「きょう、逝こう」
【写真を見る】初公判時の被告のスケッチ/ 送検時の様子(2024年 撮影)
その夜、男は60年連れ添った妻との心中を決意した。しかし自分だけ死にきれなかった。そして、3か月後、妻を殺害した罪で1人、被告人席に座ることになった。
検察側が読み上げた罪状は、サービス付き高齢者向け住宅の一室で、当時83歳の妻に頼まれて首を絞めて殺害したという「嘱託殺人」。
施設職員や親族から見ても「仲が良かった」という夫婦に、何があったのか。
2024年12月の初公判の日。刑務官に車いすを押されて89歳の男が法廷に現れた。男は同年9月16日の午後7時半ごろから翌朝までの間に、一緒に暮らす部屋で、妻に頼まれて首をスカーフで絞めて殺害した罪に問われた。
男は起訴内容を認め、その後、検察側が事件の経緯を明らかにした。
検察側の冒頭陳述などによると、2人は1962年に結婚。子どもはいない。互いに80代を迎え、2021年にサービス付き高齢者向け住宅に入居した。
夫は緑内障を患い、妻の介助を受けていた。一方の妻も足腰が悪く、転倒して骨折したことで自力歩行が困難になった。
その後、妻は夫や介護士に対し「体がかなわん(=思い通りにならない)。動かないし、やりたいこともない」「早く死にたい」などと繰り返すようになり、自殺未遂に及ぶこともあったという。
そんな妻をなだめながらも、夫も次第に「長生きしても辛いばかり」と人生を悲観し、ついには2人で心中を話し合うようになった。
ある夜、トイレに行こうとした妻が再び転倒。妻は何とかベッドに戻ったが、2人はこの時、決意を固めた。
「きょう、逝こう」
妻が「これ」と言って差し出したのはスカーフだった。しかし妻は自力で命を絶つことができず、夫がスカーフの両端を握った。自身も後を追おうとしたが未遂に終わった。
やがて朝を迎え、夫が「食事は私も妻もキャンセルしてほしい」とナースコールをしたため、職員が部屋の様子を見に来たことで事件が発覚した。
妻は、以前から夫に「私が死ねなければ手を貸して」と話していたという。そこで妻からの殺害依頼を承諾していたとして、今回の罪名は「嘱託殺人」となった。
「言い争いもなく、仲が良い」「温厚だった」
施設職員や親族の証言調書によると、2人の関係はいたって良好だったようだ。弁護人によると、夫は妻の事を「お母さん」と呼んでいたという。
被告人質問で夫は、弁護人から「なぜ『お母さん』と心中しようと思ったのか」と問われると、当時の思いを口にした。
夫「とにかく生活が苦痛だという思いが強かった」弁護人「お母さんは、いつごろから『死にたい』と言うようになりましたか」夫「もともと好きだった料理ができなくなって。いろいろあって、心がまいっていたのだと思う」弁護人「なぜ、犯行に至ったのですか」夫「私もこういう(目が悪い)状況ですから。つらい状況を早く脱したかった」
そのうえで検察側は「介護士や定期的に面会に来る親族など、周囲に助けを求める努力を十分にしなかった」として懲役3年を求刑。
一方で弁護側は「病気やけがで弱った妻の思いを聞き入れるため、やむなく犯行に及んだ」として、執行猶予付きの判決を求めた。
裁判は争うことなく即日結審し、年明けに判決が言い渡されることになった。
裁判で夫は、後悔の言葉も口にしていた。
夫「(事件に至るまでに)心中以外の方法を考えるべきだった」夫「余命を全うすべきなのに、自分のせいで…」
夫はあの時、どうすれば「心中」以外の方法にたどり着けたのだろうか。
仲が良かった老夫婦。「世界一の長寿大国」の陰で、老々介護の末に起きた事件は「他人事」とは割り切れない。
「殺された被害者と加害者」としてではなく「60年連れ添った妻と夫」の話が聞きたい。そう思い、私は判決の1週間前に、男が勾留されている拘置所へ向かった。
面会室に入ると間もなく、男が車いすで現れた。白髪頭にマスク姿、大きな黒縁メガネをかけていた。事前に送った手紙を読んで、面会に応じると決めたようだ。
男「裁判以降、また目が悪くなって。手紙は職員の人に読み上げてもらいましたよ」
「あなたの顔はぼんやりと見えるくらいだ」と言いながらも、男の視線はまっすぐ私へと注がれていた。
まず『お母さん』との思い出を尋ねると、男は目を細めた。
男「旅行に行くことが多かったですね。パリ、ロンドン、それから…」
夫婦ともに元気だったころは、2人で海外を巡っていたようだ。国内だと、北海道をたびたび訪れていたという。
しかし高齢者住宅へ入居後の生活について尋ねると、声のトーンを落とした。
男「あそこでは食事が出て来るから、妻は料理を作る機会を失ってしまった。タクシーで百貨店に行くのがたまの楽しみでしたが、距離があるし荷物も多くなるから、なかなかね。そういうところも妻はつらかったでしょうね」
――職員に「つらい」と話すことはなかったのですか?
男「あからさまには言えなかった。職員に『自分は早く逝った方が良いんじゃないか、何の役にも立たないから』というようなことは言ったと思う。『そんなこと言わないで』と返されましたが、具体的な話までは」
月に一度訪ねて来る親族にも話せなかった。心配させたくなかったからだ。
あの日、妻を殺害し部屋に1人、職員に見つかるまでどのような気持ちで夜を明かしたのだろうか。そう尋ねると、男は背を丸めながら深く息をつき、目を閉じた。
男「考える余裕もなくて、ぼーっと過ごしていました。解放された…という気持ちではないです」
事件前のつらさと、今のつらさを尋ねると。
男「今の方がつらいです。誰とも話すことがない。すごく不安」
拘置所では眠れない日々で、毎日妻に手を合わせているという。そこで、私が今回の取材で一番聞きたかった質問を投げかけた。
――もし事件前に戻れるなら、周囲に『助けて欲しかったこと』『して欲しかったこと』はありますか?
男は少し考えた。返ってきた言葉は簡素なものだった。
男「…して欲しかったことはないですね。自分たち自身のことだと思っていたから」
自らの選択で、まだ残されていたはずの夫婦の時間を失い、取り返しのつかない後悔が残った。しかし、あの時どうすれば良かったのか…わずか30分の面会時間では、男と私がその答えにたどり着くことはできなかった。
判決の日、男は車いすではなく、刑務官に支えられながら歩いて法廷に現れた。
ゆっくりと歩みを進めていすに腰を下ろしたところで、裁判官から言い渡されたのは、執行猶予付きの判決(懲役3年、執行猶予5年)。
判決の理由として、裁判官は、相談可能な介護士や親族もいるなかで男が相談しなかったことに一定の非難を加えたものの、「経緯・動機には同情の余地がある」とした。
男は控訴せず、判決は確定した。
男は拘置所を出て、一人暮らしを始めた。
「介護者・要介護者共に『死にたい』と漏らすことは、大きなリスクのサインです」
司法福祉を専門とする日本福祉大学の湯原悦子教授に、今回の事件について尋ねた。
夫婦が暮らしていた「サービス付き高齢者向け住宅」は、居住空間のバリアフリーはもちろん、介護のプロによる安否確認や生活相談といったサポートが整ったうえで、高齢者にとっては自由度の高い生活が送れる福祉サービスだ。
ただ、湯原教授は、介護意識が比較的高いと言える環境であっても今回のような事件は起こり得ると話す。
湯原教授「介護者が、家族の介護について、自分たち自身のことだと思うのはある意味当然です。そもそも誰かに相談するという発想がない、また、何をどこまで相談してよいのか分からない場合も少なくありません」
「今回の事件では、介護される人(妻)が『死にたい』と語っていました。要介護者・介護者が『死にたい』と言葉にしたら、福祉関係者はそれを心中のリスクと捉え、当事者に介入してほしい」
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