「時間つぶし」と称して15歳少女に性的暴行…見ず知らずの一家4人を惨殺した「史上最悪の少年犯罪」死刑囚の告白

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1992年に発生した、史上最悪の少年犯罪――犯人は当時19歳の少年で、見ず知らずの一家4人を一夜にして殺害した。少年はなぜ凶行に走ったのか? 死刑確定までの3年余り、犯人と対話を重ねた作家・永瀬隼介さんが事件をふりかえる。
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◆◆◆
鋏(はさみ)で封を切る。ん? なんだ、この匂いは――真っ白な封筒から薄青色の便箋を抜き出し、嗅いでみる。香水だ。獄中の男から届いた最初の手紙には、上等の香水がたっぷり振りかけてあった。
男の名前は関光彦(せきてるひこ)。1992年3月6日、19歳時に千葉県市川市のマンションに押し入り、4歳の幼女、両親、83歳の祖母の一家4人をなぶるようにして惨殺。その遺体の傍らで、ひとり生き残った長女(15歳)を「気分転換、時間潰し」と称し、強姦している。まさに鬼畜の所業である。
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一夜で4人の命を、虫をひねり潰すがごとく奪った光彦は、逮捕後もその冷酷ぶりを遺憾なく発揮し、取り調べに当たったベテラン刑事を唖然とさせた。
「あんな殺人犯は見たことがない。三度のメシを腹いっぱい食い、夜は大いびきをかいて熟睡している。人間じゃありませんよ」
面会に訪れた母親には、高校時代の教科書と参考書を差し入れさせている。出所後に備え、資格のひとつも取得しようと考えたのだ。
未成年だから死刑は無いだろう、少年院で罪を償い、また出直せばいい、とその程度の罪の意識だった。
しかし、地裁、高裁、共に死刑判決を下し、2001年12月3日、最高裁は上告を棄却して死刑が確定した。
わたしは死刑確定までの3年余り、葛飾区小菅の東京拘置所に通ってインタビューを重ね、手紙を交わし、被害者遺族をはじめ多くの関係者の証言を得て、拙著『19歳 一家四人惨殺犯の告白』(角川文庫)にまとめた。
手紙に香水を振り撒く“配慮”と、酸鼻(さんび)を極めた大量殺人との落差に眩暈(めまい)がする思いだったが、光彦の複雑極まりない素顔と、暴力に彩られた半生を知るにつけ、違和感は薄らいでいった。
〈僕は高校も中退してしまい、(中略)ひどく無学でたいしたことも書けません。稚拙な文章になり、要領を得ない通信になるかと思います〉
香水を振りかけた一通目の手紙はこんな断りから始まっている。当時27歳の光彦から届いた便りは、横書きの便箋に黒のボールペンで丁寧に綴ってあり、しっかりとした読みやすい文字である。文章も平易で簡潔で、判りやすい。たとえば暴力の持つ達成感、陶酔感はこんな言葉で綴る。
〈傷害にしろ、強姦にしろ、他人の血を見るということは興奮するものです。とくに、しだいに相手が弱ってきて自分に従うようになり、どうにでも好きなように動かせるとなった時に見るそれは、僕の中では勝利の象徴として溜飲を下げるのに大いに役立ちました〉
暴力に取り憑かれた男、関光彦は1973年1月、千葉県松戸市に生まれている。母親は教育熱心で、幼いときからスイミング、ピアノ、英会話を習わせた。5年後、弟も生まれ、傍目には幸せそのものの家族だったが、実は他聞を憚る宿痾(しゅくあ)を抱えていた。遊び人の父親の猛烈なDVである。光彦は全身に生傷が絶えず、大好きなスイミングに通えないこともしばしば。父親の放蕩は加速するばかりで、酒を浴びるように飲み、若い愛人と高級外車を乗り回してギャンブル三昧。消費者金融、闇金の借金は億単位にのぼった。
一家はあっけなく崩壊し、母親は息子2人と共に、葛飾区や江東区を転々とした。食事にも事欠く極貧生活の中、債鬼に追われ、夜逃げしたことも。幸い、鰻店チェーンを経営する祖父の援助があり、母親はなんとか生活を立て直すも、光彦は小遣い銭欲しさに浅草の繁華街をうろつき、かっぱらい、賽銭泥棒を繰り返した。
中学に入ると、口うるさい母親を殴り倒し、幼い弟に手ひどい折檻を加えた。外ではワル仲間とつるんでケンカ、恐喝、窃盗の日々。
高校受験には当然ながら失敗。渋々滑り止めの高校へ入学するが、2年に進級後「こんなレベルの低い高校では大学に進めない」と中退。大恩ある祖父とも衝突し、左目を蹴り潰すという信じ難い凶行に及ぶ。光彦の暴走を止める者はもう、どこにもいなかった。
「逮捕された当時から、いまのように普通に会話ができたわけではありません」
刑務官立ち合いのもと、東京拘置所の面会室で相対した光彦は、質問の一言一言にうなずく、穏やかな男だった。話す内容も理路整然としており、身長180センチ近い骨太の身体も相まって、スポーツマンタイプの物静かな青年といった印象である。
「面会に来た親とは怒鳴り合い、よく注意されていました。つくづく、世間知らずの子供でした」
まるで修行僧のような泰然とした物腰に面食らい、「あなたが4人を殺害したとは信じられない思いです」と率直な気持ちを告げると、表情が一変した。顔を苦しげにゆがめ、
「僕は猫をかぶっていたんです」
別人のような低い声で呪いの言葉を吐き散らす。
「うちの親はバカでいい加減で、僕が小学4年のとき、借金が原因で夜逃げして、小汚いアパートに身を潜めて、ドブネズミみたいに生きてきました。学校では貧乏だからとイジメられて、すべてがつまらなくて、どんどんワルくなって、そのワルい自分を隠していたんです」
長じて祖父の目を蹴り潰した光彦は、だれはばかることなく暴れ回り、おぞましい犯罪に手を染める。真夜中、杉並区高円寺の友人宅からクラウンを飛ばして帰る途中、歩道を歩く若い女に目を留め、ゆっくりと停車。ドアを開けて外へ。以下、手紙より。
〈いきなり後ろから髪の毛をわしづかみにしてひきずり倒し、顔から血がしたたり落ちるまでアスファルトに何度も頭を叩きつけるという(中略)限りなく八つ当たりに近い、非道いものでした。それでも手は止まらなくて、さらに鼻の骨が折れたのを確認しながらも、鼻血まみれの顔を夢中で殴りつけるという徹底ぶりで、ひと頻(しき)り衝動が収まるまで力まかせに暴行を続けたのです〉
犠牲者は24歳のOLだった。光彦はぐったりした女性をクルマに乗せ、発進。青梅街道をひた走って都心を抜け、千葉県船橋市の自宅アパートへ連れ込み、強姦した。
〈一度強姦や強烈な傷害事件を成功させ、クリアしたことで、変な方向に自信を持ってしまい、もう一度やってみよう、出来るはずだ、出来るだろう、となっていったのです。少なくとも犯行の最中だけは、いつもの自分と違う無敵になれますから〉
悪魔のような万能感を得た光彦は翌日深夜2時、一家4人惨殺事件につながる凶行に及ぶ。
千葉県市川市の住宅街。夜遅くまで勉強していた15歳の少女はシャーペンの替え芯を買いに自転車でコンビニへ。自宅へ戻る路地で光彦のターゲットとなった。クルマで後ろから追突。転倒し、ケガを負った少女に優しく声をかけ、救急病院へ。治療を終え、帰りの車中で光彦は豹変。ナイフで脅してアパートへ連れ込み、強姦。現金を奪い、高校の生徒手帳から氏名と住所を控えている。
二晩続けて女性を襲った光彦も、暴力のプロであるヤクザには滅法弱かった。当時、フィリピンパブのホステスを無断で連れ出し、ケツ持ちの極道組織が激怒。少女を強姦した翌日、組長に呼び出され、荒っぽい手下の脅しの後、200万円を要求されている。
このままでは東京湾に沈められる――震え上がった光彦は以後、恐喝を繰り返し、現金を奪うも、200万にはまったく届かない。追い込まれ、狙った先が、少女が住む市川のマンションだった。当時、少女はフリーライターの母親と、再婚相手のカメラマンの継父、祖母(継父の母)、4歳の妹の5人暮らしである。

事件当日の手紙の描写は綿密で、凄惨で、犯人でなければ書けない異様な迫力に満ちている。
夕刻、侵入した部屋には祖母ただ1人。光彦は通帳と現金を出すよう迫った。ところが――。
〈そのオバアさんは僕に従うことはせず、ここにあるだけならくれてやる、といって、自分の財布から数枚の札を放り投げるようにして出しただけ。しまいにはスキをつかれて電話に手をのばし、通報しようとすらされてしまったのです〉
激高した光彦は体当たりを食らわせ、馬乗りになった。が、83歳の祖母は果敢に抵抗し、爪を立て、唾を吐きかけた。
〈床に配線してあった電気コードを力ずくで引っこ抜き、手元にたぐりよせ、それをオバアさんの首に巻きつけて、このヤロウふざけやがって、老いぼれのくせに、と思い切り引っ張りあげました〉
初めてひとを殺した光彦は洗面所へ駆け込む。
〈頭から顔、首、手に服と、吐きかけられたツバを何度も何度も洗い流しました。(中略)そのくさい汚物を吐きかけられたことはショックで、行為そのものも許しがたいことだったのです〉
ショックとか、許しがたいとか、いったいどの口が言う、と呆れるばかりである。実は拘置所の面会室でも犠牲者を冒涜する言動があり、さすがに咎めると、一転、寂しげな表情でこう訴えてきた。
「もっと早くあなたと出会っていればよかった。塀の外で会っていたら僕も変わっていたと思う。僕にはそうやって叱ってくれる人間がいなかった」
この殊勝な言葉が仮に本音だとしても、すべては後の祭りである。
殺害現場に戻る。金品を物色している最中、少女と母親が帰宅する。
詳細は省くが、母親は勇敢にも、突きつけてきた包丁にもまったく怯まず、文字通り命がけで抵抗する。が、冷酷な殺人鬼を前に、娘だけは守りたいと覚悟を決めたのだろう。指示に従って床に這うと、光彦は腰のあたりを3度刺し、死に至らしめた。
次いで保育園の保母に連れられて4歳の妹が帰宅。3人で夕食を摂った後、光彦は「気分転換、時間潰し」で少女を強姦。継父が帰ってくると、背後から忍び寄り、肩を一突き。光彦はひとを刺し殺す感触をこう書く。
〈人間の体なんて、思ったよりスウッと力が入っていくものだな、と考えたりしたものです。もっと骨とか筋肉とか(中略)手に力が必要なのだろうと思っていたら、全然そんなことはなくて、あれならうなぎをさくときの方がよっぽど力がいるんじゃないかと〉
4歳の幼女に手をかける場面は悲惨で、残酷で、言葉もない。目の前で鬼畜に妹を殺された少女の心情たるや察するに余りある。
明け方、突入した警官隊によって光彦は身柄を拘束され、地獄のような一夜に幕が降ろされた。
光彦は逮捕後の心境をこう綴っている。
〈死刑なんてものは自分とはおよそ縁遠いもので、一度殺人を犯しておきながら、刑期を終えてから、あるいは仮釈放中に懲りずにまた同じ過ちを犯すような、どうしようもない、見込みのない連中の受ける刑罰だと。五〇、六〇過ぎて人を殺すような奴らと一緒にされてたまるか、とそういうのもありました〉
少年犯罪への、その手前勝手な認識には驚くべきものがある。
〈20歳までの未成年ならどんな事件を起こしても(中略)全員が全員、少年鑑別所へ行って、そこから少年院てとこへ入れられるものだという程度の知識しか持ちあわせていなかったのです〉

無知で愚かな鬼畜の誤算である。地裁、高裁と死刑判決が下され、自暴自棄になったのか、面会の席ではこんな啖呵も切ってみせた。
「とっととくたばりたいんですよ。許されるならこの場で切腹でもして、自分の手で責任を取って、潔く死んでしまいたい。死刑が決まった人間を無駄に長生きさせる必要はないと思います」
しかし、最高裁による死刑確定後は、威勢のいい物言いとは裏腹に再審請求を繰り返し、刑の執行まで16年もの歳月(2017年12月19日執行 享年44)を要した。犯行当時未成年の死刑執行は、1997年の永山則夫(享年48 19歳でピストル連続4人殺害事件を引き起こす)以来、20年ぶりである。
漏れ伝わる話によれば、弁護人のアドバイスで三度の食事と間食を詰め込むだけ詰め込み、元々大柄な身体はさらに大きくなり、体重120キロ超に達したという。絞首刑の回避を狙った肥満化とのことだが、まったく無駄な努力に終わった。哀れ、としか言いようがない。
(永瀬 隼介)

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