「10浪で東大合格」も”入学辞退”彼の決断の裏側

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ようやくつかんだ東大合格。なぜ辞退したのでしょうか(写真: Fast&Slow / PIXTA)
浪人という選択を取る人が20年前と比べて1/2になっている現在。「浪人してでもこういう大学に行きたい」という人が減っている中で、浪人はどう人を変えるのでしょうか?また、浪人したことによってどんなことが起こるのでしょうか? 自身も9年の浪人生活を経て早稲田大学に合格した経験のある濱井正吾氏が、いろんな浪人経験者にインタビューをし、その道を選んでよかったことや頑張れた理由などを追求していきます。
今回は高卒の両親のもとで育ち、公立小学校・中学校を経て地方私立進学校に進学。10浪して東京大学理科I類に合格したものの入学を辞退し、現在社会人として働きながら東京大学理科稽爐旅膤覆鯡椹悗靴討い襦◆崔砲覆蕁∩梓1本理科三類」さん(仮名)にお話を伺いました。
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浪人経験者に焦点を当てたこの連載ではこれまで、何年も挑戦を続けて、夢であった志望校への合格をかなえた人たちの人生模様をお伝えしてきました。
今回お話を聞いた「男なら、前期1本理科三類」さん(仮名)も、10浪の末に東京大学への合格を果たし、小さい頃からの夢をかなえた1人です。
しかし、彼は10年かけてつかんだ東大への切符を辞退し、さらに10年以上が経過した39歳のいま、今度は東京大学理科稽爐旅膤覆妨けて受験勉強を続けています。
東大入学を辞退した驚きの理由とは? 彼をさらなる挑戦に駆り立てた要因は何だったのか? 今回は彼の壮絶な半生に迫ります。
「男なら、前期1本理科三類」さんは、大阪府で高卒の両親のもとに生まれました。父親は工場勤務、母親は事務の仕事をしていたそうですが、小学校3年生のときに父がギャンブルで作った借金が原因で離婚したそうです。
「義父と再婚するまでの5~6年間は、母の手ひとつで育ててもらいました。母親は自分自身が苦労してきたので、しつけ自体はきびしくなかったのですが『しっかりせんと、待遇が悪くなる』と言われました」
「ハングリー精神を持て」と言われて育った彼は、同世代に比べて発達が遅い子どもだったらしく、できないことが多かったそうです。
「小学3年生のときの成績は、35人中ビリから2~3番目でした。背も低かったですし、『頭悪い』とか『男らしくない』とか不器用であることをなじられて、いじめられていました。当時は成績も運動能力も発言力も、何もかも思うように伸びない子どもで、こんな扱いを受けるのは、『自分の能力が低いせいだ』と思っていました」
そんな彼が初めて「楽しい」と思えた経験が、小3~4で珠算塾に入ったことだったと言います。
「できなくても文句を言われたり、同級生にバカにされたりしない場所だったので楽しかったです。世の中は数字でモノが回っていることに気づくようになって、数字に強いといろいろ役に立つと思えたのもよかったですね。ここでのびのび勉強できたことが、のちの大学受験で役に立ちました」
「何も取り柄がないから、家でもがっつりそろばんをやった」と語る彼は、小6で珠算検定1級を獲得します。しだいに彼はほかの勉強にも興味を持ち始め、ほかの科目も下位3分の1くらいの順位まで上がったと言います。
この勉強の過程で「結果を出すときに無駄を削る」ということに気づいた彼は、中学に上がってから一気に成績を伸ばしました。公立中学に上がってからの初めての中間テストでは200/500点でしたが、冬の定期試験では400/500点を獲得できるようになったのです。
「中学1年生になったらみんな部活に入りました。私もバスケ部に入ったのですが、活躍できなくて球拾いをしていました。ここで私はテストでも最上位にいる人が、部活でも活躍している現実を見てしまったのです。
私はいま彼に両方負けていて、彼に勝つためには部に所属して勉強をしている現状では限界があると思いました。勉強か運動のどちらかで文句が言われないような結果を出さないと、小学生のときのようにいじめられる原因ができてしまうと思ったのです。そのためバスケ部を3カ月でやめて、人の何倍も時間を使って勉強をやることにしました」
彼は、週1~2回の空手道場通いと1日1時間のゲーム以外の時間はすべて勉強にあてていたと語ります。成績が瞬く間に上がったことは、彼からすれば当然の努力の成果だったのです。
「物欲とか顕示欲のためではなく、将来の自分のチャンスを広げるために勉強していました。将来、自分の好きなことをやるためには何かの能力が必要だと思っていましたし、何かで這い上がらないと、誰かの命令・言うことを聞いて終わる人生になると思っていたので、頑張りました」
そのうち実力をつけることに重点を置いた勉強にシフトした彼は、中学3年生になると今までの積み重ねが実を結びます。彼はこの頃には、定期考査や実力テストなど種類を問わず、すべての試験で500点満点中、450点以上を取れるようになっていました。
高校受験で地方の私立進学校に進学してからも、勉強への姿勢が変わることはありませんでした。
「私はビリの成績でギリギリ合格したのですが、自分を貫いて気を抜かずに勉強し続ければ、みんなそのうち成績が落ちるだろうと思っていました」
部活にも入らず、授業後をほぼ学校の図書館で過ごした彼は、最終的には理系クラスで20/200番に入るようになったと言います。
「中学受験で入った内部生の上位層に届かず、要領がよいだけではトップにはなれないことがわかりました。上にいく人は能力も高いし、より努力もする人たちでしたね」
とはいえ、進学校のトップ層であった彼は、当時の模試の成績では、第1志望の東大理科I類ではE判定でしたが、京都大学理学部ではほぼD~C判定を取れていたそうです。
しかし結局、センター試験は国語で95/200点しか取れずに8割に終わり、周囲から「東大は無理、京大も高望み」と言われたことに反発して東大理Iに出願し、40点差で落ちてしまいました。
現役での受験を終えた彼は、浪人を決断します。その理由は、「妥協したくなかったから」だと言います。
「世の中では、1年に東大に3000人受かっている。そんなにできている人が同世代にいるので、挫折したくなかったんです」
そう思って駿台に通い出した彼は、1日10時間の勉強の末に駿台模試の判定でC判定を取れるようになっていきます。
「この年は数学・理科の難しい問題が解けるようになった」と確かな成長を振り返る彼。しかし、センター試験ではまたしても国語で110/200点とつまずいて、81%という物足りない結果に終わり、2次試験も前期で東大に出願して25点足りずに落ちてしまいました。
結局彼は滑り止めで合格した準難関大学に入学しますが、それでもやはり東大を諦められず、大学に入って仮面浪人をするという選択をしました。
「大学の授業がある日は受験勉強を3時間、授業がない日は5時間勉強していました。国会図書館に行って市販の参考書や、過去問の20年分をぜんぶ印刷して解きました」
2浪目から仮面浪人をはじめた彼は、大学4年生になる5浪目までに3回東大受験をしました。5浪目くらいには模試の判定が東大理科I類で「B」までは出るようになったそうですが、A判定は1回も出なかったそうです。
学生生活と並行して受験を続けた彼ですが、結局、5浪目までの東大受験も努力実らず、すべて不合格に終わってしまいました。
学生生活最後の受験を不合格で終えた4年生の彼は、23歳になっていました。
「進路を考える時期になって、現実逃避ができなくなりました。いくら自分が受験だけにこだわりたくても、社会はそれを許してくれません。だから『持たざるもの挑戦すべからず』という状況を受け入れ、仕事で使えるような複数の資格を取り、社会経験を積みながら受験費用を貯めようと思いました」
「社会的待遇や社会での出遅れを懸念して一時撤退するけれど、いずれ必ず戻ってくるつもりでした」と語るように、彼は受験を決して諦めず、社会人になってからもずっと受験勉強を続けました。
6浪以降、社会に出た彼は働きつつ、9浪までの3年間を資格や社会人スキルを身につけることに重点を置きます。また、受験以外で諦めかけていた、恋愛・趣味・歌唱・体力づくりのためにも積極的に行動しました。
「この期間はいろいろ手を出すとキャパオーバーになるので、旧帝大や神戸大学などの入試問題を解いていました。成績を落とさないために、やる問題を少なく設定し、わからない問題をじっくり考える訓練をする時間を取りました。失敗は慣れっ子だからもはや怖くありませんでした。
ここまで頑張れたのは『出世や協調性などどうでもいい』『周囲を全部敵に回しても構わない』『とにかく個人で戦っていくためのブランドがほしかった』からでした。仕事の無駄を究極に削り、勉強だけではなく各方面での自己研鑽に励みました」
仕事をしながらの受験勉強は過酷で、多くの人は成績を維持できません。それでも彼は、この3年間で自分が落ちた理由を分析し、受験を突破する糸口をつかんだと言います。
「この期間は時間が取れなかったので、勉強をガリガリしていたというよりは解けなかった理由をつねに考えていたのです。なぜこの問題が取れないのか、どうしたら取れるのかをずっと考えて試行錯誤する日々でした。
すると、9浪目の冬に活路を見いだしたのです。私は今まで、国語や英語、地理などでいい点数が取れないから、これらの科目はできないと決めつけて理数系で点数を稼ごうと思っていたんです。
独学を貫いて、苦手科目に本気で向き合わなかったから落ちていたんですね。軽視していた文系科目を本気でやれば点数が取れるということに気がついて、希望が見えました」
こうした“思考の期間”を終え、10浪に突入した彼は「十分な社会的素養とお金を稼いだ」こともあり、平日1日3時間、休日は1日5~6時間の勉強を重ねます。
「センター試験で毎回150点落としていた国語・地理の失点を70~80点くらいにするため、暗記に重点を置いて頑張りました。理数科目も苦手な分野があったので、間違えた問題を書き綴ったノートを作り、大量失点につながるポイントを書いて徹底的に不安要素を潰しました。受験勉強ががっつりできないので、とにかく効率よく点数を確保しにいくことにこだわって戦略を立てました」
その姿勢が奏功し、彼は10浪の夏にはじめて駿台全国模試で理IのA判定を取ります。それから波に乗った彼は、その後受けた6回の東大の冠模試もすべてA判定を取り、センター試験でも87%と受験生の中でも平均程度の点数を確保することに成功。2次試験も力を出し切り、最低合格点からプラス25点で東京大学理科I類に合格しました。
東大についに合格したが…。写真は23年冬実施の大学入学共通テスト(撮影:梅谷秀司)
劣等生だった彼はついに、長い戦いを経て、東京大学に合格したのです。
夢にまで見た東京大学理科I類に合格した彼に、浪人してよかったことを聞くと「成功体験が自信になった」、頑張れた理由については、「20代・30代になると増える、夢を諦める社会人の風潮に流されず、変わった成功体験で一旗揚げたかった」と答えてくださいました。
「合格して嬉しいと感じるよりは、将来に希望が見えました。『やればできるんだな』と思えるようになり、自分の意思で、自分の信念に基づいて行動できるようになりましたね。これも、普通に突き進んでいたら無理だったけれども、人と違うイレギュラーな選択をしたことで最終的に目標に辿り着けたと思っています」
こう語った彼でしたが「入ることのメリットを感じなかった」ために10年かけて合格した東京大学の入学を辞退します。
「大学に進学したらお金がかかるし、いま働いて得ている給料が入らなくなります。入っても、それを生かしてビジネスができる世界線を想像できなかったんですね。『自分への挑戦』が受験の目的だったから、それが達成できた時点で、安定収入がある現在の状態をキープしながら、また新しく挑戦したいことができたときに、それをできるようにしておいたほうがいいなと思いました」
28歳で東京大学に受かった彼は、現在39歳。
仕事を続けていましたが、昨年から東京大学理科稽爐鯡椹悗掘⊆験に関する動画投稿をしながらまた受験勉強をはじめました。
「仕事を続けていく中で受験関連の仕事を始めようと思ったんですが、今の会社に止められたんです。結局、非生産的な社会上の付き合いや、挑戦していない上司にあれこれ言われることから逃れられておらず、それが嫌だなと思いまして。
だからこそ、そうしたしがらみから脱するためにはより自分の力で稼ぎ、世間に凡才でも東大に合格できる方法を認知してもらう必要があると思いました。
私は会社を立ち上げて、挑戦する人や学歴・能力がある人が報われない社会構造をなんとかしたいと思っています。そのためには自分が挑戦していないと示しがつきません。これから受験で大きく社会を変えようとしている人間が、理靴房かっていないと理兄嵋召寮古未魘気┐蕕譴覆い隼廚ぁ∈嚢睚への挑戦を決めました」
また、理啓験での勝率を格段に上げるため、10年やった英語を捨てて、ドイツ語での受験を選んだそうです。どうして彼は、長年勉強した英語ではなくドイツ語を選択したのでしょうか。そこにも大きな理由がありました。
「東大英語は国語力・聞き取り・時間の短さがネックとなり、理轡譽戰襪世搬を引っ張るので、これらの欠点が完全に消えるドイツ語で勝負する決意をしました。最近の受験生はとかく安定思考に走りがちです。この戦略で成功した暁には、世の受験生に『結果のためなら、あえて主流を外れて賭けに出る』行動力の大切さを伝えたいと思います」
10浪の末、東大に合格してから約10年。現在も働きながら、東大理靴悗亮験を目指して挑戦を続けている彼のみなぎる熱意と自信。彼の浪人体験からは、成功体験が自信になり、自分を信じられるようになるという教訓を教えてくれます。もはや、公立小学校でビリから3番以内だった彼の面影は、どこにもありませんでした。
(濱井 正吾 : 教育系ライター)

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