年金生活が始まると、経済的な不安や健康面の心配がつきものです。特に離れて暮らす家族にとっては、親の「大丈夫」という言葉だけでは安心しきれない現実もあります。ふとしたきっかけで見えてくる暮らしの変化や、見過ごしがちなサインにどう向き合えばいいのでしょうか?
大手企業に勤める鈴木健一さん(45歳・仮名)。正月休みでもなく、お盆休みでもないタイミングでの帰省。たまたま関わっていた大型プロジェクトがひと段落し、「そういえば、1年近くも実家に帰っていなかったな」と思い立ったのでした。新幹線を乗り継いで実家の玄関を開けると、懐かしい味噌汁の香りがふわりと漂ってきます。父、雄三さん(72歳・仮名)が「おお、よく帰ってきたな」と顔をほころばせます。3年前に母(=妻)が亡くなって以来、一人暮らしをしています。
「何か変わりはない? 困っていることは?」。 食卓につくなり、健一さんは切り出しました。しかし、雄三さんは豪快に笑い飛ばすだけです。「大丈夫だぁ。年金が月に20万円もあれば、一人暮らしには十分すぎるくらいだよ。悠々自適の毎日だ」。雄三さんは元々地方公務員として60歳で定年を迎え、そのあとも再任制度を利用し、65歳まで働きました。生活費のベースとなる年金は20万円と、単身高齢者の1ヵ月の平均支出が月15万円といわれるなか、十分な金額です、その言葉に嘘はないのでしょう。
厚生労働省『令和5年度 厚生年金保険・国民年金事業の概況』によると、厚生年金保険(第1号)受給権者の平均年金月額は約14万7,000円。65歳以上男性に限っても平均16万9,484円です。これらと比べると、雄三さんの「月20万円」という年金額は、高齢者世帯のなかで比較的恵まれた水準にあります。
食卓には一人暮らしを始めてからすっかり腕をあげた料理が並びます。ここからも暮らしに困窮している様子はうかがえません。しかし、健一さんの胸には、拭いがたい不安が渦巻いていました。以前より少し痩せたように見える背中、相槌は打つものの、どこか話が噛み合わない瞬間がありました。また冷蔵庫の奥で見つけたのは、賞味期限切れの牛乳。几帳面な性格の父が気づかないわけがない――。物価高が続くなか、高齢の親の心配といえばまずは生活費ではありましたが、健一さんの不安は別のところにあったのです。
漠然と不安が確信に変わったのは「爪切りを貸して」と、戸棚を開けたときのこと。そこに雑に封が切られた封筒が束になって入っていることに気づきます。普段であればスルーするところですが、この日は何も考えずに中身を確認した健一さん。中から出てきたのは、固定資産税の督促状でした。納付期限は、とうに過ぎています。慌てて他の書類も確認すると、国民健康保険料の払い込み用紙などの督促状が……。
「お父さん、これ……」
リビングでテレビを見ていた雄三さんに督促状を見せると、父は一瞬きょとんとした顔でそれを受け取り、やがて「ああ、そういえばそんなものが来ていたかな。いや、もう払ったはずだが……」と、要領を得ない返事を繰り返すばかりでした。その曖昧な口ぶりに、健一さんは背筋が凍る思いがしました。これは、単なる物忘れではないかもしれない、と確信したのです。
幸い、色々と滞納しているものはコンビニで払える段階だったので、きれいさっぱり払い終え、そのまま病院へ。認知症と診断を受けました。
2022年時点、443万人の高齢者が認知症、559万人が軽度認知障害と診断を受けています。それは高齢者の実に27.8%を占めています。また軽度認知障害と診断された10~15%が認知症に移行するとされています。
年をとれば、程度の差はあれ、誰もがもの忘れが激しくなります。しかし認知症による物忘れは「体験したことをすべて忘れる」「物忘れの自覚がない」など、加齢による物忘れとは違う特徴があります。早期に適切な診断を受けることが重要とされます。
「もっと早く気づいてあげるべきでした。仕事を言い訳にして、気が付くのが遅くなったことが悔やまれます」
認知症の初期症状としては、「物忘れがひどい」「判断・理解力が衰える」「時間・場所がわからない」「人柄が変わる」「不安感が強い」「意欲がなくなる」など。思い当たる言動が複数ある場合は、認知症の初期症状の可能性があります。また何よりも大切なのは、親の些細な変化に気づき、プライドを傷つけないように配慮しながら、早期に専門家へつなぐこと。各市町村に設置されている「地域包括支援センター」では、保健師や社会福祉士などが高齢者の生活に関する相談に無料で応じてくれます。
[参考資料]
厚生労働省『令和5年度 厚生年金保険・国民年金事業の概況』
政府広報オンライン『知っておきたい認知症の基本』