【酒井 聡平】「死んじゃうよ、死んじゃうよ」…硫黄島空襲後の1944年7月、突然訪れた「運命の日」

「俺たちはここで玉砕するよ……」「どうか妹たちをお願いします」「お前にはいろいろと島のことを教えてもらった。ありがとう」「なんで日本はこんな戦争を始めちゃったのだろう」
1944年7月、硫黄島。それは一時疎開のはずだった――。散り散りになった島民たちはなぜ今も故郷に帰れないのか? 話題の新刊『死なないと、帰れない島』では、ベストセラー『硫黄島上陸』著者がこの国の暗部に執念の取材で迫る。
(本記事は、酒井聡平『死なないと、帰れない島』の一部を抜粋・編集しています)
硫黄島の初空襲は6月15日の午後1時50分に始まり、午後4時ごろまで続いた。艦上戦闘機60機が来襲した。翌16日には戦闘機と爆撃機約100機が飛来、120戸が焼失や倒壊などの被害を受けた。以後も空襲は断続的に続いた。米軍の侵攻は空からの攻撃に留まらなかった。7月3、4の両日、巡洋艦、駆逐艦が来襲、艦砲射撃を加えた。
艦砲射撃の最中、登喜子は家族と共に、自宅近くの防空壕に避難していた。別の一家も同じ壕に避難していた。砲撃が始まった当初は、東の海から発射された砲弾が島を飛び越え、西の海に落ちていった。
硫黄島は小さな島だ。砲撃はうまくいかないのだろう。そう思った矢先、「ボーン」という轟音が近くで響いた。防空壕が揺れ、生き埋めになるのではないかと思った。壕内にいた別の家族の二つ年上の少女が「死んじゃうよ、死んじゃうよ」と泣き出した。その父が怒気を含んだ声で言った。「トキちゃんは泣いていないだろう。年上なのにわーわー泣いてどうするんだ」。
砲撃は母屋の近くに建てられていた便所に直撃していた。爆風はガジュマルの木に遮られ、母屋は無事だった。先祖たちが植えた木が守ってくれたのだ。
そして、運命の日は、突然訪れた。
最後の艦砲射撃から5日後の7月9日。登喜子は自宅の庭で、一人で遊んでいた。慌てた様子で帰宅してきた父が、切迫した口調で登喜子に言った。
「今すぐ荷物をまとめなさい」
父は家にいた姉たちにも同じように伝えた。命令によって本土に引き揚げることになった、だから急いで大事なものだけ持っていくようにしなさい。そうも伝えた。
登喜子はランドセルに大切なものを入れることにした。迷っている時間はなさそうだった。とっさに入れたのは教科書だった。鉛筆や下敷きなどの文房具も入れた。着替えも入れた。姉たちも慌てた様子で、衣類を鞄に入れたり、風呂敷に包んだりしていた。疎開船に乗る場所は西海岸だと教えられた。
自宅を出る前、近くのテントを拠点としていた顔なじみの兵士たちに別れの挨拶をした。兵士たちに、マンゴーが実っている場所、食べ頃の時期、雨水のタンクの場所などを教えた。日ごろ可愛がってくれていた兵士の一人が登喜子に対し、わが子のように優しく語りかけた。「トキ坊、知らないところに行くんだから十分に気をつけるんだよ」。
まとめた荷物を持ち、一家は家を出た。登喜子はランドセルを背負って歩いた。まるで学校に行くような姿だった。千里あんちゃんは足が不自由な祖母をおんぶした。
やがて、西海岸に着いた。
沖に疎開船が停泊していた。海岸には大勢の人がいた。艀に乗って疎開船に向かう島民は高齢者や子供、女性ばかりだった。若い男性島民たちは軍を手伝うために島に残された。艀に乗る島民も、海岸に残る島民も、悲痛な面持ちだった。乗る者は、残された息子や夫、父がどのような運命をたどるのかと憂慮し、見送るほうも、敵の戦艦や潜水艦に攻撃されることなく無事、本土にたどり着けるのか、と不安がった。
やがて登喜子らが艀に乗る順番が回ってきた。16歳の駿あんちゃんは別れ際になっても、じっとしていた。声をかけたら、駿あんちゃんは泣いてしまうのではないか。登喜子は声をかけることなく祖母と父、姉たちと共に艀に乗った。18歳の千里あんちゃんも祖母が海水に濡れないようにおんぶして一緒に艀に乗った。やがて艀が沖の疎開船に向けて動き出した。遠くなる故郷の海岸。無言のまま別れた駿あんちゃんは波打ち際のぎりぎりまで来ていた。僕も一緒に行きたいよう。そんな心の声が聞こえた気がした。
艀は疎開船に横付けされ、船に乗り込んだ。千里あんちゃんは祖母をおんぶして一緒に船に乗った。祖母を下ろすと、別れの言葉を言って艀に戻ろうとした。そのとき、登喜子はとっさに千里あんちゃんの服を掴んだ。「あんちゃんも、一緒に行こうよう」。千里あんちゃんは困った顔をしながら、みんな残るんだから行くわけにはいかない、というようなことを言い、艀に戻っていった。
疎開船が動き出した。残された若い男性島民たちが海岸に立ちすくんで見送っていた。波打ち際で手を振らず、茫然と立つ姿もあった。目をこらすと、駿あんちゃんだった。本土に向かう疎開船の甲板上から見えなくなるまで、駿あんちゃんはじっと立ち尽くしたままだった。それが最後に見た兄の姿だった。
本記事の引用元『死なないと、帰れない島』では、硫黄島の村が消えた日の出来事から始まり、全国に離散した島民と子孫はいまだに帰島が認められていない「ミステリー」に挑み、次々と知られざる歴史や事実を描いている。
酒井聡平(さかい・そうへい)
北海道新聞記者。土曜・日曜は、戦争などの歴史を取材・発信する自称「旧聞記者」として活動する。1976年、北海道生まれ。2023年2月まで5年間、東京支社編集局報道センターに所属し、戦没者遺骨収集事業を所管する厚生労働省や東京五輪、皇室報道などを担当した。硫黄島には計4回渡り、このうち3回は政府派遣の硫黄島遺骨収集団のボランティアとして渡島した。取材成果はTwitter(@Iwojima2020)などでも発信している。北海道ノンフィクション集団会員。現在、北海道日高郡新ひだか町在住。著者に『硫黄島上陸 友軍ハ地下二在リ』(講談社、第11回山本美香記念国際ジャーナリスト賞受賞)がある。最新刊は『死なないと、帰れない島』(講談社)。
【つづきを読む】「なんで日本はこんな戦争を始めちゃったのだろう」…日本人が知らない、硫黄島の「村が消えた日」