「これが貴様らの棺桶だ!」兄弟そろって特攻兵になった「まさかの悲劇」…兄は「回天」「伏龍」、弟は「震洋」の隊員に

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太平洋戦争末期、日本軍は「統率の外道」とも言われた、若者たちの命を武器にした「特攻作戦」を遂行した。敵戦艦などに爆装した飛行機で体当たりする航空特攻が最も有名だが、ほかにも魚雷を改造したり、モーターボートに爆弾を積んだりした海中、水上特攻なども行われるようになる。隊員の多くは10代後半から20代前半の青年たち。中には志半ばでペンを銃に持ち替えた大学生たちも多く含まれている。
「回天を前にして上官が言った『これが貴様らの棺桶だ』という言葉が忘れられません」
2022年9月、102歳で死去した元特攻兵の岩井忠正さんは、生前、こんな言葉を残していた。
慶應義塾大学で哲学を学んでいた1943(昭和17年)10月、文系学生の徴兵猶予停止――いわゆる「学徒出陣」にて海軍に入隊する。そこで人間魚雷「回天」、その後に人間機雷「伏龍」、それぞれの特攻兵器の隊員となった。2つの特攻隊員となった稀有な存在だ。
忠正さん(後段右)と海軍の戦友たち(家族提供)
しかも、忠正さんの弟で、教師になる夢を持ち京都帝国大学(当時)で学んでいた忠熊さん(101歳)も、在学中に海軍に入隊、特攻艇「震洋」の隊員となる。
まさか、偶然にも兄弟そろって特攻兵となったのだ。
国の将来を担う大切な若者たちの命を兵器にする――。それが当時の日本の決断だった。未来を選ぶことすら許されず、学生たちは死へと続く道を進むほかなかった。
「(戦時中に)生きるための選択肢はありませんでしたね。ただ、死ぬ運命に従うだけ。私はそんな時代に生まれ合わせてしまった。運が悪かったんです」
忠正さんはそう静かに呟いていた。
1920年生まれの忠正さんは10人兄弟の9番目、2つ下の忠熊さんは末っ子。2人は中国・大連で育った。父親は日清、日露戦争などで活躍したたたき上げの陸軍将校で、軍人家庭だった。忠正さんの長女・直子さんは次のように語る。
「軍人の家庭でしたが、祖父は軍国教育を子どもたちには強要せず、比較的自由に自分の考えを発言できる環境だったそうです。祖父はむしろ『軍人にはなるもんじゃない』と子どもたちには高等教育を受けさせていました」
忠正さん、忠熊さんの家族は中国・大連で暮らしていた(家族提供)
当時としては革新的で、リベラルな考えを持つ兄姉たち。その影響もあり、成長するにつれて当時の国の政策や社会のあり方にも疑問を持つようになった。
「映画が好きで映画館によく通っていましたね。チャップリンが好きで、洋画をよく見たり、映画雑誌をよく読んでいましたね」(忠正さん)
スクリーン越しに観るアメリカやイギリスといった欧米諸国――。豊かな国力を有し、自由な雰囲気の諸外国に魅せられる一方、忠正さんは当時の日本に漂う閉塞感に辟易していた。
個人が自由に発言をすることが憚られていた時代だ。なかでも国の政策に反する思想を持ち、そうした発言しようものなら容赦なく投獄された。そのため、本心は周囲に悟られることがないようにずっと自分のうちに秘めていた。
ただ一度だけ、忠正さんは弟の忠熊さんと2人で本音を語り合ったことがあった。入隊する前のことだ。
〈俺たちは生きて帰れないだろう。そうすると、新聞で書かれているように『天皇陛下のために命を捧げた』みたいに扱われるのは嫌だな〉(岩井忠正・忠熊共著『特攻 最後の証言』より抜粋)
そう打ち明けると、弟の忠熊さんも同じ気持ちだったことが分かった。
「戦争に必要な鉄や石油はアメリカから輸入していました。そんな国と戦争をして勝てるわけない。なのに『日本には大和魂がある、アメリカにはそれがない。あの連中は命を懸けて戦うことはない。大和魂のある日本は勝つ』という考えがまかり通っていた。そんなの嘘だと思っていましたよ」(忠正さん)
当時はまだ20代前半、学業に打ち込んでいた青年だった忠正さんは「なんのために自分は死ぬのか」と葛藤していた。
だが、転機が訪れる。
入隊を間近に控えたある日のこと、学校近くを歩いていた時に、小さな女の子の手を引く中年女性とすれ違った。どこにでもあるような日常の一コマかもしれないが、忠正さんの葛藤を吹き飛ばすのには十分な出来事だったのだ。
〈私が死のうとしているのは、こういう人たちのためなんだ(中略)私はこういう人たちと生活を共にしていて、私はその一部なんだ。私がたとえ死んでも、この人たちの生活が続く限りその中に生きていけるのではないか〉(前出『特攻 最後の証言』より抜粋)
ある者は「家族のため」、またある者は「恋人のため」――。愛する者と一緒に生きる未来を思い描くことも、選択することすらもできなかった。
岩井忠正・忠熊共著『特攻 最後の証言』
はたしてその後、岩井さん兄弟を待ち受けていた運命とは――。
後編記事『兄弟そろって特攻兵に…母親が生涯、肌身離さず持っていた「息子たちの写真」』でさらに詳しくお伝えします。 #戦争の記憶

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