77歳で煎餅職人を志し、80歳で実現 刑務所、少年院出所者にも職場を提供…86歳の挑戦に迫る

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秋田に出色の年配者がいる。秋田市の北約30キロの五城目(ごじょうめ)町に住む、煎餅(せんべい)職人の伊藤萬治郎さん(86)だ。ノンフィクションライターの井上理津子氏が豪快な来し方についてインタビューした。
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【写真を見る】80歳で煎餅職人となった伊藤さん(86)「老後は悠々自適に暮らそうと思っていたべ。けど、それよか、何か地域に役立つことをする方がいいじゃない」 伊藤さんは、元は最盛期に350人を雇用した縫製工場の社長だった。町議会議員や県議会議員、町商工会会長も歴任。全てを退任した77歳で煎餅職人を志し、80歳で夢をかなえたのだ。煎餅屋の店名は、自身の名前から「イトマン元気村」。

伊藤萬治郎さん 電話でそんな概略を聞き、いよいよ五城目町を訪ねたのだが、近づくと、〈イトマン元気村〉 と手書きした何枚もの看板や幟(のぼり)が現れ、すぐに場所が分かった。店に入ると、〈夢、希望、限界に挑戦、健康長寿、100歳〉 と筆書きした半紙が壁にペタペタと。「やる気満々」が伝わってくる。3年間、日の出から日没まで試行錯誤「まずこれ食べてみて」「萬治郎せんべい」をがぶりといただく。カリッとした食感と、ぬれ煎餅の味わいのちょうど中間だ。思わず「すごくおいしい」と口にすると、「あきたこまち100%よ。醤油も地のもの。オレの真心込めた手焼きだからね」――なぜ煎餅?「一人でできる仕事がいいと思っていたのよ。そしたらテレビの情報番組に煎餅を焼く福岡の人が映って、あっこれだと」 繰り返すが、その時すでに77歳。しかしフットワークは軽い。銚子電鉄(自前で製造販売したぬれ煎餅が大ブレーク)や、草加煎餅の生産者の所へ「焼き方を教えて」と訪ねた。しかし、どちらも機械焼きだったため、修業先に不向きだった。そうこうするうち、岩手県陸前高田市で煎餅の手焼き機が売りに出ているとの情報を得る。「すっ飛んで行って、2台買ったさ」 あきたこまちで生地を作っている食品会社も見つけることができ、仕入れる。「3年間、日の出から日没まで試行錯誤を繰り返して自分で焼き方を開発した」 とは、恐れ入る。出所者を支援 そこまで話してから、いきおい作務衣を羽織った伊藤さんが、手焼き機にガス火をつける。と同時に生地をストーブの近くに並べたのは、水分を飛ばすためのひと手間をかけるためだという。温まった鉄板に乾燥した生地をのせ、押し瓦で押したり、トングでひっくり返したりを繰り返す。醤油だしに浸して2度焼きをする様子を見せてくれた。「1日130枚くらいね。天候や温度、湿度で(焼け具合が)変わってくるから、毎日、真剣勝負」 と胸を張った伊藤さんが、「若いモンに、いろいろとアレさせてきたべ」 と、はにかむような表情になった。地元の子供たちの職業体験を受け入れてきたばかりか、少年院や刑務所を退院・出所するなど保護観察対象者への「お試し雇用」(秋田県就労支援事業者機構・法務省秋田保護観察所)を助成金を受け取らずに買って出ている。さらにひきこもりの人に就労体験も提供しているというのだ。「全然喋らなかったのに、一緒に煎餅を焼いているうちに、あうんの呼吸になるというか、自分から過去や未来を語るようになる子もいてね……」 20年ほど前、妻が「天国へ引っ越し」してから一人暮らし。日の出と共に自宅を出て、自転車を10分こぎ、ここ「イトマン元気村」に来て、日没までいる毎日。その間、お客は来るわ、知人も来るわ。煎餅を焼く手を休め、皆にお茶を入れてもてなし、よもやま話に花が咲く。夕食は、ほぼ毎日なじみの寿司屋で。「健康の秘訣(ひけつ)? 笑顔だな」井上理津子(いのうえりつこ)ノンフィクションライター。1955年奈良市生まれ。京都女子大学短期大学部卒。タウン誌を経てフリーに。人物ルポや町歩き、庶民史をテーマに執筆。著書に『旅情酒場をゆく』『さいごの色街 飛田』『葬送の仕事師たち』『絶滅危惧個人商店』『師弟百景』など。「週刊新潮」2023年6月1日号 掲載
「老後は悠々自適に暮らそうと思っていたべ。けど、それよか、何か地域に役立つことをする方がいいじゃない」
伊藤さんは、元は最盛期に350人を雇用した縫製工場の社長だった。町議会議員や県議会議員、町商工会会長も歴任。全てを退任した77歳で煎餅職人を志し、80歳で夢をかなえたのだ。煎餅屋の店名は、自身の名前から「イトマン元気村」。
電話でそんな概略を聞き、いよいよ五城目町を訪ねたのだが、近づくと、
〈イトマン元気村〉
と手書きした何枚もの看板や幟(のぼり)が現れ、すぐに場所が分かった。店に入ると、
〈夢、希望、限界に挑戦、健康長寿、100歳〉
と筆書きした半紙が壁にペタペタと。「やる気満々」が伝わってくる。
「まずこれ食べてみて」
「萬治郎せんべい」をがぶりといただく。カリッとした食感と、ぬれ煎餅の味わいのちょうど中間だ。思わず「すごくおいしい」と口にすると、
「あきたこまち100%よ。醤油も地のもの。オレの真心込めた手焼きだからね」
――なぜ煎餅?
「一人でできる仕事がいいと思っていたのよ。そしたらテレビの情報番組に煎餅を焼く福岡の人が映って、あっこれだと」
繰り返すが、その時すでに77歳。しかしフットワークは軽い。銚子電鉄(自前で製造販売したぬれ煎餅が大ブレーク)や、草加煎餅の生産者の所へ「焼き方を教えて」と訪ねた。しかし、どちらも機械焼きだったため、修業先に不向きだった。そうこうするうち、岩手県陸前高田市で煎餅の手焼き機が売りに出ているとの情報を得る。
「すっ飛んで行って、2台買ったさ」
あきたこまちで生地を作っている食品会社も見つけることができ、仕入れる。
「3年間、日の出から日没まで試行錯誤を繰り返して自分で焼き方を開発した」
とは、恐れ入る。
そこまで話してから、いきおい作務衣を羽織った伊藤さんが、手焼き機にガス火をつける。と同時に生地をストーブの近くに並べたのは、水分を飛ばすためのひと手間をかけるためだという。温まった鉄板に乾燥した生地をのせ、押し瓦で押したり、トングでひっくり返したりを繰り返す。醤油だしに浸して2度焼きをする様子を見せてくれた。
「1日130枚くらいね。天候や温度、湿度で(焼け具合が)変わってくるから、毎日、真剣勝負」
と胸を張った伊藤さんが、
「若いモンに、いろいろとアレさせてきたべ」
と、はにかむような表情になった。地元の子供たちの職業体験を受け入れてきたばかりか、少年院や刑務所を退院・出所するなど保護観察対象者への「お試し雇用」(秋田県就労支援事業者機構・法務省秋田保護観察所)を助成金を受け取らずに買って出ている。さらにひきこもりの人に就労体験も提供しているというのだ。
「全然喋らなかったのに、一緒に煎餅を焼いているうちに、あうんの呼吸になるというか、自分から過去や未来を語るようになる子もいてね……」
20年ほど前、妻が「天国へ引っ越し」してから一人暮らし。日の出と共に自宅を出て、自転車を10分こぎ、ここ「イトマン元気村」に来て、日没までいる毎日。その間、お客は来るわ、知人も来るわ。煎餅を焼く手を休め、皆にお茶を入れてもてなし、よもやま話に花が咲く。夕食は、ほぼ毎日なじみの寿司屋で。
「健康の秘訣(ひけつ)? 笑顔だな」
井上理津子(いのうえりつこ)ノンフィクションライター。1955年奈良市生まれ。京都女子大学短期大学部卒。タウン誌を経てフリーに。人物ルポや町歩き、庶民史をテーマに執筆。著書に『旅情酒場をゆく』『さいごの色街 飛田』『葬送の仕事師たち』『絶滅危惧個人商店』『師弟百景』など。
「週刊新潮」2023年6月1日号 掲載

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