大津市と京都橘大(京都市山科区)はこのほど、大津市下阪本3丁目の琵琶湖中で、戦国武将の明智光秀が築いた坂本城に関連すると考えられる遺構が見つかったと発表した。湖中の遺構確認は1994年の「湖中石垣」以来30年ぶりで、石垣と同質の大きな石や、こぶし大から人の頭くらいの礫(れき)(石)が人為的に配置されていた。調査した同大学の南健太郎准教授(水中考古学)によると、陸地から突き出すように船着き場や防波堤が設けられていた可能性を示すという。
【写真】遺構の場所はここ!
坂本城は琵琶湖の支配を重視する織田信長の意向を受け、光秀が1571年に築城を始めた。安土城や江戸時代の城郭につながる技術が用いられ、城郭史を考える上で重要な城とされるが、資料が少なく「幻の城」と言われる。過去には、1994年の渇水で湖から本丸の石垣と推測される湖中石垣が現れ、湖岸の陸地では本丸部分の建物遺構や推定三の丸の石垣などが確認されている。
2022~24年度の調査では、陸地から見て東にある湖中石垣の北側と南側で、湖底に敷かれた礫群を発見。礫は北側でおおむね南北45メートル、東西30メートル、南側で南北60メートル、東西10メートルの範囲に広がっていた。南側では、南北12メートル、東西10メートルに長辺約25~80センチの石が分布していることも確認した。
南側の石の分布エリアでは、特に大きな3基の石が、湖中石垣の東面を南北に延長した線と同じラインで並んでいた。礫群は、南側全体と北側の礫がまばらなエリアはおおむね湖中石垣の延長ラインに沿い、北側の礫が密集している箇所は本丸跡の建物遺構と同じ向きだった。
これらの方位の一致から、南准教授は「遺構は湖中石垣や本丸の施設と同一の規格に基づいて造られたと見るべき」と強調。坂本城を巡っては、信長が船で来訪したり、光秀が城下町から船をこいで島津家を案内したりしたことが文献に記されるが、湖との関わりを示す遺構は湖中石垣以外は見つかっていなかった。「今回の発見は、城が水運と結びついていた状況を具体的に表す可能性がある」と話している。
調査は市と同大学が結んだ覚書に基づいて22年度に始まり、25年度まで行う。
(まいどなニュース/京都新聞)