45年間にわたり、「ヤクザ」と呼ばれる人々を取材してきたフリーライターの山平重樹氏。そんな山平氏が、ヤクザたちの意外な素顔や、これまで世に知られていないエピソードを綴った著書『私が出会った究極のたち 泣いて笑ってヤクザ取材45年』(徳間書店)を上梓した。
【衝撃画像】「ラーメンのダシの中に、殺害した相手の手首を入れていた」世間を震撼させたヤクザの会長の“イカツすぎる素顔”を見る
ここでは、同書より一部を抜粋し、住吉会家根弥一家八代目で、「バービー」の愛称で知られた異色のヤクザ・金子幸市氏の素顔を紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)
写真はイメージです アフロ
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ロサンゼルスから強制送還された日本人ヤクザ――として国際的なニュースとなった“バービー”こと金子会(当時)・金子幸市会長。
バービーはそれより数年前、国内でも彼の率いる金子会組員が引き起こした内部抗争事件で、世間のとんだ話題を集めたことがあった。“手首ラーメン事件”と呼ばれるもので、組員がシノギとする屋台ラーメンのダシの中に、殺害した相手の手首を入れていたという事実が発覚。その猟奇的な事件はマスコミにも大々的に報じられたのだった。
その一方で、金子バービーは、その時分、ヤクザ渡世のうえでも大きな仕事をやってのけている。ロス強制送還事件の前年に起きた住吉連合会と極東三浦連合会(現・極東会松山連合会)との“池袋抗争”において、和解終結に向けて奔走し、陰の功労者といわれるような働きを見せているのだ。
池袋を地盤とする系列組織同士の抗争で、発砲事件の応酬があり、巻き添えで池袋署の警部補と専門学校生に重軽傷を負わせる事態となり、なお武闘派同士、予断を許さぬ状況となった。抗争の拡大を防ぐため、住吉連合会の堀政夫会長は、極東三浦連合会の松山眞一総長と連絡をとりたいと心を砕いていた。
堀から、その旨の相談を受けた浜本政吉は、「それならうちの金子だ」と即答した。金子が昔から松山を「兄貴」と呼んで親交があるのを知っていたからだ。
バービーは私の取材に、
「私は不良少年の頃、池袋や銀座で松山を『兄貴』と慕ってくっついて歩いていたこともあって、ずっと心安くして貰ってましたからね。で、すぐに松山事務所に電話を入れたんですが、戦争の最中だから、なかなか連絡がとれない。しばらくして、私のベンツの自動車電話に、松山本人から電話が入ったんです。私が言ったのは、『兄貴、堀政夫と2人きりで会ってくれませんか。私がこの首をかけて責任持ちますから』。松山の兄貴も、『わかった。おまえが言うんなら会おう』と言下に応えてくれました」
その夜のうちに、「堀・松山会談」は、東京・永田町のキャピトル東急において実現した。住吉側からは堀会長、川口喨史副会長、金子常任相談役、極東三浦連合会からは松山総長、大山光一最高顧問、池田亨一会長、塚瀬毅運営委員長が出席。
堀と松山は顔を合わすなり、「眞ちゃん」「政ちゃん」と呼びあい、かつての旧友時代に還って心を許しあい、手を握りあったという。あとの言葉は何も必要としなかった。電光石火の手打ち成立である。

「眞ちゃん、見てくれよ、うちの金子を。こういう役に立つような男になってくれるなんてね……」
堀が感無量の面持ちで言えば、松山も、
「いやあ、政ちゃん、本当は、金子はオレが欲しかったんだ。もともとオレのところにいた男なんだから」
と言うのに、バービーは、またしても一言多かった。
「私に金魚売りは務まりませんよ(笑)」
日本最大最強のテキヤ組織のドンとなる兄貴分に対して、ジョークとはいえ、この憎まれ口、さしもカリスマ・松山も苦笑したことであったろう。
後のことだが、私も2人の親交ぶりを目のあたりにしたことがあった。
極東三浦連合会の機関誌「限りなき前進」を手伝うようになり、その取材で、1月早々、池袋の松山事務所を訪ねていた時のこと。そこへ「お年始」に訪れたバービーとバッタリかち合ったことがあったのだ。
バービーも先客の私に気づいて「おお」という顔になったが、兄貴分の松山に対し礼を尽くし、新年の挨拶を行っている様子は、いつもの“トッポさ”はなく、神妙なものだった。
私にすれば、松山ドンと金子バービーの顔合わせが甚だ興味深く、どんな話をするものなのか、聴き耳を立てていた。
すると、どういう流れからそうなったのか、昔の思い出話となり、戦後間もない頃、2人が池袋や銀座で暴れていた時分の話になって、興が乗って止まらなくなった。金子が“銀座のバービー”と言われた、まだ愚連隊時代の話で、いつものマシンガントークとなって(松山ドンも結構話好きな親分であった)、いろんな名前が飛び交い、時には“でかイチ”だの“硫酸ポチ”だの、私も名前だけは知っている不良が出てきたり、時間が過ぎるのも忘れるほど盛りあがった。
私はと言えば、もちろん聴きいる一方で、2人の記憶力の良さにつくづく感心したことを憶えている。もう30年以上も前のことで、会話の中味は大概忘れてしまったが、その時の情景は今も鮮やかに憶えており、ともに60代前半の男盛り(バービーが3歳下)、気力は充実し、ともかく2人とも覇気に溢れていたことが思い出される。迫力が違っていたなあ、と。

金子バービーは昭和5年8月27日、東京・深川で、裕福な材木商の末っ子として生まれた。祖母は徳川の旗本の娘で、幼い頃から「勝てば官軍、負ければ賊軍」という話を耳にタコができるほど聞かされたという。
早くに家を出たのは頑固者で躾にやかましい父親の元を離れたかったのと、早15、6の少年の身で自立の道を見つけたからだった。
時は終戦直後の焼け跡、闇市時代、米軍キャンプの帝国ホテルや三信ビルに出入りしては毎夜、進駐軍相手の賭博で大金を稼ぐようになっていたのだ。やがて都内各高校の番長や中退者ら不良少年約100人を集めて、さながら愚連隊のような「大和会」を結成、“銀座のバービー”と恐れられた。
知らない人は、「えっ、あんなに小柄で可愛い顔をした子供のような男が……」と仰天するほど暴れっぷりも半端ではなく、その外見とのギャップも極端であったようだ。そんなバービーが博徒の名門中の名門、住吉一家・向後平の一門に連なり渡世入りするのは、18、9の時だった。家も近所で幼馴染み、小学校も同じで3年先輩の中久喜源重が向後の舎弟になっていた縁による。
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通算懲役22年8カ月の問題児だった金子幸市氏。その知られざる舎弟時代とは――。以下のリンクから続きをお読みいただけます。
〈「相手の股ぐらをドスで刺しちゃったんです」「死にはしなかったけど…」ヤクザ同士が揉めて一触即発…“異色すぎるヤクザの会長”の知られざる舎弟時代〉へ続く
(山平 重樹/Webオリジナル(外部転載))