「10年前、その姿で飛行機に乗れたかしら?」元CAが炊き出しの列に並ぶまでに…エリート女性の“転落”体験

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〈「大学院まで進学し、実家暮らしの僕こそ最弱」「学歴のない女性にマウンティングされる」40代“高学歴難民”男性の苦悩〉から続く
一時はエリートと呼ばれ、順風満帆な人生を歩んでいたが、いつしか居場所を求めてさまようことになってしまった「高学歴難民」。
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NPO法人「World Open Heart」の理事長として、これまで加害者家族の支援や講演・執筆活動などに取り組んできた阿部恭子さんが、その実態に迫った『高学歴難民』(講談社)より一部を抜粋。
CAから検察官への転身を志したものの、思い通りにいかないことばかり。高学歴という「烙印」にも苦しむ相澤真理(仮名・40代)のケースを紹介する。(全2回の2回目/最初から読む)
◆◆◆
私の人生は、25歳まで完璧でした。
前職は、国際線のキャビンアテンダント(CA)です。採用された時、両親は涙を流して喜んでいました。私は就職が決まるなり、出身大学の広報誌や地元メディアから取材を受けるようになり、人も羨む順風満帆な人生を歩み出しました。
AFLO
私は中部地方の、いわゆる「お嬢様学校」と呼ばれる私立の中高一貫校を卒業し、地元の私立大学に推薦入学しました。
小さい頃から学校の成績は良く、運動会や学芸会でも活躍し、成績表にはいつも「5」が並んでいました。ダラダラするのが嫌いで、宿題でもなんでもすぐ取り組んで完璧にやる子どもでしたから、両親や先生からいつも褒められてばかりいる「いい子」だったと思います。
私は会社員の父親と専業主婦の母親の下に長女として生まれ、2歳年下の弟がいます。就職して上京するまでは、地方都市で家族4人で生活してきました。
母は私を「お嬢様」に育てたかったようで、私は幼い頃からピアノやバレエ教室に通わされていました。志望校も母が決めたようなものでしたが、経済的にゆとりのある家庭ではありませんでした。
父親は高卒で母親は短大卒。父の年収は高い方ではありませんでした。それでもローンを組んで一戸建ての家を買い、子どもたちの教育費を捻出するため、母はいつも頭を悩ませていました。
私立のお嬢様学校ですから、お金持ちの子が多く、友達は年に一度、家族で海外旅行に行っていました。うちは余裕がなく、旅行と言えば近県の祖父母の家に行く程度で、私は友達と話を合わせるために、海外の事情や空港の様子を調べるようになったんです。それが、CAを目指したきっかけです。
大学の成績も良好で、氷河期世代の同期たちが就職活動に悪戦苦闘する中、私は難なく第一志望の職種に就くことができました。周囲からは羨ましがられましたが、私にとっては当然の結果と感じていました。
入社後、私は誰よりも早く出社し、掃除をしたり、仕事を早く覚えたりするように努めていました。休日は語学教室に通い、体力が必要な仕事でもあるので、ジムで体を鍛え、万全に備えていたのです。
期待に胸を膨らませて入った職場でしたが、同僚たちとはみ合いませんでした。
私は完璧に仕事がしたくて努力しているのですが、周りは飲み会とかプライベートな話題ばかりに夢中でついて行けませんでした。
CAは花形の職業と言われますが、一部では「色物」のように扱われることもあります。私はこういう人たちが全体の評判を落としているのだと、軽蔑し、仲間に入ることはありませんでした。
いつも時間ギリギリの行動でバタバタしている同僚のひとりは、物覚えが悪く、何度も同じことを私に尋ねるので、「一度で覚えて」と注意したことがありました。
それでも改善が見られず、我慢の限界に達した私は上司に相談したのですが、融通が利かないのは私の方だと逆にお叱りを受けることに……。なんでも、彼女は乗客からの評判がすこぶる良く、私は口調がきつくてクレームが多いと……。
真面目に努力しているより、要領よくヘラヘラしている方が評価される職場なのかと失望しました。客室でも屈辱的なことは日常茶飯事でした。ルールを守らないお客様に注意をすると「黙れブス! 消えろ」などと暴言を吐かれることもしばしば……。
それでも長期休暇で実家に帰ると、母親は「私の自慢の娘を見て」と言わんばかりに親戚を集め、鼻高々と、私に皆の前で仕事の話を披露させるのです。
海外に行けることは本当に楽しかったのですが、職場では孤立し、いい思い出などありませんでした。
「姉貴、本当に大丈夫なの? 飛行機乗るといつも思うんだよ。姉貴にCAは向いてないってさ」
弟は、私の性格を見抜いていました。
「公務員とかの方がよっぽど向いているよ」
弟の言うとおりだと思いました。正直なところ、できるものであれば、すぐにでも転職したかったです。それでも「石の上にも3年」と言われるように、次第に馴染んで状況は好転するだろうと考えていました。これまでは、仕事への期待が高すぎたのです。
ところが、入社後3年目を迎えても、職場では孤立したまま、CAの仕事にやりがいは見出せませんでした。
一度、通勤途中に交通事故に巻き込まれ、足を怪我して1週間の入院を余儀なくされたことがありました。病院で目覚めた時、「これで仕事に行かなくていい」とほっとしたのを覚えています。
この頃から、既に軽い鬱状態が始まっていて、精神科にも通院していました。遅かれ早かれ仕事は続けられなくなると思っていましたが、一番気がかりだったのは母親です。こんな形で退社するなんて、きっとがっかりさせるだろうなと思うと、なかなか踏ん切りがつきませんでした。
CAよりも社会的信用のある職種とか、企業に転職できないものか悩んでいました。
弟に公務員に向いていると言われたことを思い出し、調べていたところ、目に入ったのが法科大学院の募集です。以前、何かの雑誌で、CAから司法試験を受けて検察官になった女性の記事を見たことがありました。
「これだ!」
私は雷にでも打たれたような衝撃を受けました。ようやく、心にかかっていた霧が晴れ、希望の光が差し込んできたのです。
「CAは女性が長く続けられる仕事ではないと思ったの。法科大学院の募集が始まって、法曹への道が広がるみたいだから、25歳で退社して、30歳からは検察官としてスタートを切ろうと思うの」
私は実家に帰省し、家族に検察官への転身を宣言したのです。母の反応が気になっていましたが、
「まあ、凄い! 真理ちゃんは小さい頃から優等生だったから、すぐに受かるわよね」
母親はあっさりと転職の計画を受け入れてくれました。
「いろいろ挑戦できるのも若いうちだけだから頑張れ」
父親も賛成してくれました。
「真理ちゃん今度は検察官! かっこいい!」
母親は、まだ大学院にさえ入学していないにもかかわらず、私が検察官になると親戚中に言いふらしており、恥ずかしい反面、自分の評価が下がっていない反応に胸を撫で下ろしていました。
私の大学での専攻は英文学で法学部出身者ではないので、法科大学院は未修者の3年コースを選択しました。初めての分野なので、1年間は予備校に通い、4年後に試験を受け30歳で法曹デビューするという計画でした。
法科大学院の第一志望はもちろん、「東京大学」です。目標は絶対高い方がいいでしょ? 実はCAの同僚に、
「相澤さん、所詮、地方の私大でしょ」
って、学歴を馬鹿にされたことがあったんです。
私も本当は、東京の大学に進学したかったんですが、うちは経済的に余裕がないので浪人はできないし、確実な推薦入試で、実家から通える大学を選ぶしかなかったんです。
東大大学院を出て検察官になり、また注目を集めて、職場の同僚たちを見返してやりたいと意気込んでいました。次の目標が定まったことで、鬱からも抜け出すことができたのです。
予備校生活は充実していました。時間を自由に使えて、やりたいことに専念できるのですから。
ところが、入試の結果は散々でした。東大は無理でも、東京六大学のどこかに入れればと思っていたのですが、結局、引っかかったのは、卒業した大学より偏差値の低い大学の大学院でした。
予備校の仲間たちも、有名な大学の大学院には合格できず、進学を断念する人もいました。都内の有名私立大学を卒業している男性は、
「もし司法試験に合格しなかったら、微妙な学歴だけが残るよな……。学費も高いし、烙印になったらと思うと躊躇する……」
彼が言った通り、学歴は私にとって烙印になりました。この時点で、止めておけばよかったのです。
ここが、ターニングポイントだったと思っています。公務員試験に切り替えればよかったと……。
それでもその時は、大学院はあくまで試験の切符を得るところで、最終的に司法試験に受かりさえすればキャリアは開けるのだからと進学を決めました。
集まった学生たちは、意外にも私より学歴が高い人たちばかりで驚きました。負けず嫌いの私は勉強に励み、成績は上位でした。
院生生活はとても充実していました。学生たちの年齢もバラバラで、いろんなバックグラウンドを持つ人と話ができました。男女の割合では男性の方が多く、なぜか気が楽でした。女性だけのコミュニティは、CA時代でもうこりごりでしたから……。
順調に3年間を過ごし、最初の司法試験の受験日を迎えました。大学院の成績は良かったので自信はあったのですが、時間配分が上手くいかず、不本意な結果となりました。不合格です。
とてもショックでしたし、30歳で転職という計画が狂い、途方に暮れました。
大学院の学費は奨学金制度を利用していましたが、予備校の費用や生活費は貯金から出していました。アルバイトなどできる余裕はありませんし、あと1年、持つかどうか……。
一緒に勉強をしていた仲間は全員不合格でした。皆、「1回目だからこんなもんでしょ」とまったく落ち込んでいる様子はありませんでした。
私は彼らの反応を見て、今後は距離を置こうと決めました。なぜなら、私以外の学生は、家が裕福だったり、すでに他の法律資格を持って仕事を始めていたり、たとえ試験に合格しなかったからと言って食い扶持に困るような人たちではなかったからです。
私から見れば、意識が低いというか、本気度が感じられなくて、一緒に勉強するのが嫌になったんです。それに、大学まで通う時間があるなら家でひとりで勉強したほうが余計なお金も使わないと思い、とりあえず引っ越しをすることにしました。
テレビや洗濯機などの家電はすべて売りました。料理する時間ももったいないので、台所用品も不要です。洋服も数着あればいい。これまでは東京のどこに行くにも便利な駅の側に住んでいましたが、埼玉の田舎の物件を決め、家賃は半分になりました。
1年間、机と参考書だけが置いてある部屋で、ひとりで朝から晩まで勉強を続けました。一日中、誰とも話をしない日も多々ありました。
食べることだけが唯一の楽しみとなり、運動もしないので、それまで着ていた洋服はすべて入らなくなりました。美容院にも行かず、化粧もしない。ほとんどパジャマで過ごし、買い物にもジャージで出かけ、だんだんとそれが習慣になっていきました。
実家の家族には、合格するまで帰省しないと伝えていました。
しかし――。迎えた2回目の試験。また、不合格だったのです。私は奈落の底に突き落とされる思いでした。
家族になかなか結果が伝えられずにいると、母から電話がかかってきました。電話を受けた私の声で、母は不合格だと察したようでした。
「難しい試験なんだから無理しなくていいのよ。真理ちゃんだから、お見合いの話もあるんだけど、どう?」
やはり母は先回りしていました。
母としては、最終的に経済力のある男性と結婚すれば満足なんでしょうが、私は専業主婦という選択だけはどうしても避けたかったのです。理由は、母の生き方が、嫌だったからだと思います。経済的に夫に依存した生き方だけはしたくないと、心のどこかで思って生きてきました。
「余計なことしないで!」
そう言って、電話を切りました。
受験制限まであと1回チャンスはありますが、生活費がまもなく底をついてしまう……。
炊き出しの列に並ぶ 近所の公園で、ホームレスの人々を対象にした「炊き出し」の列ができている光景が目に入りました。 若いカップルも並んでいて、思わず私も列に並び、おかずとスープをいただき、おにぎりももらいました。1日の食費を浮かすことができたのです。主催者の方が、毎週開催している時間を教えてくれたので、それから列に並ぶようになりました。 今後の生活費をどうしていこうか……来月には貯金は底をついてしまう。それでも実家に戻ることだけは避けたいと思いました。「弁護士の○○先生、生活保護受けていた時期もあったって……」 極貧の受験生活を送った法曹関係者の噂も、真偽は定かではありませんが、聞いたことがありました。一瞬、「生活保護」という手段が頭を過りました。 受けられるものならば、躊躇はありませんでしたが、問題は扶養照会です。家族に生活保護申請を知られるわけにはいかなかったんです。 途方に暮れているとき、珍しく父親から着信がありました。「元気か? ごめんな。母さんがまた余計なこと言ったみたいで」 優しい父は、昔から極端な母の行動をフォローしてくれました。「まあ、いつものことだから」「母さん見栄っ張りだから、真理に昔から迷惑かけてたよな」「何よ、今さら」 父の仕事は忙しく、ふたりで話をするようなことは、これまでなかったかもしれません。「お父さんできることないけど、少しお金を振り込んでおいたから使って。結果はどうあれ、最後まで諦めないことだぞ。後悔だけはしないように」 父の思いやりに、私は胸が熱くなりました。 翌日、口座を確認すると、父から100万円振り込まれていたのです。私はこのお金で、最後のチャンスに挑むことにしました。 その1年間、会話したのは炊き出しの主催者とホームレス、そして、新興宗教の勧誘の人だけでした。体重はさらに増え、髪は白髪だらけで臨んだ試験。 結果は不合格――。 改めて、「司法試験」のレベルの高さを実感しました。これまで私が経験してきた試験とは比べ物にならないレベルだったんです。 それでも、私は諦めませんでした。当時3回だった受験資格を消化しても、予備試験に受かって受験資格を得るという道が残されていたんです。ここまできたら、とことん、受けるしかないと思いました。 そのために、生活自体を見直さなければならないと思い始めたのです。これほど受験生活が長引くとは思っていなかったので、不摂生も仕方ないと考えていましたが、体調を崩すことが多くなり、集中力も落ちました。生活費もこれ以上、家族に甘えるわけにはいかないので、働かなければならないと思いました。貧すれば鈍す 私は就職活動を始めました。前職の経験を生かして、子ども英会話教室なら時給はいいし、楽勝だろうと思ったのです。 まず筆記試験がありましたが、これは完璧でした。ところが、2次面接のネイティブスピーカーとの面談では、単語がスムーズに出てこなかったのです。5年以上、生の英語に触れていませんでした。 私はもっと準備しておくべきだったと後悔しましたが、案の定、結果は不採用でした。次の面接は有名ホテルの従業員採用です。 面接官だった女性が、CA出身だと聞いて嬉しくなりました。面接が終了し外に出ると、フロントには著名人の姿がありました。格式の高いホテルで仕事ができるなら、ここに勤めるのもアリか……と、辺りを見回しながら歩き始めた時、「ちょっといいかしら」 元CAの面接官に呼び止められたのです。「あ、はい」 彼女は私を、ホテル内の大きな鏡の前に誘いました。「先輩だから、率直な意見を伝えてあげたいと思って」 面接の時とは打って変わって厳しい目つきでした。「私に採用の可否を決める決定権はないの。だからわからないけど、あなたが採用されることはないと思う」「え?」「あなた、鏡を見てきた?」 女性は私に鏡を見るように促しました。「今は身だしなみなど気にしていられないと思うけど、10年前、その姿で飛行機に乗れたかしら?」 私はドキッとしました。「あなたとても30代には見えない。ブラウスのボタンも取れてるし、スーツのボタンも取れてる。ストッキングは伝線してるし、そんな姿で面接に来た女性はいません。接客業ではありえない。よく鏡を見て、どんな仕事が向いているか、もう一度よく考えてみるべきよ」 そう言って女性が立ち去った後、私は全身が映る大きな鏡の前にしばらく呆然と立ち尽くしていました。 とにかく仕事をしなければと、細身のスーツに無理やり身体をねじ込んだ結果、ボタンははじけ、ストッキングも破れ、すでに美容院に行かなくなって2年以上が経過した髪の毛は白髪だらけでした。 私は明らかに場違いなところにいて、きっと、第三者が見たら、炊き出しに並ぶ姿の方が私にマッチしているのだと、ようやく現実に目が覚めたのです。(阿部 恭子/Webオリジナル(外部転載))
近所の公園で、ホームレスの人々を対象にした「炊き出し」の列ができている光景が目に入りました。
若いカップルも並んでいて、思わず私も列に並び、おかずとスープをいただき、おにぎりももらいました。1日の食費を浮かすことができたのです。主催者の方が、毎週開催している時間を教えてくれたので、それから列に並ぶようになりました。
今後の生活費をどうしていこうか……来月には貯金は底をついてしまう。それでも実家に戻ることだけは避けたいと思いました。
「弁護士の○○先生、生活保護受けていた時期もあったって……」
極貧の受験生活を送った法曹関係者の噂も、真偽は定かではありませんが、聞いたことがありました。一瞬、「生活保護」という手段が頭を過りました。
受けられるものならば、躊躇はありませんでしたが、問題は扶養照会です。家族に生活保護申請を知られるわけにはいかなかったんです。
途方に暮れているとき、珍しく父親から着信がありました。
「元気か? ごめんな。母さんがまた余計なこと言ったみたいで」
優しい父は、昔から極端な母の行動をフォローしてくれました。
「まあ、いつものことだから」
「母さん見栄っ張りだから、真理に昔から迷惑かけてたよな」
「何よ、今さら」
父の仕事は忙しく、ふたりで話をするようなことは、これまでなかったかもしれません。
「お父さんできることないけど、少しお金を振り込んでおいたから使って。結果はどうあれ、最後まで諦めないことだぞ。後悔だけはしないように」
父の思いやりに、私は胸が熱くなりました。
翌日、口座を確認すると、父から100万円振り込まれていたのです。私はこのお金で、最後のチャンスに挑むことにしました。
その1年間、会話したのは炊き出しの主催者とホームレス、そして、新興宗教の勧誘の人だけでした。体重はさらに増え、髪は白髪だらけで臨んだ試験。
結果は不合格――。
改めて、「司法試験」のレベルの高さを実感しました。これまで私が経験してきた試験とは比べ物にならないレベルだったんです。
それでも、私は諦めませんでした。当時3回だった受験資格を消化しても、予備試験に受かって受験資格を得るという道が残されていたんです。ここまできたら、とことん、受けるしかないと思いました。
そのために、生活自体を見直さなければならないと思い始めたのです。これほど受験生活が長引くとは思っていなかったので、不摂生も仕方ないと考えていましたが、体調を崩すことが多くなり、集中力も落ちました。生活費もこれ以上、家族に甘えるわけにはいかないので、働かなければならないと思いました。
私は就職活動を始めました。前職の経験を生かして、子ども英会話教室なら時給はいいし、楽勝だろうと思ったのです。
まず筆記試験がありましたが、これは完璧でした。ところが、2次面接のネイティブスピーカーとの面談では、単語がスムーズに出てこなかったのです。5年以上、生の英語に触れていませんでした。
私はもっと準備しておくべきだったと後悔しましたが、案の定、結果は不採用でした。次の面接は有名ホテルの従業員採用です。
面接官だった女性が、CA出身だと聞いて嬉しくなりました。面接が終了し外に出ると、フロントには著名人の姿がありました。格式の高いホテルで仕事ができるなら、ここに勤めるのもアリか……と、辺りを見回しながら歩き始めた時、
「ちょっといいかしら」
元CAの面接官に呼び止められたのです。
「あ、はい」
彼女は私を、ホテル内の大きな鏡の前に誘いました。
「先輩だから、率直な意見を伝えてあげたいと思って」
面接の時とは打って変わって厳しい目つきでした。
「私に採用の可否を決める決定権はないの。だからわからないけど、あなたが採用されることはないと思う」
「え?」
「あなた、鏡を見てきた?」
女性は私に鏡を見るように促しました。
「今は身だしなみなど気にしていられないと思うけど、10年前、その姿で飛行機に乗れたかしら?」
私はドキッとしました。
「あなたとても30代には見えない。ブラウスのボタンも取れてるし、スーツのボタンも取れてる。ストッキングは伝線してるし、そんな姿で面接に来た女性はいません。接客業ではありえない。よく鏡を見て、どんな仕事が向いているか、もう一度よく考えてみるべきよ」
そう言って女性が立ち去った後、私は全身が映る大きな鏡の前にしばらく呆然と立ち尽くしていました。
とにかく仕事をしなければと、細身のスーツに無理やり身体をねじ込んだ結果、ボタンははじけ、ストッキングも破れ、すでに美容院に行かなくなって2年以上が経過した髪の毛は白髪だらけでした。
私は明らかに場違いなところにいて、きっと、第三者が見たら、炊き出しに並ぶ姿の方が私にマッチしているのだと、ようやく現実に目が覚めたのです。
(阿部 恭子/Webオリジナル(外部転載))

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