「池袋暴走」、受刑者側に賠償命令…整備士だった“被害者実父”がどうしても許せなかった「事故は車のせい」という責任逃れ

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私の心は今でも空っぽ状態……。
2019年4月に起きた池袋暴走事故で、東京地裁が受刑者側に約1億4000万円の損害賠償支払いを命じた10月27日、原告の上原義教さん(66)は、司法記者クラブの会見で涙ながらにそう声を絞り出した。
「納得できないっていうか、苦しいっていうか、悲しいっていうか。日が経てば経つほど2人のことを思い出したり、涙したり、苦しんだり。そんな日々を今も送っています」
娘の松永真菜さん(当時31)と孫の莉子ちゃん(同3)の命が一瞬のうちに奪われた無念の思いを語る一方、刑事裁判ではこんな思いも繰り返し口にしてきた。
「人は誰しも過ちを犯す」
これは車を運転手していた飯塚幸三受刑者(92)=禁錮5年の実刑判決=に向けられた言葉だ。だが、その真意は理解されるどころか、刑事裁判で無罪を主張し続けた飯塚受刑者の不誠実な態度によって踏み躙られた。【水谷竹秀/ノンフィクション・ライター】
【写真を見る】愛する孫娘との笑顔の日々顔を見た時は「殴りたかった」 なぜ、上原さんはそんな言葉を投げかけたのだろうか。沖縄へ遊びに来た莉子ちゃんを抱きかかえる上原さん 今回の判決に至った損害賠償請求訴訟の口頭弁論で、上原さんはこう証言している。「接客をする中で、人は間違えるもんなんだなと。そういうことが仕事上でたくさんあったんです。(中略)でも、裁判を続ければ続けるほど、彼は他人事のように車のせいにした。特に私は整備士で車のことはある程度分かっていたので、悔しかったですね」 上原さんは事故発生時、地元沖縄県で車の整備士として働いていた。30代前半からかれこれ30年近く働いてきた職場で、1ヵ月当たり60~70台の修理を担当した。中には電柱や路肩にぶつけるといった自損事故も多く、保険の請求手続きに来る運転手や保険会社への対応に振り回された。「とにかく車のせいにする人が多かったんです。ブレーキが効かなくなってぶつけたので、メーカーが悪いと文句を言う。任意保険に加入していない人は特に。加入している人でも、掛け金が上がったりするのであまり保険を使いたくない。そうすると車のせいに。そんなお客さんに対応してきたので、人は間違って事故を起こすこともあるんだと。それなのに……」 仕事で長年、事故車の対応に当たっていた上原さんが、ブレーキとアクセルを踏み間違えた飯塚受刑者からも「車のせい」と言われる不条理――。 事故直後の報道で見た飯塚受刑者は、杖をつきながら歩いていた。 上原さんが怒りを押し殺すかのように語る。「どうしてこんな体の状態の人が運転できたのだろうか。刑事裁判で初めて飯塚氏の顔を見た時は、殴りたかったです。私とは目も合わせなかった。飯塚氏が運転していた車はリコールの対象でもなかった。にもかかわらず車のせいにしていたので、経験上、あり得ないと思いました。最初から『自分が悪かったです。ごめんなさい』と心から謝ってくれていたら、こちらの対応も少しは変わったかもしれません。でもあの態度には憎しみしかなかったです」傷だらけの顔 事故の一報は、真菜さんの夫、拓也さん(37)から入った。「真菜と莉子が事故に遭ったので今から病院へ向かうところです」 上原さんは親族に連絡し、着の身着のままで東京へ向かった。その途中、拓也さんからまた電話がかかってきた。「お父さん、ごめんなさい」 上原さんは、真菜さんの姉に当たる次女を白血病で、そして妻をくも膜下出血で次々に亡くしている。失意の日々を送る中で、東京に暮らす真菜さんからはスマホをプレゼントされ、スクリーンに映る莉子ちゃんの笑顔に励まされてきた。今度はその2人までもが……。 突然の悲報に泣き崩れるしかなかった。 東京に到着し、管轄の警察署で2人と対面した。タイル張りの部屋で、2人は寝台の上に眠っていた。「白い布を取ると、真菜の顔は傷だらけで変わり果て、痛々しい姿でした。莉子は顔が大変なことになっているから、見ない方がいいと言われまして」 冷たくなった2人の手をそっと握り、こう語り掛けた。「じーじは何もすることができなくてごめんね。代わってあげられなくて本当にごめんね」 その数日前、スマホで真菜さん、莉子ちゃんとビデオ通話していた時のことが思い出される。2人は近く沖縄に来る予定で、莉子ちゃんは水着まで買って楽しみにしていた。上原さんが目を潤ませながら回想する。「オレンジっぽい可愛い水着を見せてくれました。莉子は沖縄で何回も海に連れて行ったんですけど、ぎゃんぎゃん泣いて海水に足を入れられないんです。でも、その時は初めて『じーじ、海に連れてってね』って莉子のほうから言ってきたんです。かき氷も食べたいと言う。氷を削る機械があるから、イチゴを買ってきてそれをシロップにしようねって」 このやり取りが上原さんにとって、2人と交わした最後の言葉になった。接客に耐えられず退社 悲しみのどん底に突き落とされた遺族が、慌ただしく葬儀を終えると、否応なく日常という現実に向き合わざるを得なくなる。その1つが仕事だ。 上原さんも事故発生から約2週間後、職場に復帰した。 しかも引き続き、事故車への対応だ。もう車を触るのも嫌な状態だった。「会社で損害の見積もりをできるのが私だけだったんです。だから仕事を再開したのですが、事故を起こしたお客さんから『ブレーキが効かなくて』とまた言われる。お客さんは、(被害者の遺族という)私の立場を知らないから仕方がないのですが、そんな言い分を聞くだけで苦しくて耐えられなくなり、会社に相談して接客のない部署へ変えてもらいました」 板金、塗装といった修理をメインにする部署へ異動したが、ただでさえ事故の影響で仕事が手につかない。自宅に帰っても眠れない日々が続き、普段は飲まない酒の力を借りた。事故が起きなければ65歳まで働き続ける予定だったが、事故から1年後の62歳で退職した。「精神的にダメでした」交通費捻出のためにマンションを売却 二度と行きたくないと思っていた東京へも頻繁に通った。 飯塚受刑者への厳罰を求める署名活動や裁判、打ち合わせ、命日の献花などで事故後に上京した回数はこれまでに20回を超える。刑事裁判は被害者参加制度を利用したため、国から交通費や宿泊費が支給されるが、そのほかは自腹だ。付き添ってくれる親族も含め、1回の往復に10万円近くかかる。仕事も辞めていたため、経済的な負担が重くのしかかった。自宅マンションのローンも10年ほど残っていた。「真菜と拓也くんは将来、沖縄に移住してカフェをやる計画だったんです。だからマンションに住んでもらおうと思っていましたが、その予定もなくなり、東京までの交通費を捻出するためにマンションを売りました」 事故によって狂わされた人生。あれから4年半が経過し、損害賠償請求訴訟の判決が言い渡された。まだ控訴の可能性があるとはいえ、裁判に一応は一区切りがついた。上原さんが心境を吐露する。「長くて辛い4年半でした。刑事裁判は1日2~3時間で終わり、また来月来てくださいという繰り返し。もっとてきぱきできればなあと思いました。相手(飯塚被告)が歳を取っていたから長時間できないというのもあるのでしょうけど、だったら被害者遺族の私たちはどうでもいいのかって。民事裁判なんて5分で終わる日もありましたから」 被告の都合が優先され、愛する肉親を失った遺族はなぜ二の次なのか。 もっとも刑事訴訟は、被告を裁く審理であるが故、遺族はこれまで傍聴席で黙って見守るしかなく、法廷の「蚊帳の外」に置かれてきた。2008年に被害者参加制度が導入され、被告人質問や証人尋問に参加できるようになったが、上原さんのように遠方から足を運ぶ遺族にとってはやはり、不公平感が生じる。そんな現実を突きつけられてきたからこそ、被害者支援の在り方にも目を向けるようになった。「事故の後は色々な面で毎月出ていく支払いが増えました。被害者遺族が日々の生活の中で、どんなふうに困っているのかはあまり知られていない。自分が当事者になって初めて気づくことがたくさんありました。そんな苦しい経験をこれからはお話ししていきたい。本当は事故が起きる前と同じように、静かに生活できればよかったけど、それはもう叶わない。だから真菜と莉子のために前向きに生きていきたいと思います」 自分が代わってあげられなかった無念を背負いながら――。水谷竹秀(みずたにたけひで)ノンフィクション・ライター。1975年生まれ。上智大学外国語学部卒。2011年、『日本を捨てた男たち』で第9回開高健ノンフィクション賞を受賞。最新刊は『ルポ 国際ロマンス詐欺』(小学館新書)。10年超のフィリピン滞在歴をもとに「アジアと日本人」について、また事件を含めた現代の世相に関しても幅広く取材。昨年3月下旬から2ヵ月弱、ウクライナに滞在していた。デイリー新潮編集部
なぜ、上原さんはそんな言葉を投げかけたのだろうか。
今回の判決に至った損害賠償請求訴訟の口頭弁論で、上原さんはこう証言している。
「接客をする中で、人は間違えるもんなんだなと。そういうことが仕事上でたくさんあったんです。(中略)でも、裁判を続ければ続けるほど、彼は他人事のように車のせいにした。特に私は整備士で車のことはある程度分かっていたので、悔しかったですね」
上原さんは事故発生時、地元沖縄県で車の整備士として働いていた。30代前半からかれこれ30年近く働いてきた職場で、1ヵ月当たり60~70台の修理を担当した。中には電柱や路肩にぶつけるといった自損事故も多く、保険の請求手続きに来る運転手や保険会社への対応に振り回された。
「とにかく車のせいにする人が多かったんです。ブレーキが効かなくなってぶつけたので、メーカーが悪いと文句を言う。任意保険に加入していない人は特に。加入している人でも、掛け金が上がったりするのであまり保険を使いたくない。そうすると車のせいに。そんなお客さんに対応してきたので、人は間違って事故を起こすこともあるんだと。それなのに……」
仕事で長年、事故車の対応に当たっていた上原さんが、ブレーキとアクセルを踏み間違えた飯塚受刑者からも「車のせい」と言われる不条理――。
事故直後の報道で見た飯塚受刑者は、杖をつきながら歩いていた。
上原さんが怒りを押し殺すかのように語る。
「どうしてこんな体の状態の人が運転できたのだろうか。刑事裁判で初めて飯塚氏の顔を見た時は、殴りたかったです。私とは目も合わせなかった。飯塚氏が運転していた車はリコールの対象でもなかった。にもかかわらず車のせいにしていたので、経験上、あり得ないと思いました。最初から『自分が悪かったです。ごめんなさい』と心から謝ってくれていたら、こちらの対応も少しは変わったかもしれません。でもあの態度には憎しみしかなかったです」
事故の一報は、真菜さんの夫、拓也さん(37)から入った。
「真菜と莉子が事故に遭ったので今から病院へ向かうところです」
上原さんは親族に連絡し、着の身着のままで東京へ向かった。その途中、拓也さんからまた電話がかかってきた。
「お父さん、ごめんなさい」
上原さんは、真菜さんの姉に当たる次女を白血病で、そして妻をくも膜下出血で次々に亡くしている。失意の日々を送る中で、東京に暮らす真菜さんからはスマホをプレゼントされ、スクリーンに映る莉子ちゃんの笑顔に励まされてきた。今度はその2人までもが……。 突然の悲報に泣き崩れるしかなかった。
東京に到着し、管轄の警察署で2人と対面した。タイル張りの部屋で、2人は寝台の上に眠っていた。
「白い布を取ると、真菜の顔は傷だらけで変わり果て、痛々しい姿でした。莉子は顔が大変なことになっているから、見ない方がいいと言われまして」
冷たくなった2人の手をそっと握り、こう語り掛けた。
「じーじは何もすることができなくてごめんね。代わってあげられなくて本当にごめんね」
その数日前、スマホで真菜さん、莉子ちゃんとビデオ通話していた時のことが思い出される。2人は近く沖縄に来る予定で、莉子ちゃんは水着まで買って楽しみにしていた。上原さんが目を潤ませながら回想する。
「オレンジっぽい可愛い水着を見せてくれました。莉子は沖縄で何回も海に連れて行ったんですけど、ぎゃんぎゃん泣いて海水に足を入れられないんです。でも、その時は初めて『じーじ、海に連れてってね』って莉子のほうから言ってきたんです。かき氷も食べたいと言う。氷を削る機械があるから、イチゴを買ってきてそれをシロップにしようねって」
このやり取りが上原さんにとって、2人と交わした最後の言葉になった。
悲しみのどん底に突き落とされた遺族が、慌ただしく葬儀を終えると、否応なく日常という現実に向き合わざるを得なくなる。その1つが仕事だ。
上原さんも事故発生から約2週間後、職場に復帰した。
しかも引き続き、事故車への対応だ。もう車を触るのも嫌な状態だった。
「会社で損害の見積もりをできるのが私だけだったんです。だから仕事を再開したのですが、事故を起こしたお客さんから『ブレーキが効かなくて』とまた言われる。お客さんは、(被害者の遺族という)私の立場を知らないから仕方がないのですが、そんな言い分を聞くだけで苦しくて耐えられなくなり、会社に相談して接客のない部署へ変えてもらいました」
板金、塗装といった修理をメインにする部署へ異動したが、ただでさえ事故の影響で仕事が手につかない。自宅に帰っても眠れない日々が続き、普段は飲まない酒の力を借りた。事故が起きなければ65歳まで働き続ける予定だったが、事故から1年後の62歳で退職した。
「精神的にダメでした」
二度と行きたくないと思っていた東京へも頻繁に通った。
飯塚受刑者への厳罰を求める署名活動や裁判、打ち合わせ、命日の献花などで事故後に上京した回数はこれまでに20回を超える。刑事裁判は被害者参加制度を利用したため、国から交通費や宿泊費が支給されるが、そのほかは自腹だ。付き添ってくれる親族も含め、1回の往復に10万円近くかかる。仕事も辞めていたため、経済的な負担が重くのしかかった。自宅マンションのローンも10年ほど残っていた。
「真菜と拓也くんは将来、沖縄に移住してカフェをやる計画だったんです。だからマンションに住んでもらおうと思っていましたが、その予定もなくなり、東京までの交通費を捻出するためにマンションを売りました」
事故によって狂わされた人生。あれから4年半が経過し、損害賠償請求訴訟の判決が言い渡された。まだ控訴の可能性があるとはいえ、裁判に一応は一区切りがついた。上原さんが心境を吐露する。
「長くて辛い4年半でした。刑事裁判は1日2~3時間で終わり、また来月来てくださいという繰り返し。もっとてきぱきできればなあと思いました。相手(飯塚被告)が歳を取っていたから長時間できないというのもあるのでしょうけど、だったら被害者遺族の私たちはどうでもいいのかって。民事裁判なんて5分で終わる日もありましたから」
被告の都合が優先され、愛する肉親を失った遺族はなぜ二の次なのか。
もっとも刑事訴訟は、被告を裁く審理であるが故、遺族はこれまで傍聴席で黙って見守るしかなく、法廷の「蚊帳の外」に置かれてきた。2008年に被害者参加制度が導入され、被告人質問や証人尋問に参加できるようになったが、上原さんのように遠方から足を運ぶ遺族にとってはやはり、不公平感が生じる。そんな現実を突きつけられてきたからこそ、被害者支援の在り方にも目を向けるようになった。
「事故の後は色々な面で毎月出ていく支払いが増えました。被害者遺族が日々の生活の中で、どんなふうに困っているのかはあまり知られていない。自分が当事者になって初めて気づくことがたくさんありました。そんな苦しい経験をこれからはお話ししていきたい。本当は事故が起きる前と同じように、静かに生活できればよかったけど、それはもう叶わない。だから真菜と莉子のために前向きに生きていきたいと思います」 自分が代わってあげられなかった無念を背負いながら――。
水谷竹秀(みずたにたけひで)ノンフィクション・ライター。1975年生まれ。上智大学外国語学部卒。2011年、『日本を捨てた男たち』で第9回開高健ノンフィクション賞を受賞。最新刊は『ルポ 国際ロマンス詐欺』(小学館新書)。10年超のフィリピン滞在歴をもとに「アジアと日本人」について、また事件を含めた現代の世相に関しても幅広く取材。昨年3月下旬から2ヵ月弱、ウクライナに滞在していた。
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