長年の勤めを終え、「夢のセカンドライフ」を自然豊かな地でスタートさせる。そんな理想を抱く人は少なくありません。しかし、絵に描いたような暮らしの裏には、予期せぬ「現実の壁」が潜んでいることがあります。 本記事ではAさんの事例とともに、老後の移住における注意点について、CFPの伊藤貴徳氏が解説します。※プライバシー保護の観点から、相談者の個人情報および相談内容を一部変更しています。
都内のメーカーで技術職として40年近く勤めてきた65歳のAさん。転勤はあったものの社宅を拠点に、同い年の妻と二人三脚で堅実に30数年間を過ごしてきました。子どもたちはすでに独立し、それぞれ都内で家庭を築いています。
定年退職を控え、Aさん夫婦には共通の願いがありました。それは、「今度こそ、自分たちのために生きたい」ということ。子どものために働き詰めで過ごした日々を終え、第二の人生を心からリラックスできる環境で過ごしたいという思いが募っていったのです。
退職金は約2,000万円。加えて、公的年金が夫婦で月26万円(Aさん18万円、妻8万円)支給される予定です。子の教育費など、大きな支出もひと段落し、ようやく自由に過ごせると安心感を抱いていました。
そこでAさん夫婦が選んだのが、長年憧れていた「軽井沢」への移住です。軽井沢と聞くと避暑地のイメージが強いですが、近年は年間を通して暮らす移住者が増えています。自然豊かな環境で静かに過ごせるだけでなく、都心へ新幹線で1時間程度という“絶妙な距離感”も魅力の一つです。
Aさんは転勤で経験した地方暮らしが肌に合っていたため、定年後は東京を離れたいと考えていました。一方、妻は子どもが小さかったころに家族旅行で訪れた軽井沢に愛着があり、「いつかここで暮らせたら」と夢見ていました。こうして、二人の移住先は軽井沢に決定したのです。
社宅退去と定年退職のタイミングが重なったこともあり、「いま動かないと、一生後悔するかもしれない」と、思い切って軽井沢にある築20年の中古別荘を1,200万円で購入。さらに約600万円をかけ、水回りや断熱工事、薪ストーブ設置など、老後の快適性を追求したフルリフォームを施しました。
「朝は小鳥の声で目覚め、午後は地元のカフェで本を読む。これこそが理想の老後だと思ったんです」と語るAさん。都会の喧騒を離れた“静けさと自然”のなかで、第二の人生をスタートさせたのでした。
移住当初は、まさに絵に描いたような理想の生活でした。
購入した物件は地元の不動産業者に紹介された別荘で、築年数が経過しながらも、しっかりと管理されていたことが決め手になりました。周囲は木々に囲まれ、春は芽吹きの緑、夏は涼やかな風、秋は色づく紅葉、冬は真っ白な静寂――四季折々の自然が生活そのものに溶け込んでいます。
「朝起きてカーテンを開けると、窓いっぱいに広がる森の景色。それだけで心が洗われる気がするんです」とAさん。
新生活が始まってからは、朝に夫婦で散歩をするのが日課に。近所には地元の有機野菜を販売する無人販売所があり、散歩のついでに旬の野菜を手に入れる楽しみも加わりました。週に数回は、駅近くのカフェまで足を延ばし、ゆっくりコーヒーを楽しむのがAさんの趣味に。妻は地元の手芸サークルに参加し、参加者との交流も深めていきました。
さらに、移住者同士の交流も盛んで、「Uターン組」「Iターン組」と呼ばれる人たちと自然とつながりができ、バーベキュー大会や季節のイベントにも参加するように。「移住前は、田舎では“よそ者扱い”されるんじゃないかと不安もありました。でも実際は、同じように都会から来た人たちもいて、みんなで支え合う雰囲気を感じたんです」と妻はいいます。
都会の喧騒から解き放たれ、時間にも心にもゆとりが生まれる暮らし。通勤に追われていた日々が遠い昔のように思えるほど、Aさん夫婦は心から「移住してよかった」と実感していました。
しかし、その“理想郷”が、永遠に続くものではないことに、ふたりが気づきはじめたのは、それから半年後のことでした。
それははじめ、夫婦の会話に「なんとなくの違和感」として現れました。
「ちょっと、今月のガス代見た?」「うん……びっくりしたわ。薪ストーブだけじゃ足りないってわかってたけど、こんなにかかるなんて……」「灯油代と電気代を足すと、東京にいたときの倍以上だよ」――軽井沢の冬は都心とは比べものにならないほど寒く、朝晩の冷え込みも厳しい地域です。リフォーム時に断熱を強化したつもりでも、やはり暖房費は想定を上回るものでした。
さらに、家計を圧迫したのは車の維持費です。移住後は夫婦それぞれ1台ずつ軽自動車を保有していましたが、タイヤ交換、車検、定期点検……その費用は徐々にAさんを不安にさせます。
「駅まで歩けない距離だし、買い物も病院も車がなきゃ無理。でもこの歳で2台は維持しんどいな……」という言葉も漏れるように。妻も「私、最近ちょっと膝が痛いの。病院、片道30分もかかると行くのが億劫になっちゃうのよね」と零します。軽井沢は観光地としては整っていますが、通年居住となると医療機関の数やアクセスに課題があり、特に高齢者にとっては、距離や天候が受診の大きなハードルになることを痛感しました。
加えて、地元のコミュニティ活動や町内会費も、地味に出費がかさむ要因に。最初は「地域に溶け込むための必要経費」と考えていたAさんですが、固定的な年金収入のなかで出費が増える一方、貯蓄に手をつけざるを得ない状況が続きます。
「年金で暮らしていけると思ってたけど、思ったより出費が多いし、貯金の取り崩しが早い気がするわ……」
老後生活に「ゆとり」と「安心」を感じていたはずのAさん夫婦。しかし、現実には「想定外の支出」と「不便さ」が少しずつ精神的な負担となり、“理想の生活”と“実際の暮らし”にズレが生じはじめていたのです。
移住生活3年目の冬、ついに決定的なトラブルが発生します。Aさんの妻が自宅の玄関前で転倒し、左足を骨折してしまいました。「まさか、自分が動けなくなるなんて思ってもみなかったわ……」
軽傷とはいえ、術後のリハビリが必要となり、要支援1の認定を受けることに。Aさんも心配しながら付き添いを続けましたが、そこで大きな壁に直面します。それは、「介護サービスを受けるまでの地域格差」でした。
軽井沢町にも訪問介護やデイサービスの施設はあります。しかし、高齢化が進むなか、ケアマネジャーや介護士の人手不足は深刻で、サービス利用開始までに数週間待ちという現実。さらに、訪問可能エリアが限られており、Aさん宅は「優先順位が後回しになりやすい地域」に該当していました。
「東京ならすぐに受けられるサービスが、ここでは“待つ”ことが必要なんだよな……」
日々の買い物や通院は車がなければ成り立たず、Aさんの妻が動けない状況では、Aさん一人に負担が集中。さらに雪が積もる日には外出もままならず、心身ともに疲弊していくAさん。「軽井沢移住なんてやめればよかった」そう漏らすAさんに、自分のせいで夫を追い詰めてしまったと、妻は自らを責め立てます。夫婦関係が悪化しつつあった、そんなとき、離れて暮らす娘夫婦から電話があります。
「お父さん、お母さん。軽井沢の生活は素敵だけど、今後のこともあるし、もう一度こっち(東京)で一緒に考えようよ」この言葉が背中を押す形となり、Aさん夫婦は「自宅を売却し、都内で再スタートする」という苦渋の決断を下します。
当初1,200万円で購入し約600万円をかけてリフォームした住まいは、幸い、都内からの移住希望者に売却することができ、損失は小さく抑えられました。
「軽井沢での生活は、人生で一番贅沢な時間だった。でも、現実の壁は想像以上に高かった」
Aさん夫婦は現在、東京都内の賃貸マンションで暮らしています。近くには娘夫婦と孫もおり、通院や介護の手続きもスムーズ。決して当初の理想どおりではないかもしれませんが、「安心」という視点では、今の暮らしが彼らにとってしっくりきているようです。
軽井沢での3年間は、Aさん夫婦にとってかけがえのない時間でした。しかしその経験を振り返ったとき、「理想を描くだけでは老後の生活は成り立たない」と痛感したといいます。ここでは、Aさん夫婦の体験をもとに、老後の夢を夢で終わらせないために必要な3つの視点をご紹介します。
移住先を選ぶとき、多くの人が「自然が豊か」「静かで落ち着く」といった“非日常的な魅力”に惹かれがちです。Aさん夫婦もその一組でした。しかし、実際に暮らしが始まると、必要なのは「日常の過ごしやすさ」。買い物の便利さ、通院のアクセス、近所づきあいの気楽さ――こうした“当たり前の生活”がしっかり成り立っているかが、老後の満足度を大きく左右します。下見は「観光気分」ではなく、「平日」「雨の日」「冬」など、リアルな日常を体験するつもりで行いましょう。
「まだ元気だから大丈夫」と思いがちですが、介護や通院は“ある日突然”必要になるものです。Aさん夫婦は、医療機関までの距離や介護サービスの空き状況などを後回しにしてしまった結果、生活の継続が難しくなりました。
移住を考える段階で、その地域の医療・介護インフラ(診療所、総合病院、ケアマネの数など)を調べておき、「もしものときに頼れる選択肢」があるかを確認しましょう。
退職金という大きなお金を手にすると、「一括で家を買おう」「設備を整えよう」となりがちです。Aさんも、リフォームに数百万円をかけ、手元の現金が一気に減ったことが、家計の圧迫感につながりました。老後は、“収入が増えない”時代。だからこそ、退職金は「時間をかけて使う資産」と考えることが大切です。固定費を洗い出し、将来の想定外支出にも対応できる“余白”を持つキャッシュフロー設計を行いましょう。
Aさん夫婦は「夢をかなえること」と「持続可能な生活」とのあいだにあるギャップを、身をもって経験しました。理想の老後は、準備とバランス、そして柔軟性――その3つが揃って初めて叶えられるものでしょう。あなたのこれからの人生設計にとって、このAさん夫婦の経験が、ひとつの気づきになれば幸いです。
伊藤 貴徳
伊藤FPオフィス
代表