「学校のことを考えると、震えが止まらない」小6の娘が“いじめ”を明かすと、虐待していた母親はその場で…

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〈「きっかけは些細なことだった」難関小学校で起きた徹底的ないじめ…小5の女子児童を苦しめた“母親の影響”とは〉から続く
幼少期より実の母親からあらゆる虐待を受けていた、ノンフィクション作家の菅野久美子さん。『母を捨てる』(プレジデント社)は、母親の呪縛から逃れるため人生を賭けて「母を捨てる」までの軌跡を描いた壮絶な一冊だ。
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小学校高学年に上がると、母親が選んだ服装などを理由に、クラスメイトから“いじめ”が始まった。中学に進学する直前、意を決して「いじめにあっている」と告げると、母親はその場で――。本書より、一部を抜粋する。(全4回の4回目/はじめから読む)
※写真はイメージ kana_design_image/イメージマート
◆ ◆ ◆
休み時間になると、私が近づくだけで、誰もがすさまじい勢いで笑いながら逃げていった。私は「バイ菌」で、私に触れたら何かに「感染」するらしい。それは、同時に私と「同類」のカーストに落ちるということでもあった。クラスメイトの誰もが、私のように「仲間外れ」にされることを恐れ、この同調圧力による残酷なゲームにのっかっていた。
そのため私は、誰一人としてクラスメイトに近づくことは許されず、プリント用紙を手渡そうと男子に近づいただけで、「近づくな!」と蹴られたこともあった。そして、私はますますクラスメイトから孤立するという、いばらの道を辿っていくのだった。

いじめで一番困ったのが、昼休みの時間だ。授業時間や授業の間の休み時間はまだいい。しかし、昼休みの時間は45分近くもある。そして、その時間は誰もが友だちと遊んでいる。本来であれば勉強から解放される子どもにとって一番楽しい昼休みは、私にとってはもっともつらくて苦しい時間でもあった。
私には遊んでくれる友だちが誰一人いなかった。そして、そんな長時間、教室にいてもいじめの餌食となるだけなのだ。私が長い昼休みをどう過ごすか、それは大問題だった。
そんな私にとっての唯一の居場所が、図書室だった。
昼休みの図書室はガランとしていて、基本的に誰もこない。だから私は図書室にこもって本ばかり読んでいた。私は動物の伝記モノに夢中になった。椋鳩十に『シートン動物記』、『ファーブル昆虫記』、江戸川乱歩のようなミステリも読んだ。
動物の世界には人間の世界のような意地悪さがなかった。本だけが私の友だちだった。空想の中に飛び立てば、つらい現実から逃げられる。学校というどこにも行き場のない閉鎖空間で、私にとって外に開かれていたのは図書室だけだったのだ。
読んでも読んでも図書室には無限に本があった。私には図書室しか居場所がなかった。行く場所がなかった。図書室は逃避場所で、本の中の世界にいるときだけ、私はこの不自由な体を脱ぎ捨て、唯一自由になれた。
図書室の窓の外から聞こえるサッカーボールを蹴り上げる音、そしてグラウンドを駆け回る男子の声。窓から窓へ抜けていく風。たなびくカーテン。舞い上がる校庭の砂ぼこり。私が小学校時代の記憶でいつも思い出すのは、そんな図書室の窓越しに見える光景だ。

母によってアイデンティティをボロボロにされた私は、学校でもやっぱりボロボロになった。私は、いつだって誰かの格好のサンドバッグだった。人権なんて、なかった。そんな役割が当たり前だと思って生きてきた。
そうして自己肯定感を持てないまま、大人への階段を駆け上がっていった。
結局、私は小学校を卒業する間際までの2年間、いじめを耐え抜いた。しかし、限界が近づいていた。私にとって、中学進学が日に日に近づいていたからだ。それは、私にとって一番の恐怖であった。
私はわかっていた。中学校に上がっても、きっとこのいじめは続く。この生き地獄は何も変わらず続いていく。いや、それでさえ楽天的な見通しに過ぎない。一番考えられるのは、いじめが、もっともっとひどくなるということだ。
うちの学区の中学校はマンモス校だ。他校の生徒も合流することになっている。私はその大量の同学年たちから、小学校時代とは比較にならないいじめを受けるだろう。しかも、中学になると先輩後輩関係が厳しいという噂もあった。だから先輩たちからもいじめを受けることになるのは必至だ。
きっとこの小学校時代は、まだまだぬるま湯なのだ。私は、暗黒の中学生活を想像するだけで、怖くて足がすくむようになった。中学校に行きたくない。いや、それどころか、もう生きたくない。そうして、毎日「死」を考えるようになった。
死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい。
そんな言葉が頭の中を渦巻いてとまらないのだ。
小学校の卒業が日に日に近づくにつれ、私は鬱状態になっていった。食事が喉をとおらないのだ。そしてついに朝、布団から出ることができなくなった。体が鉛のように重い。体が重い。心が重い。学校のことを考えると無気力になり、震えが止まらなくなる。
母は当初、「サボってんじゃないわよ!」とそんな私の布団を引きはがし、無理やり学校に行かせようとした。しかし、私の尋常ではない様子にただならぬものを感じたようだ。そして、学校で何があったのか、問いただそうとした。
ここまできたら、母に本当のことを話すしかない。私は、重い口を開いた。2年間、いじめにあっていたこと。そして、中学に進学すると、それがますますエスカレートする可能性があること――。 母はその場で、ストンと崩れ落ちた。まさか、わが子が学校でいじめにあっていたなんて、思いもしなかったらしい。母は、もう学校に行かなくてもいい、と言った。今思うと、母のこの選択だけは間違っていなかったと思う。そもそも、もう私の心身はズタズタに傷ついていて、学校に行けるような状態ではなかったからだ。
何も感じないと心に決めていたが、やっぱり、あのときの私にとって、いじめはつらかったのだと思う。小学校時代を思い返してみて、私の心に浮かび上がるのは悲しみの感情だからだ。どんなに心に蓋をしても、強がっていても、長年のいじめで私の心は悲鳴をあげていた。
コップの水があふれてこぼれ落ちるみたいに、じわじわと自分の内部から感情があふれ出したのだった。気づかぬうちに私の心は修復不可能なほど、ズタズタに傷ついていた。
そして、私はその日から不登校になった。あの過酷ないじめが待っている環境に、もう戻らなくていい――。それだけが救いだった。
(菅野 久美子/Webオリジナル(外部転載))

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