で本土に帰ってきましてね。下着は全部、お湯で煮たんです」 西さんは、水不足の記憶に関連して、こんな話も聞かせてくれた。硫黄島の戦いと言えば、島南部の摺鉢山に米軍兵が星条旗を掲げようとしている、有名な写真を思い浮かべる人もいるだろう。この旗ざおについてこう話した。「旗は複数回掲げられましたが、最初に星条旗を立てる時に使った旗ざおは、おそらく(水不足に悩む日本軍が)水を貯めるために使っていたパイプだと思います。硫黄島は火山の島なので、地面から水蒸気が吹き出していました。そこに長い金属パイプを突き刺して下に桶を置き、パイプをちょろちょろと伝わる水を貯めていたのです。そんなパイプが島のあちこちにあったのです。それを米軍兵がどこからか拾ってきたのではないかと思います。ちなみに、桶には『絶対飲むな』と書かれてありましたね。私は、どうしても喉が渇いて、夜中に壕を抜け出して一度だけ飲んだことがありました。硫黄臭くて、とても飲めるもんじゃなかった。あの水は飛行機を掃除するときは使ったけど、大部分を何に使ったのか私は見た覚えはないですね」「陸軍の食糧事情はひどかった」 硫黄島の島民は約1000人だったのに対し、進出した兵士は2万人超。食糧確保は深刻だった。「島の北の方にサトウキビの畑がありましたね。豊かな島だったと聞いていますよ。それをね、各部隊が分けているんですよ。部隊の所有物みたいにして。自分たちが植えたんじゃないけど、区域をつくってね、これは何中隊、これは何部隊ってね。サトウキビを分けていましてね。それを知らずにうちの兵隊がかじっていたら、どこかの中尉ぐらいの人に叱られていました」「陸軍はひどかったらしいですよ。12月の中頃だったか、夕方に一人の陸軍軍曹がね、私のところに寄ってきて『海軍の給与はどうですか』と聞いてきました。『もう陸軍はひどくてね』と。それでこれから増配を陳情するって言っていましたね。陸軍の人たちは、みんな空腹をこらえていましたよ」 一方、海軍はまったく違ったという。一方、海軍での食糧事情は……「私たちの部隊は、海軍の航空部隊との共同作戦のため島に来たこともあり、食糧は海軍と同じでした。食事は恵まれている方でした。島に来た直後、見張り台の隊長とみられる将校が、原っぱで休憩中の私たちの所にやってきて『食う方と寝る方は心配せんでよろしい』と言いました。まさにその通りで、千葉県にいた時よりも食事は良かったぐらいです。ご飯は真っ白ですよ。みそ汁も出た。本当のみそではなく、粉を溶かしたようなみそでしたが。それに乾燥した野菜とかが入っている。大きな缶詰の牛肉も出た。千葉ではね、牛肉なんてなかったですよ。さすがに(海上輸送を担った)海軍は待遇がいいんですね。あんな島でこんなごちそうがあるとは夢にも思わなかったですよ」「この島の補給は、陸軍と海軍はまったく別でした。私たちが在島中に、海軍の輸送艦が来たことがありましてね。私たちと同じ飛行場にいる水兵たちは、みんなポケットの中に上等なたばこを三つや四つ入れていましたよ。海軍兵士の間で分散したそうですね。荷揚げしたものが爆撃で吹っ飛ばされないようにすぐ分散する。それでたばこなんかをポケットに入れていましてね」(酒井 聡平/Webオリジナル(外部転載))
「(滑走路に落としてもすぐに修復されるから)米軍が落とす爆弾はほとんど無駄弾ですよ。しかし、米軍がいくら落としても無限に爆弾を持っているわけですね。いかに物量が豊富か分かるわけですよ。そうした現実を見たときに、敗北を直感しましたね」
当時の守備隊兵士たちの心境について、西さんはこう振り返った。
「あれだけ空襲してくるのだから、いずれ米軍が上陸するのは明らかでした。でも、島の兵士たちの雰囲気はあまりにも和やかなんですよ。妙な言い方ですけどね。地上戦になったら連合艦隊が救援に来てくれるとか、もうあんな状況では援軍が来そうな雰囲気ではなかったですよ。諦めというんじゃなくて、その時、その目の前の任務に命令通り、精一杯取り組むだけです。悲観的な会話は全然なかった。みんなこの島を守る戦いで骨を埋める覚悟ができていたと思います」
西さんたちは米軍の攻撃以外でも苦しめられた。喉の渇きとも戦い続けたのだ。
「硫黄島には川がありません。だから飲み水には苦労しました。私たちの部隊の補給担当者は毎朝、みんなから水筒を集め、それに給水所で水を入れて、各人に返していました。1日の飲み水はこれがすべてです。水というよりお湯でした。貯めた雨水を煮沸したのでしょうね。雨水頼りの島ですが、私が島にいた約40日の間、土砂降りはたったの一度でした。2万人以上の兵がいた島です。よくそれだけの分を貯められたなあと思います」
飲み水だけでなく、生活用水の確保も容易ではなかった。
「私たちの部隊は壕を掘る作業がありませんでしたが、硫黄島の多くの部隊は、地熱と戦いながら連日連夜、壕を掘り続けていました。水のない中で、本当につらかったと思います。ちなみに硫黄島で風呂に入ったことは一度もありません。トイレは、掘っ立て小屋みたいのがありましたが、どのように衛生を保っていたかはよく覚えていません」
水不足で洗濯もままならない中、空と海からの砲爆撃で毎日、全身砂ぼこりにまみれた兵士たちは、極めて不衛生だった。
「シラミには悩まされました。12月の途中から。なんかむずむずと気持ち悪い。夜になって寝ようとしても、かゆくて眠れないのですよ。私たちの壕には電灯が付いていました。そこでみんなで脱いで、シラミをつぶしました。将校も兵隊も。その体で本土に帰ってきましてね。下着は全部、お湯で煮たんです」
西さんは、水不足の記憶に関連して、こんな話も聞かせてくれた。硫黄島の戦いと言えば、島南部の摺鉢山に米軍兵が星条旗を掲げようとしている、有名な写真を思い浮かべる人もいるだろう。この旗ざおについてこう話した。
「旗は複数回掲げられましたが、最初に星条旗を立てる時に使った旗ざおは、おそらく(水不足に悩む日本軍が)水を貯めるために使っていたパイプだと思います。硫黄島は火山の島なので、地面から水蒸気が吹き出していました。そこに長い金属パイプを突き刺して下に桶を置き、パイプをちょろちょろと伝わる水を貯めていたのです。そんなパイプが島のあちこちにあったのです。それを米軍兵がどこからか拾ってきたのではないかと思います。ちなみに、桶には『絶対飲むな』と書かれてありましたね。私は、どうしても喉が渇いて、夜中に壕を抜け出して一度だけ飲んだことがありました。硫黄臭くて、とても飲めるもんじゃなかった。あの水は飛行機を掃除するときは使ったけど、大部分を何に使ったのか私は見た覚えはないですね」
「陸軍の食糧事情はひどかった」 硫黄島の島民は約1000人だったのに対し、進出した兵士は2万人超。食糧確保は深刻だった。「島の北の方にサトウキビの畑がありましたね。豊かな島だったと聞いていますよ。それをね、各部隊が分けているんですよ。部隊の所有物みたいにして。自分たちが植えたんじゃないけど、区域をつくってね、これは何中隊、これは何部隊ってね。サトウキビを分けていましてね。それを知らずにうちの兵隊がかじっていたら、どこかの中尉ぐらいの人に叱られていました」「陸軍はひどかったらしいですよ。12月の中頃だったか、夕方に一人の陸軍軍曹がね、私のところに寄ってきて『海軍の給与はどうですか』と聞いてきました。『もう陸軍はひどくてね』と。それでこれから増配を陳情するって言っていましたね。陸軍の人たちは、みんな空腹をこらえていましたよ」 一方、海軍はまったく違ったという。一方、海軍での食糧事情は……「私たちの部隊は、海軍の航空部隊との共同作戦のため島に来たこともあり、食糧は海軍と同じでした。食事は恵まれている方でした。島に来た直後、見張り台の隊長とみられる将校が、原っぱで休憩中の私たちの所にやってきて『食う方と寝る方は心配せんでよろしい』と言いました。まさにその通りで、千葉県にいた時よりも食事は良かったぐらいです。ご飯は真っ白ですよ。みそ汁も出た。本当のみそではなく、粉を溶かしたようなみそでしたが。それに乾燥した野菜とかが入っている。大きな缶詰の牛肉も出た。千葉ではね、牛肉なんてなかったですよ。さすがに(海上輸送を担った)海軍は待遇がいいんですね。あんな島でこんなごちそうがあるとは夢にも思わなかったですよ」「この島の補給は、陸軍と海軍はまったく別でした。私たちが在島中に、海軍の輸送艦が来たことがありましてね。私たちと同じ飛行場にいる水兵たちは、みんなポケットの中に上等なたばこを三つや四つ入れていましたよ。海軍兵士の間で分散したそうですね。荷揚げしたものが爆撃で吹っ飛ばされないようにすぐ分散する。それでたばこなんかをポケットに入れていましてね」(酒井 聡平/Webオリジナル(外部転載))
硫黄島の島民は約1000人だったのに対し、進出した兵士は2万人超。食糧確保は深刻だった。
「島の北の方にサトウキビの畑がありましたね。豊かな島だったと聞いていますよ。それをね、各部隊が分けているんですよ。部隊の所有物みたいにして。自分たちが植えたんじゃないけど、区域をつくってね、これは何中隊、これは何部隊ってね。サトウキビを分けていましてね。それを知らずにうちの兵隊がかじっていたら、どこかの中尉ぐらいの人に叱られていました」
「陸軍はひどかったらしいですよ。12月の中頃だったか、夕方に一人の陸軍軍曹がね、私のところに寄ってきて『海軍の給与はどうですか』と聞いてきました。『もう陸軍はひどくてね』と。それでこれから増配を陳情するって言っていましたね。陸軍の人たちは、みんな空腹をこらえていましたよ」
一方、海軍はまったく違ったという。
「私たちの部隊は、海軍の航空部隊との共同作戦のため島に来たこともあり、食糧は海軍と同じでした。食事は恵まれている方でした。島に来た直後、見張り台の隊長とみられる将校が、原っぱで休憩中の私たちの所にやってきて『食う方と寝る方は心配せんでよろしい』と言いました。まさにその通りで、千葉県にいた時よりも食事は良かったぐらいです。ご飯は真っ白ですよ。みそ汁も出た。本当のみそではなく、粉を溶かしたようなみそでしたが。それに乾燥した野菜とかが入っている。大きな缶詰の牛肉も出た。千葉ではね、牛肉なんてなかったですよ。さすがに(海上輸送を担った)海軍は待遇がいいんですね。あんな島でこんなごちそうがあるとは夢にも思わなかったですよ」
「この島の補給は、陸軍と海軍はまったく別でした。私たちが在島中に、海軍の輸送艦が来たことがありましてね。私たちと同じ飛行場にいる水兵たちは、みんなポケットの中に上等なたばこを三つや四つ入れていましたよ。海軍兵士の間で分散したそうですね。荷揚げしたものが爆撃で吹っ飛ばされないようにすぐ分散する。それでたばこなんかをポケットに入れていましてね」
(酒井 聡平/Webオリジナル(外部転載))