【平野 国美】「先生、もうだめです。死なせてください」…延命治療を望まない98歳の高齢者に、「看取り医」があえて「胃ろうを造設」したあとの「驚きの結末」

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98歳の達郎さんの調子が悪くなった。口から食事が摂ることができなくなり、喋ることもままならず、右側頭部に焼けるような痛みを訴えている。達郎さんとその妻は、「延命治療は望まない。このまま死なせて欲しい」と訴えた。
ふだんは胃ろうをすすめておらず、そのまま看取りに入る平野国美医師だが、老化現象からくる嚥下機能低下とは思えなかったため、精密検査を提案する。
高齢者の胃ろうは是か非か――。6000人以上の患者とその家族に出会い、2700人以上の最期に立ち会った“看取りの医者”が、延命治療にも繋がりかねない胃ろうの造設について、引き続きリポートしていく。
【ここまでの詳しい経緯については、『「6300人の患者」を診て、胃ろうを造設したのは「わずか2件」…胃ろうをすすめない「看取り医」が、「それでも胃ろうは必要」というワケ』をご覧ください】
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達郎さんの精密検査は、たまたま外勤にいらしていた研修医時代の神経系の教授に、丁寧に診察をしていただけた。
精査の結果、脳血管に問題なく、帯状疱疹ウイルスによるラムゼイ・ハント症候群(水痘・帯状疱疹ウイルスが顔面神経麻痺を起こす状態)と診断され、抗ウイルス薬が使われる事になった。
問題は、嚥下機能の低下である。ラムゼイ・ハント症候群を投薬でコントロールできるかもしれないが、後遺症として顔面神経麻痺や、特に嚥下障害が後遺症として残る可能性が多い。この嚥下の問題によって食事が摂れず、衰弱していく可能性がある。
達郎さんは「どうしても嚥下ができない」と言っている。そこで胃ろうを造設するか否かの問題となり、私も病院に呼び出され会議をすることになった。
悩みながらはじまった会議だが、まず高齢者の胃ろうの造設で考えるべき大切な要素は、
胃ろうを作れば、元気に生きられるのか
である。嚥下機能の低下を、単に飲み込みだけの問題で捉えると判断を見誤る。老衰の結果、嚥下機能も衰えた場合、全身が弱っているため、もはや胃ろうを造設したところで、元気で生きる事は難しい。認知症も進む。私は患者さんに説明する時、
「終末期が近づいている多くの高齢者の場合、胃ろうの造設で、生きる時間は遠投するが、足腰が弱っている以上、ほとんどの時間は寝たきりであり、その生活は決して、快適とはいえず、意識の無い状態で生きていくケースも多いですよ」
と伝えている。
では達郎さんの場合はどうか。彼の場合、嚥下機能は低下しているが、老衰によるものではなく、帯状疱疹によって二次的に嚥下機能が低下し、体力も弱っているように思える。しかも、知性は高度に保たれている。これまで98歳とは思えない肉体を維持してきたという体力の積み重ねもある。
つまり胃ろうを栄養補給をしながら、帯状疱疹を治療すれば、再び98歳なりの問題のない状態まで戻すことも可能ということである。
ただ、これだけでは胃ろうの造設は判断できない。
次に必要なのは、
胃ろうを造設して自宅に戻った時、それを十分に管理できる介護者がいるかどうか
である。
胃ろうを造るということは、患者の命が尽きるまで、介護者が1日でも長く生きて、世話をしなければいけないことを意味する。「これ以上は無理」と家族が投げ出し、結局施設に入所することになれば、本人は何のために胃ろうを造設したのかわからなくなる。
医学の教科書的には、「適応」と「禁忌」があり、それに基づいて胃ろうを造るかどうかを検討することになるが、家族の負担や、患者の幸せまで考えた実際の医療現場では、それだけでは済まないのだ。
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妻・美和子さんの年齢は88歳。かなり高齢ではあるが、認知能力は申し分なく、胃ろうの管理もできそうで、今のところ健康状態にも懸念点はみあたらない。
結局、迷いに迷った末に、私は2人に「とりあえず、造ってみませんか? そして帯状疱疹を治し、家に一度、帰りましょう」と提案した。「造設してもただの延命にはなりませんか?」と聞かれたが、
「造設してどうなるのかは分かりません。神のみぞ知るところです。ただ、達郎さんの場合、老衰で嚥下機能が低下しているわけではなく、帯状疱疹が原因の可能性が高い。帯状疱疹が治れば、以前と同じような生活に戻れる可能性があります」と答えた。
逃げるわけじゃないが、絶対に戻れると断言できるものでもない。そもそも98歳である。何が起きても不思議ではないのだ。
2人のしっかりとした死生観に抵抗するような提案だったが、2人は覚悟を決めて、胃ろうを造設することに決めた。そして…
胃ろうの造設後、達郎さんの体力も少しずつ戻り、リハビリが導入されることになった。杖をついての歩行ができるようになり、嚥下、発声なども、昔ほどではないが、あの艶のある声が戻ってきた。
美和子さんも胃ろうの管理を完璧に行っていたが、驚いたのは、達郎さん自身が胃ろうの管理を自分で行えることだった。嚥下力が戻ると、達郎さんは自分の食欲に応じて、胃ろうをうまく使い分けた。
食欲がある時は経口で十割を摂取する日もあるし、食欲が無い日には胃ろうから十割を摂取した。ある日は各々から五割づつと自分で考え、自分の体重をプラスマイナス500mg以内に管理していた。
もちろん、「ただ生きていた」というだけではなく、100歳を超えてもなおドイツ語の翻訳も続け、私の人生相談にも乗ってくれた。そして、静かに、老衰により体調が衰えていく中で、胃ろうからの栄養も注入が不能となり、103歳で人生を閉じた。
生前、御本人も御家族も、そして私自身もこの結果に満足している。
ここで本題に戻る。高齢者への胃ろうの造設は一歩間違えば延命治療になりかねない医療措置だが、98歳に造設したこのケースは、果たして延命治療だったと言えるのであろうか。
いろいろな考え方があっていいと思う。自分の死は誰のものでもない。死に逝く、本人のものである。他人のとやかく言われる筋合いのないものだ。
ただ、昨今、皆が考えるほどに、高齢者の胃ろうの造設をただの無意味な延命措置と決めつけることができないケースもあるのだということを知ってほしい。
最後に断っておくが、私自身はいま現在、自然な看取りを望んでいる。クリスチャンである達郎さんは、亡くなる数年前に私に語っていた。「生まれて初めて賭けをしました。結果、私は勝ったような気がします」と。
(プライバシー保護のため、内容の一部を変更しております)
【平野国美さんの連載『70代嫁は「寝たきりの98歳義母」の首を絞めていた…「看取り医」が目の当たりにした、「老々介護」のつらすぎる現実』もあわせてお読みください】

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