ポルシェを乗り回しモテモテだったAD時代を経て、20代で社長に成り上がるも、1億の借金を抱えやくざに監禁され破産。その後、世間から行方をくらませた男は50代で再び社長に。人生を諦めなかった男が若い世代に伝えたい
――「こんな人生もあるよ」。
株式会社ドリーム・ラボの社長で著者の奥川拓二氏の自伝『絶望できない男』から抜粋してご紹介!
『「ポルシェに乗るより、人を助ける方がアドレナリンが出る」…何度も裏切られても“まずは信用してみる”元テレビマン社長の強い信念』より続く。
人間関係の波に打たれて泳ぎ続けていると、それは疲れる。楽ではない。
「あいつのあれはどうしてやろう」
という懸案が常に3つも4つも、下手をすると10個くらい常に頭の中を占めているので、気の休まる暇がない。起きているときもそうだが、寝ているときは夢に出てくる。空を飛んでるとか地を這ってるとか、そんな夢を見たことがない。リアルな人間関係の夢である。
「おまえが困ってた例の案件やけどさ、こういうのはどう?」
と言って、
「な、ええプランやろ!」
と目が覚める。覚めるとプランは消え失せている。
「ああなんやったっけ」
と考えるともう眠れない。仕方がないので起き出して酒を飲み、また眠ろうとするが眠れずに、そのまま夜が明けてしまう。
憂鬱だ。好きでやってることだけど、常に憂鬱だ。病んでいるとすら思う。
「俺、鬱かもしれへん」
と言うと大概、大笑いされるのだが、自分の中ではそれくらい悩みでいっぱいだ。
だが最近、こう思うようになった。
「病んでる方がまともなんちゃうか」
と。中学生のときに親父に言われた。
「動物の中で、人間だけが悩むんやぞ。悩まんようになったら人間じゃなくなるねんぞ」
その伝でいったらこの悩み具合、立派に人間らしいということになる。
ややこしい人間関係を全部捨てて、南の島でぼーっとしたい、という気持ちもわからないではない。年を取るとだんだんと交友関係も減って、そうした悩みもなくなっていくのかもしれない。でもそれってどうなんだろう。裏切られるかもしれない。嫌な思いをするかもしれない。そういうリスクを負ってでも、一人でも多くの人間と知り合うのが生きがいだ。そこに人がいなければ、なんのために生きているのかとすら思う。
容子と結婚したのは43歳のときのことだが、付き合いはバイト先のアメリカンパブで知り合ってからだから、その25年前から続いていた。
「一目惚れやったから」
容子は人にもそう公言してはばからない。
「一目見たときに、あ、かわいいと思った」
と言う。
「私、容子というんです」
と挨拶すると、
「僕のことはタクって呼んで」
と言ったらしいのだがこっちはそんなこと覚えていない。
はじめて遊びに行ったのは知り合って1ヵ月たったころだった。食事が終わったすぐ後に、
「ホテル行こ」
と言ったというのだがこれも覚えていない。だが言ったと言われてもおかしくないほどそのころは遊んでいた。
「いや、僕ら18と19で大人やし、ホテル行こ」
容子は、
「アホちゃうか」
と思ったといまでも言う。
それから7年間くらい、容子とはくっついたり離れたり、といっても別れたりよりを戻したりというのではなく、付き合ってはいるのだが関係が濃くなったり薄くなったりしていた。
「あんたの誕生日の12月3日に、あんたが誰と一緒にいてるか–。それで毎年ややこしいことなってたよね」
申し訳ないことにこっちは仕事の忙しさに比例して女の子との付き合いも忙しくなっていた。
「それで私の誕生日のバレンタインデーには一緒にいてくれて仲直りする、その繰り返しやったやんね」
ティービーズが最盛期のころ、天満橋のサウナ付きのマンションに住んで、夜な夜な人を呼んでパーティーみたいなことをしていた。
「遊びに行くと洗濯機の中には必ず女の子の下着が入ってて。あんた言うたよね。俺は確かにいろんな女の子と付き合っているけど、それを全部知ってるのはおまえだけやって。どんな言い訳やねん」
やっぱり恋人は容子だと思っていた。ひどい話だと思うのだが、最初の妻との間に子どもができたときも容子に相談した。
「結婚すべきやろうか」
容子は黙って聞いていて、
「そら親になるんやから、ちゃんとした方がええんとちゃう」
と言った。
ティービーズがいよいよダメになるとき、深夜のファミレスで容子と会った。人前では弱音を吐かないようにしていたが、容子にだけは違った。
「一生懸命やってんねんけどな」
そういって泣いた、と容子は証言する。そこまでの記憶はないのだが、唯一甘えられる存在だった。
それはトラックに乗っているときも同じだった。借金を返済し終わるまで会うまいとは決めていたが、毎日の電話は心のよりどころだった。どうやって容子を笑わせるか、そのことばかり考えていた。
容子は物持ちがいい。
「掃除してたらこんなん出てきてん」
この間、見せにきたのは電話で付き合っているときの、容子への誕生日プレゼントだった。指輪と一緒に贈ったカードに、
「絶対に幸せにするからな 待っててや!」
と書いてあった。
もっと恥ずかしいのもあって、結婚したときに書いた誓約書だ。
容子様 私は、以下の事項を厳守することをここにお誓いいたします。
一、容子が嫌がるので一緒に風呂に入ることは強要しません
一、給料の管理はすべて任せる
一、車を買ったら雨の日は、自ら進んで、嫌な顔ひとつせずに送り迎えします
一、浮気は絶対にしません
ほんまか、と言われそうだが。
この10年は東京と大阪に離れて暮らしている。週末に大阪に戻り、月曜日に東京へ、という生活だ。だから休みの日にはずっと容子と一緒にいる。他の用事は入れずにずっと一緒にいる。
最近、容子は、
「あんたいつまで東京におるつもり?」
と言うようになった。
「こっちに家も買って、嫁もいて、還暦過ぎて、なんかいつまでっていう区切りはないのん?」
そう言われても困ってしまう。なにしろこっちは、
「止まったら死ぬ」
のだから。
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