「俺、先に逝くけどええの?」周りからは“援交”や“パパ活”と言われ…35歳差夫婦が語る、結婚するまでの壮絶な道のり

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共にミュージシャンであり、『コアライオン年の差Life』というYouTubeチャンネルを運営する夫婦の塩崎裕(しおざきゆたか・68)さんと黄潤雅(ホァンユナ・33)さん。35歳差の夫婦であるふたりに、10年前の出会いや“年の差”婚のメリット、結婚を決意した経緯などについて、話を聞いた。(全2回の1回目/続きを読む)
【画像】専門学校の生徒と先生…35歳差夫婦の出会いから結婚までを写真で振り返る
35歳差夫婦の塩崎裕さんと黄潤雅さん 写真=本人提供
◆◆◆
――出会いは、2010年。潤雅さんが20歳、裕さんが54歳のときだそうですね。
黄潤雅(以下、潤雅) 私が19歳か20歳のときですね。大学に進もうと思ったけど落ちちゃって、1年空いて音楽系の専門学校に入ったんですよ。
その入学式に塩さんがおって、すでにこんな感じの白髪で、そこに青のメッシュが入っていて。
塩崎裕(以下、裕) 専門学校の副学長だったんです。
潤雅 とにかく目立っていて。パッと目に入った瞬間に、背も高いのもあって「うわ、かっこいい先生おるな」みたいな。でも「メッチャ好きやわ。絶対告白しよう」とかじゃなくて、単純に「かっこいいな」と感じたんですね。
――裕さん、ちなみに身長はどれくらいですか?
裕 182センチとか183センチとかです。
――自分でもかっこいいと思われている自覚はあったのでしょうか。
裕 そんなん一切ないですよ(笑)。
――入学式で生徒も多いですから、潤雅さんから「かっこいい」と思われていることに気づくわけもなく。
裕 場が場ですから、その他大勢としか捉えていないです。多少なりとも目立つ先生なんていっぱいいるし、ワーキャーいってる女の子も多いですよ。
潤雅 でも、入学式が終わってから絡みはありましたよ。生徒たちから「先生~、今日も来てるやん」「塩さん~」なんて声を掛けられてて、そのたびに「ちゃんと名前で呼べ」みたいな。「塩さん」と呼んだらピシャッと返してくる、ちょっと怖い感じのキャラだったので。
授業は率先して居眠りしていた――潤雅さんは、学校でなにを専攻されていたのですか?潤雅 私はボーカルで、塩さんがベーシストの先生だったんです。オリジナルアンサンブルというアンサンブルの先生もしていて、私達は自分で書いた曲を塩さんに持っていっては指導を受けるという。裕 僕はいろんな科目を持っていて、アンサンブルはそのなかのひとつでした。各専攻の生徒たちが集まって、オリジナルの楽曲を作ったり、色んなジャンルの曲を演奏したりするんですけど、そこに潤雅がやってきたんです。 彼女は音楽業界入門という僕がやっていた講義も受けていたけど、率先して寝てました。まぁ、面白くない部分もあるのはわかりますけどね。潤雅 ただただ眠たかった(笑)。塩さんの声が、いつも子守唄になってるっていう感じ。卒業後も音楽で繋がった2人――お付き合いがはじまるのは、10年後の2020年。潤雅さんが30歳、裕さんが64歳のときですが、ドラマティックな再会を経て恋仲になったのでしょうか。裕 僕はCMなんかの音楽制作もやるので、それ用に自宅とは別にスタジオ的な仕事部屋を持っていて。いまもあるんですけど。潤雅 そこは録音もできるんですよ。私は卒業してからシンガーソングライターとして活動していたんですけど、自分の曲をどんなふうにアレンジしたらいいのか、CDを作る過程ってどういったものなのか、業界にどうやって入り込んでいったらいいのかとか、学校に通っていた2年間だけではわからないことが多かったんです。 そういったことを卒業間近から聞くようになって、卒業してからもいろいろと相談していたんです。塩さんのほうも「録音しに来ていいよ」と言ってくれたり、スタジオで作業を手伝ってくれたりして。裕 僕はベースをメインで教えてましたけど、生徒のなかには2年ぐらいでは学び足りないから卒業してもスタジオに練習しに来る子がいるんです。楽器のプレイ以外でも、音楽活動していくのにはどうしたらいいのか相談しに訪ねてくる卒業生は少なくないですね。――裕さんは“ちょっと怖い感じのキャラ”だったとのことですが、卒業生に対しても厳しく接していましたか?潤雅 スタジオで作業してもらったときなんか、目つきがすごく怖かったですよ。「おまえ、ここに来たからには覚悟せぇよ」「もう、業界に入ったようなもんやぞ」みたいな。 先生と生徒よりもさらに厳しくなったというか。業界の人間のひとりとして見ているんですよ。そういうなかで、バックミュージシャンを紹介してもらったり、ミニアルバムやアルバムを作ったり。 あと、塩さんが運営しているYouTubeチャンネルがあって、そこのMCの仕事をいただいたり。なので、月に2回ぐらいは会っていたんですね。――訪ねてくる卒業生たちのなかでも、潤雅さんはなにかビビッとくるものがあったのですか。YouTubeチャンネルのMCを任せるくらいですから。裕 学校でアンサンブルをやっていたと話しましたけど、潤雅が作るオリジナル曲はすごく面白いなと感じていました。そこへ相談にやってきたので、僕のほうでも「アルバムを作ったらどうや」と言ったり、ふたりで演奏したり。潤雅 「いつか売れるんじゃないか。そうしたら儲けもの」っていう商売道具的なとこもあったと思います(笑)。それでいっちょ噛んどったら、自分もちょっと儲けられるみたいな。裕 儲かるというより、そういう才能を世に送り出せたらすごいことだなとは考えていましたね。コロナ禍を機に急激に距離が縮まった――そうしているなかで関係性が変わっていったと。潤雅 2020年にコロナ禍になって、定期的に配信していたYouTube番組もスポンサーさんが降りて終わってしまったんですね。そのあたりから、塩さんが家に帰らないで、ずっと仕事部屋にいるようになって。「あれ、今日も帰らないんですか?」みたいな日が、ずーっと続いてたんですね。 で、よくよく聞いたら離婚して、家を出たと。そのときにはじめてプライベートなことを聞いて。ほかの先生はInstagramやFacebookで「子供が生まれました」とか載っけてたんですけど、塩さんってプライベートをまったく明かさない人で私はなんにも知らなかったんですよ。だから「どんな生活をしてんのやろ?」って謎なところがあって、いま思えばそこもちょっと惹かれる部分でもあったんですけど。――いきなり離婚したと告げられたのですか。潤雅 ですね。私のほうもコロナでライブハウスが大変になっていて、どうやって活動していこうかと考えていたんですよ。前から日本縦断してみたいのもあったんで、車で各地の道の駅を回ったりして、配信もしながら野外ライブをできないものかとか。 そんな相談をしていたら、いきなりプライベートの話もぶっかけてきて「エーッ!」みたいな。「なんだか、物事が変わりつつある時期なんですね」なんて返したのを覚えてますね(笑)。 それを機に急激に距離が縮まりました。「じゃあ、車でどこかに行って野外ライブを配信してみよか」となって、すぐにふたりで2日がかりでライブをやって。そうなると、どうしても泊まり込みになるし、夜も通しで飲んだりするので、さらに話し込んで、意気投合して。裕 これだけ年の差があるんですけど、話しているうちにだんだんと同じ価値観を持ってることがわかってきて。僕は離婚して「これからは、ひとりで生きていくんだな」と考えていたんですけれども、そこへ同じ価値観を持った人が現れたと。潤雅 基本的には「このジャズシンガーが好きや」とか「このプレイヤーがすごい」とか、音楽の話題が中心でしたけどね。塩さんは、寝ても、覚めても、酔っていても音楽しかない人なんで。「この人やわ!」と直感で思った――「付き合いますか」と交際がスタートしたのではなく、気づいたら付き合っていた。潤雅 2020年の夏あたりに、私が転がり込みました(笑)。当時、付き合っていた彼氏がいたんですけど、土日にライブをやるとなると「その夢、いつになったらあきらめるの?」とか「俺との未来はどうやって考えてるの?」とか言われちゃっていて。 でも、塩さんは「自分のやりたいことを一番に考えなさい」って人だったので。しかも時期的にコロナ禍で、「だからこそ、よけいにそういう気持ちを大切にしなさい」と言ってくれたり。そういうこともあって「この人やわ!」だなと。で、彼氏とお別れして塩さんのもとへ。周りから“援交”とか“パパ活”とか言われて――転がり込んだのは、裕さんの仕事部屋ですか。潤雅 そうです。コンビニ弁当ばかり食べていたので、「大丈夫?」みたいのもあって。私は実家暮らしだったので、ちょっとした料理を持っていくようになりました。 そうこうしてたら、仕事部屋の隣の部屋が空いて。ふた部屋横並びで借りて、片方を完全にプライベートの部屋にして「一緒に暮らそうか」と。裕 こっちとしては「本当にいいのか?」という感じでした。年齢の話はしたんですけども、歳の差は問題じゃないって言うんです。潤雅 単純に一緒におれたらいいかなっていう。一石二鳥というか、プライベートも充実するし、音楽のことも逐一相談に乗ってもらえるような環境だったので。やっぱり周囲からは年の差に目を向けられたけど、私たちは35歳差っていうのは頭になかったですよね。裕 感覚的に年齢差はなかったね。潤雅 でも、やっぱり周りからは“援交”とか“パパ活”とか、いろんなことを言われて。裕 お金持ってないです。潤雅 私の母も父も反対はしなかったですけど「それならちゃんと籍入れておいたほうが世間的にもいいんちゃう?」って言われて。――年齢差があるゆえに、お互いの知らなかった世界を知ることができたりは。裕 それはありますね。お互いに知らなかった部分がたくさんあるので。音楽に関しては、僕は長くやってきたので「あの頃はこうやった」「この頃はどうやった」と実体験を踏まえて伝えることができて、潤雅からしてみれば知らない部分が多いので興味津々になるみたいです。実際、潤雅が生まれる前から盛んにバンド活動していたんでね。 逆にいまの音楽を僕はあんまり聞いていなくて、潤雅のほうが聞いているわけです。で、僕も曲を作るときは潤雅から最近の音楽について教わります。「いまはこういうことをやってるんか」って、めちゃくちゃ参考になりますね。潤雅 そういった差はありますけど、ふたりとも白黒時代のジャズが好きなんですよ。根本的に好みが一緒で、一緒になんか聞こうかってときも自然にその頃のジャズを選んだりして。 音楽以外でも、食事や出かける場所の好みもどこか似てるから。ふたりとも「映画を見るよりも、山とか海に行こうか」という感じなんです。裕 出かけた先で、どうやって飲もうかとかね。潤雅 お互い飲むのが好きやから。「事実婚推し」だった潤雅さん――裕さんは“年の差”について、誰かになにか言われたりは?裕 周囲に話してなかったんでね。というより、そもそも話す相手がいなかった。離婚のことも、潤雅と一緒になったことも報告してない。「俺の自由やろ」という話ですからね。――潤雅さんの両親に入籍を勧められたとのことですが、おふたりとしては結婚を意識してはいたのですか。潤雅 変な考えかもしれないけど、結婚ってなんのためにするのかわからないってところが私にはあって。「紙切れひとつでなにが変わるのかな」とか。だから、事実婚でもいいかって。 塩さんは、事実婚よりは籍を入れたほうがいいんじゃないかっていうタイプだったんですけど、私は「事実婚でいいやん。あこがれるやん」と事実婚推しで。裕 正直、潤雅のことはあまり相手にしていなかったんですよ。でも、ガンガンとアプローチされるなかで「潤雅とやったら、もう一回やり直せるかな」と思えるようになってきて。その一方で「俺、先に逝くけどええの?」というのもありました。 とにかく一緒におるんだったら、そのあたりはちゃんと筋を通さないと。それで「潤雅のご両親にも挨拶に行く」って言ったんです。潤雅 塩さんは結婚という概念に縛られすぎているようにも感じたんです。私はそれも込みで「重荷になるような結婚じゃなくて、事実婚でいいんじゃないか」って思っていたんですけど。――裕さんの親とも顔合わせをしたのでしょうか。裕 親父は亡くなっているので、93歳の母親と。潤雅 最初は会うのも拒否されるほどで。自分の息子が孫より年下の子と結婚するだけでなく、私が韓国籍なので「国際結婚ってどういうこと?」っていう。「それ以上は話を聞きたくない!」ぐらいの勢いでしたね。(#2に続く)「子どもが欲しいのはエゴなんじゃないか」娘が20歳の時に父親は87歳、人工授精10回失敗の末、妊娠…35歳差夫婦が明かす、子どもへの思い へ続く(平田 裕介)
――潤雅さんは、学校でなにを専攻されていたのですか?
潤雅 私はボーカルで、塩さんがベーシストの先生だったんです。オリジナルアンサンブルというアンサンブルの先生もしていて、私達は自分で書いた曲を塩さんに持っていっては指導を受けるという。
裕 僕はいろんな科目を持っていて、アンサンブルはそのなかのひとつでした。各専攻の生徒たちが集まって、オリジナルの楽曲を作ったり、色んなジャンルの曲を演奏したりするんですけど、そこに潤雅がやってきたんです。
彼女は音楽業界入門という僕がやっていた講義も受けていたけど、率先して寝てました。まぁ、面白くない部分もあるのはわかりますけどね。
潤雅 ただただ眠たかった(笑)。塩さんの声が、いつも子守唄になってるっていう感じ。
――お付き合いがはじまるのは、10年後の2020年。潤雅さんが30歳、裕さんが64歳のときですが、ドラマティックな再会を経て恋仲になったのでしょうか。
裕 僕はCMなんかの音楽制作もやるので、それ用に自宅とは別にスタジオ的な仕事部屋を持っていて。いまもあるんですけど。
潤雅 そこは録音もできるんですよ。私は卒業してからシンガーソングライターとして活動していたんですけど、自分の曲をどんなふうにアレンジしたらいいのか、CDを作る過程ってどういったものなのか、業界にどうやって入り込んでいったらいいのかとか、学校に通っていた2年間だけではわからないことが多かったんです。
そういったことを卒業間近から聞くようになって、卒業してからもいろいろと相談していたんです。塩さんのほうも「録音しに来ていいよ」と言ってくれたり、スタジオで作業を手伝ってくれたりして。
裕 僕はベースをメインで教えてましたけど、生徒のなかには2年ぐらいでは学び足りないから卒業してもスタジオに練習しに来る子がいるんです。楽器のプレイ以外でも、音楽活動していくのにはどうしたらいいのか相談しに訪ねてくる卒業生は少なくないですね。――裕さんは“ちょっと怖い感じのキャラ”だったとのことですが、卒業生に対しても厳しく接していましたか?潤雅 スタジオで作業してもらったときなんか、目つきがすごく怖かったですよ。「おまえ、ここに来たからには覚悟せぇよ」「もう、業界に入ったようなもんやぞ」みたいな。 先生と生徒よりもさらに厳しくなったというか。業界の人間のひとりとして見ているんですよ。そういうなかで、バックミュージシャンを紹介してもらったり、ミニアルバムやアルバムを作ったり。 あと、塩さんが運営しているYouTubeチャンネルがあって、そこのMCの仕事をいただいたり。なので、月に2回ぐらいは会っていたんですね。――訪ねてくる卒業生たちのなかでも、潤雅さんはなにかビビッとくるものがあったのですか。YouTubeチャンネルのMCを任せるくらいですから。裕 学校でアンサンブルをやっていたと話しましたけど、潤雅が作るオリジナル曲はすごく面白いなと感じていました。そこへ相談にやってきたので、僕のほうでも「アルバムを作ったらどうや」と言ったり、ふたりで演奏したり。潤雅 「いつか売れるんじゃないか。そうしたら儲けもの」っていう商売道具的なとこもあったと思います(笑)。それでいっちょ噛んどったら、自分もちょっと儲けられるみたいな。裕 儲かるというより、そういう才能を世に送り出せたらすごいことだなとは考えていましたね。コロナ禍を機に急激に距離が縮まった――そうしているなかで関係性が変わっていったと。潤雅 2020年にコロナ禍になって、定期的に配信していたYouTube番組もスポンサーさんが降りて終わってしまったんですね。そのあたりから、塩さんが家に帰らないで、ずっと仕事部屋にいるようになって。「あれ、今日も帰らないんですか?」みたいな日が、ずーっと続いてたんですね。 で、よくよく聞いたら離婚して、家を出たと。そのときにはじめてプライベートなことを聞いて。ほかの先生はInstagramやFacebookで「子供が生まれました」とか載っけてたんですけど、塩さんってプライベートをまったく明かさない人で私はなんにも知らなかったんですよ。だから「どんな生活をしてんのやろ?」って謎なところがあって、いま思えばそこもちょっと惹かれる部分でもあったんですけど。――いきなり離婚したと告げられたのですか。潤雅 ですね。私のほうもコロナでライブハウスが大変になっていて、どうやって活動していこうかと考えていたんですよ。前から日本縦断してみたいのもあったんで、車で各地の道の駅を回ったりして、配信もしながら野外ライブをできないものかとか。 そんな相談をしていたら、いきなりプライベートの話もぶっかけてきて「エーッ!」みたいな。「なんだか、物事が変わりつつある時期なんですね」なんて返したのを覚えてますね(笑)。 それを機に急激に距離が縮まりました。「じゃあ、車でどこかに行って野外ライブを配信してみよか」となって、すぐにふたりで2日がかりでライブをやって。そうなると、どうしても泊まり込みになるし、夜も通しで飲んだりするので、さらに話し込んで、意気投合して。裕 これだけ年の差があるんですけど、話しているうちにだんだんと同じ価値観を持ってることがわかってきて。僕は離婚して「これからは、ひとりで生きていくんだな」と考えていたんですけれども、そこへ同じ価値観を持った人が現れたと。潤雅 基本的には「このジャズシンガーが好きや」とか「このプレイヤーがすごい」とか、音楽の話題が中心でしたけどね。塩さんは、寝ても、覚めても、酔っていても音楽しかない人なんで。「この人やわ!」と直感で思った――「付き合いますか」と交際がスタートしたのではなく、気づいたら付き合っていた。潤雅 2020年の夏あたりに、私が転がり込みました(笑)。当時、付き合っていた彼氏がいたんですけど、土日にライブをやるとなると「その夢、いつになったらあきらめるの?」とか「俺との未来はどうやって考えてるの?」とか言われちゃっていて。 でも、塩さんは「自分のやりたいことを一番に考えなさい」って人だったので。しかも時期的にコロナ禍で、「だからこそ、よけいにそういう気持ちを大切にしなさい」と言ってくれたり。そういうこともあって「この人やわ!」だなと。で、彼氏とお別れして塩さんのもとへ。周りから“援交”とか“パパ活”とか言われて――転がり込んだのは、裕さんの仕事部屋ですか。潤雅 そうです。コンビニ弁当ばかり食べていたので、「大丈夫?」みたいのもあって。私は実家暮らしだったので、ちょっとした料理を持っていくようになりました。 そうこうしてたら、仕事部屋の隣の部屋が空いて。ふた部屋横並びで借りて、片方を完全にプライベートの部屋にして「一緒に暮らそうか」と。裕 こっちとしては「本当にいいのか?」という感じでした。年齢の話はしたんですけども、歳の差は問題じゃないって言うんです。潤雅 単純に一緒におれたらいいかなっていう。一石二鳥というか、プライベートも充実するし、音楽のことも逐一相談に乗ってもらえるような環境だったので。やっぱり周囲からは年の差に目を向けられたけど、私たちは35歳差っていうのは頭になかったですよね。裕 感覚的に年齢差はなかったね。潤雅 でも、やっぱり周りからは“援交”とか“パパ活”とか、いろんなことを言われて。裕 お金持ってないです。潤雅 私の母も父も反対はしなかったですけど「それならちゃんと籍入れておいたほうが世間的にもいいんちゃう?」って言われて。――年齢差があるゆえに、お互いの知らなかった世界を知ることができたりは。裕 それはありますね。お互いに知らなかった部分がたくさんあるので。音楽に関しては、僕は長くやってきたので「あの頃はこうやった」「この頃はどうやった」と実体験を踏まえて伝えることができて、潤雅からしてみれば知らない部分が多いので興味津々になるみたいです。実際、潤雅が生まれる前から盛んにバンド活動していたんでね。 逆にいまの音楽を僕はあんまり聞いていなくて、潤雅のほうが聞いているわけです。で、僕も曲を作るときは潤雅から最近の音楽について教わります。「いまはこういうことをやってるんか」って、めちゃくちゃ参考になりますね。潤雅 そういった差はありますけど、ふたりとも白黒時代のジャズが好きなんですよ。根本的に好みが一緒で、一緒になんか聞こうかってときも自然にその頃のジャズを選んだりして。 音楽以外でも、食事や出かける場所の好みもどこか似てるから。ふたりとも「映画を見るよりも、山とか海に行こうか」という感じなんです。裕 出かけた先で、どうやって飲もうかとかね。潤雅 お互い飲むのが好きやから。「事実婚推し」だった潤雅さん――裕さんは“年の差”について、誰かになにか言われたりは?裕 周囲に話してなかったんでね。というより、そもそも話す相手がいなかった。離婚のことも、潤雅と一緒になったことも報告してない。「俺の自由やろ」という話ですからね。――潤雅さんの両親に入籍を勧められたとのことですが、おふたりとしては結婚を意識してはいたのですか。潤雅 変な考えかもしれないけど、結婚ってなんのためにするのかわからないってところが私にはあって。「紙切れひとつでなにが変わるのかな」とか。だから、事実婚でもいいかって。 塩さんは、事実婚よりは籍を入れたほうがいいんじゃないかっていうタイプだったんですけど、私は「事実婚でいいやん。あこがれるやん」と事実婚推しで。裕 正直、潤雅のことはあまり相手にしていなかったんですよ。でも、ガンガンとアプローチされるなかで「潤雅とやったら、もう一回やり直せるかな」と思えるようになってきて。その一方で「俺、先に逝くけどええの?」というのもありました。 とにかく一緒におるんだったら、そのあたりはちゃんと筋を通さないと。それで「潤雅のご両親にも挨拶に行く」って言ったんです。潤雅 塩さんは結婚という概念に縛られすぎているようにも感じたんです。私はそれも込みで「重荷になるような結婚じゃなくて、事実婚でいいんじゃないか」って思っていたんですけど。――裕さんの親とも顔合わせをしたのでしょうか。裕 親父は亡くなっているので、93歳の母親と。潤雅 最初は会うのも拒否されるほどで。自分の息子が孫より年下の子と結婚するだけでなく、私が韓国籍なので「国際結婚ってどういうこと?」っていう。「それ以上は話を聞きたくない!」ぐらいの勢いでしたね。(#2に続く)「子どもが欲しいのはエゴなんじゃないか」娘が20歳の時に父親は87歳、人工授精10回失敗の末、妊娠…35歳差夫婦が明かす、子どもへの思い へ続く(平田 裕介)
裕 僕はベースをメインで教えてましたけど、生徒のなかには2年ぐらいでは学び足りないから卒業してもスタジオに練習しに来る子がいるんです。楽器のプレイ以外でも、音楽活動していくのにはどうしたらいいのか相談しに訪ねてくる卒業生は少なくないですね。
――裕さんは“ちょっと怖い感じのキャラ”だったとのことですが、卒業生に対しても厳しく接していましたか?
潤雅 スタジオで作業してもらったときなんか、目つきがすごく怖かったですよ。「おまえ、ここに来たからには覚悟せぇよ」「もう、業界に入ったようなもんやぞ」みたいな。
先生と生徒よりもさらに厳しくなったというか。業界の人間のひとりとして見ているんですよ。そういうなかで、バックミュージシャンを紹介してもらったり、ミニアルバムやアルバムを作ったり。
あと、塩さんが運営しているYouTubeチャンネルがあって、そこのMCの仕事をいただいたり。なので、月に2回ぐらいは会っていたんですね。
――訪ねてくる卒業生たちのなかでも、潤雅さんはなにかビビッとくるものがあったのですか。YouTubeチャンネルのMCを任せるくらいですから。
裕 学校でアンサンブルをやっていたと話しましたけど、潤雅が作るオリジナル曲はすごく面白いなと感じていました。そこへ相談にやってきたので、僕のほうでも「アルバムを作ったらどうや」と言ったり、ふたりで演奏したり。
潤雅 「いつか売れるんじゃないか。そうしたら儲けもの」っていう商売道具的なとこもあったと思います(笑)。それでいっちょ噛んどったら、自分もちょっと儲けられるみたいな。
裕 儲かるというより、そういう才能を世に送り出せたらすごいことだなとは考えていましたね。
――そうしているなかで関係性が変わっていったと。
潤雅 2020年にコロナ禍になって、定期的に配信していたYouTube番組もスポンサーさんが降りて終わってしまったんですね。そのあたりから、塩さんが家に帰らないで、ずっと仕事部屋にいるようになって。「あれ、今日も帰らないんですか?」みたいな日が、ずーっと続いてたんですね。
で、よくよく聞いたら離婚して、家を出たと。そのときにはじめてプライベートなことを聞いて。ほかの先生はInstagramやFacebookで「子供が生まれました」とか載っけてたんですけど、塩さんってプライベートをまったく明かさない人で私はなんにも知らなかったんですよ。だから「どんな生活をしてんのやろ?」って謎なところがあって、いま思えばそこもちょっと惹かれる部分でもあったんですけど。
――いきなり離婚したと告げられたのですか。潤雅 ですね。私のほうもコロナでライブハウスが大変になっていて、どうやって活動していこうかと考えていたんですよ。前から日本縦断してみたいのもあったんで、車で各地の道の駅を回ったりして、配信もしながら野外ライブをできないものかとか。 そんな相談をしていたら、いきなりプライベートの話もぶっかけてきて「エーッ!」みたいな。「なんだか、物事が変わりつつある時期なんですね」なんて返したのを覚えてますね(笑)。 それを機に急激に距離が縮まりました。「じゃあ、車でどこかに行って野外ライブを配信してみよか」となって、すぐにふたりで2日がかりでライブをやって。そうなると、どうしても泊まり込みになるし、夜も通しで飲んだりするので、さらに話し込んで、意気投合して。裕 これだけ年の差があるんですけど、話しているうちにだんだんと同じ価値観を持ってることがわかってきて。僕は離婚して「これからは、ひとりで生きていくんだな」と考えていたんですけれども、そこへ同じ価値観を持った人が現れたと。潤雅 基本的には「このジャズシンガーが好きや」とか「このプレイヤーがすごい」とか、音楽の話題が中心でしたけどね。塩さんは、寝ても、覚めても、酔っていても音楽しかない人なんで。「この人やわ!」と直感で思った――「付き合いますか」と交際がスタートしたのではなく、気づいたら付き合っていた。潤雅 2020年の夏あたりに、私が転がり込みました(笑)。当時、付き合っていた彼氏がいたんですけど、土日にライブをやるとなると「その夢、いつになったらあきらめるの?」とか「俺との未来はどうやって考えてるの?」とか言われちゃっていて。 でも、塩さんは「自分のやりたいことを一番に考えなさい」って人だったので。しかも時期的にコロナ禍で、「だからこそ、よけいにそういう気持ちを大切にしなさい」と言ってくれたり。そういうこともあって「この人やわ!」だなと。で、彼氏とお別れして塩さんのもとへ。周りから“援交”とか“パパ活”とか言われて――転がり込んだのは、裕さんの仕事部屋ですか。潤雅 そうです。コンビニ弁当ばかり食べていたので、「大丈夫?」みたいのもあって。私は実家暮らしだったので、ちょっとした料理を持っていくようになりました。 そうこうしてたら、仕事部屋の隣の部屋が空いて。ふた部屋横並びで借りて、片方を完全にプライベートの部屋にして「一緒に暮らそうか」と。裕 こっちとしては「本当にいいのか?」という感じでした。年齢の話はしたんですけども、歳の差は問題じゃないって言うんです。潤雅 単純に一緒におれたらいいかなっていう。一石二鳥というか、プライベートも充実するし、音楽のことも逐一相談に乗ってもらえるような環境だったので。やっぱり周囲からは年の差に目を向けられたけど、私たちは35歳差っていうのは頭になかったですよね。裕 感覚的に年齢差はなかったね。潤雅 でも、やっぱり周りからは“援交”とか“パパ活”とか、いろんなことを言われて。裕 お金持ってないです。潤雅 私の母も父も反対はしなかったですけど「それならちゃんと籍入れておいたほうが世間的にもいいんちゃう?」って言われて。――年齢差があるゆえに、お互いの知らなかった世界を知ることができたりは。裕 それはありますね。お互いに知らなかった部分がたくさんあるので。音楽に関しては、僕は長くやってきたので「あの頃はこうやった」「この頃はどうやった」と実体験を踏まえて伝えることができて、潤雅からしてみれば知らない部分が多いので興味津々になるみたいです。実際、潤雅が生まれる前から盛んにバンド活動していたんでね。 逆にいまの音楽を僕はあんまり聞いていなくて、潤雅のほうが聞いているわけです。で、僕も曲を作るときは潤雅から最近の音楽について教わります。「いまはこういうことをやってるんか」って、めちゃくちゃ参考になりますね。潤雅 そういった差はありますけど、ふたりとも白黒時代のジャズが好きなんですよ。根本的に好みが一緒で、一緒になんか聞こうかってときも自然にその頃のジャズを選んだりして。 音楽以外でも、食事や出かける場所の好みもどこか似てるから。ふたりとも「映画を見るよりも、山とか海に行こうか」という感じなんです。裕 出かけた先で、どうやって飲もうかとかね。潤雅 お互い飲むのが好きやから。「事実婚推し」だった潤雅さん――裕さんは“年の差”について、誰かになにか言われたりは?裕 周囲に話してなかったんでね。というより、そもそも話す相手がいなかった。離婚のことも、潤雅と一緒になったことも報告してない。「俺の自由やろ」という話ですからね。――潤雅さんの両親に入籍を勧められたとのことですが、おふたりとしては結婚を意識してはいたのですか。潤雅 変な考えかもしれないけど、結婚ってなんのためにするのかわからないってところが私にはあって。「紙切れひとつでなにが変わるのかな」とか。だから、事実婚でもいいかって。 塩さんは、事実婚よりは籍を入れたほうがいいんじゃないかっていうタイプだったんですけど、私は「事実婚でいいやん。あこがれるやん」と事実婚推しで。裕 正直、潤雅のことはあまり相手にしていなかったんですよ。でも、ガンガンとアプローチされるなかで「潤雅とやったら、もう一回やり直せるかな」と思えるようになってきて。その一方で「俺、先に逝くけどええの?」というのもありました。 とにかく一緒におるんだったら、そのあたりはちゃんと筋を通さないと。それで「潤雅のご両親にも挨拶に行く」って言ったんです。潤雅 塩さんは結婚という概念に縛られすぎているようにも感じたんです。私はそれも込みで「重荷になるような結婚じゃなくて、事実婚でいいんじゃないか」って思っていたんですけど。――裕さんの親とも顔合わせをしたのでしょうか。裕 親父は亡くなっているので、93歳の母親と。潤雅 最初は会うのも拒否されるほどで。自分の息子が孫より年下の子と結婚するだけでなく、私が韓国籍なので「国際結婚ってどういうこと?」っていう。「それ以上は話を聞きたくない!」ぐらいの勢いでしたね。(#2に続く)「子どもが欲しいのはエゴなんじゃないか」娘が20歳の時に父親は87歳、人工授精10回失敗の末、妊娠…35歳差夫婦が明かす、子どもへの思い へ続く(平田 裕介)
――いきなり離婚したと告げられたのですか。
潤雅 ですね。私のほうもコロナでライブハウスが大変になっていて、どうやって活動していこうかと考えていたんですよ。前から日本縦断してみたいのもあったんで、車で各地の道の駅を回ったりして、配信もしながら野外ライブをできないものかとか。
そんな相談をしていたら、いきなりプライベートの話もぶっかけてきて「エーッ!」みたいな。「なんだか、物事が変わりつつある時期なんですね」なんて返したのを覚えてますね(笑)。
それを機に急激に距離が縮まりました。「じゃあ、車でどこかに行って野外ライブを配信してみよか」となって、すぐにふたりで2日がかりでライブをやって。そうなると、どうしても泊まり込みになるし、夜も通しで飲んだりするので、さらに話し込んで、意気投合して。
裕 これだけ年の差があるんですけど、話しているうちにだんだんと同じ価値観を持ってることがわかってきて。僕は離婚して「これからは、ひとりで生きていくんだな」と考えていたんですけれども、そこへ同じ価値観を持った人が現れたと。
潤雅 基本的には「このジャズシンガーが好きや」とか「このプレイヤーがすごい」とか、音楽の話題が中心でしたけどね。塩さんは、寝ても、覚めても、酔っていても音楽しかない人なんで。
――「付き合いますか」と交際がスタートしたのではなく、気づいたら付き合っていた。
潤雅 2020年の夏あたりに、私が転がり込みました(笑)。当時、付き合っていた彼氏がいたんですけど、土日にライブをやるとなると「その夢、いつになったらあきらめるの?」とか「俺との未来はどうやって考えてるの?」とか言われちゃっていて。
でも、塩さんは「自分のやりたいことを一番に考えなさい」って人だったので。しかも時期的にコロナ禍で、「だからこそ、よけいにそういう気持ちを大切にしなさい」と言ってくれたり。そういうこともあって「この人やわ!」だなと。で、彼氏とお別れして塩さんのもとへ。
周りから“援交”とか“パパ活”とか言われて――転がり込んだのは、裕さんの仕事部屋ですか。潤雅 そうです。コンビニ弁当ばかり食べていたので、「大丈夫?」みたいのもあって。私は実家暮らしだったので、ちょっとした料理を持っていくようになりました。 そうこうしてたら、仕事部屋の隣の部屋が空いて。ふた部屋横並びで借りて、片方を完全にプライベートの部屋にして「一緒に暮らそうか」と。裕 こっちとしては「本当にいいのか?」という感じでした。年齢の話はしたんですけども、歳の差は問題じゃないって言うんです。潤雅 単純に一緒におれたらいいかなっていう。一石二鳥というか、プライベートも充実するし、音楽のことも逐一相談に乗ってもらえるような環境だったので。やっぱり周囲からは年の差に目を向けられたけど、私たちは35歳差っていうのは頭になかったですよね。裕 感覚的に年齢差はなかったね。潤雅 でも、やっぱり周りからは“援交”とか“パパ活”とか、いろんなことを言われて。裕 お金持ってないです。潤雅 私の母も父も反対はしなかったですけど「それならちゃんと籍入れておいたほうが世間的にもいいんちゃう?」って言われて。――年齢差があるゆえに、お互いの知らなかった世界を知ることができたりは。裕 それはありますね。お互いに知らなかった部分がたくさんあるので。音楽に関しては、僕は長くやってきたので「あの頃はこうやった」「この頃はどうやった」と実体験を踏まえて伝えることができて、潤雅からしてみれば知らない部分が多いので興味津々になるみたいです。実際、潤雅が生まれる前から盛んにバンド活動していたんでね。 逆にいまの音楽を僕はあんまり聞いていなくて、潤雅のほうが聞いているわけです。で、僕も曲を作るときは潤雅から最近の音楽について教わります。「いまはこういうことをやってるんか」って、めちゃくちゃ参考になりますね。潤雅 そういった差はありますけど、ふたりとも白黒時代のジャズが好きなんですよ。根本的に好みが一緒で、一緒になんか聞こうかってときも自然にその頃のジャズを選んだりして。 音楽以外でも、食事や出かける場所の好みもどこか似てるから。ふたりとも「映画を見るよりも、山とか海に行こうか」という感じなんです。裕 出かけた先で、どうやって飲もうかとかね。潤雅 お互い飲むのが好きやから。「事実婚推し」だった潤雅さん――裕さんは“年の差”について、誰かになにか言われたりは?裕 周囲に話してなかったんでね。というより、そもそも話す相手がいなかった。離婚のことも、潤雅と一緒になったことも報告してない。「俺の自由やろ」という話ですからね。――潤雅さんの両親に入籍を勧められたとのことですが、おふたりとしては結婚を意識してはいたのですか。潤雅 変な考えかもしれないけど、結婚ってなんのためにするのかわからないってところが私にはあって。「紙切れひとつでなにが変わるのかな」とか。だから、事実婚でもいいかって。 塩さんは、事実婚よりは籍を入れたほうがいいんじゃないかっていうタイプだったんですけど、私は「事実婚でいいやん。あこがれるやん」と事実婚推しで。裕 正直、潤雅のことはあまり相手にしていなかったんですよ。でも、ガンガンとアプローチされるなかで「潤雅とやったら、もう一回やり直せるかな」と思えるようになってきて。その一方で「俺、先に逝くけどええの?」というのもありました。 とにかく一緒におるんだったら、そのあたりはちゃんと筋を通さないと。それで「潤雅のご両親にも挨拶に行く」って言ったんです。潤雅 塩さんは結婚という概念に縛られすぎているようにも感じたんです。私はそれも込みで「重荷になるような結婚じゃなくて、事実婚でいいんじゃないか」って思っていたんですけど。――裕さんの親とも顔合わせをしたのでしょうか。裕 親父は亡くなっているので、93歳の母親と。潤雅 最初は会うのも拒否されるほどで。自分の息子が孫より年下の子と結婚するだけでなく、私が韓国籍なので「国際結婚ってどういうこと?」っていう。「それ以上は話を聞きたくない!」ぐらいの勢いでしたね。(#2に続く)「子どもが欲しいのはエゴなんじゃないか」娘が20歳の時に父親は87歳、人工授精10回失敗の末、妊娠…35歳差夫婦が明かす、子どもへの思い へ続く(平田 裕介)
――転がり込んだのは、裕さんの仕事部屋ですか。
潤雅 そうです。コンビニ弁当ばかり食べていたので、「大丈夫?」みたいのもあって。私は実家暮らしだったので、ちょっとした料理を持っていくようになりました。
そうこうしてたら、仕事部屋の隣の部屋が空いて。ふた部屋横並びで借りて、片方を完全にプライベートの部屋にして「一緒に暮らそうか」と。
裕 こっちとしては「本当にいいのか?」という感じでした。年齢の話はしたんですけども、歳の差は問題じゃないって言うんです。
潤雅 単純に一緒におれたらいいかなっていう。一石二鳥というか、プライベートも充実するし、音楽のことも逐一相談に乗ってもらえるような環境だったので。やっぱり周囲からは年の差に目を向けられたけど、私たちは35歳差っていうのは頭になかったですよね。
裕 感覚的に年齢差はなかったね。
潤雅 でも、やっぱり周りからは“援交”とか“パパ活”とか、いろんなことを言われて。
裕 お金持ってないです。
潤雅 私の母も父も反対はしなかったですけど「それならちゃんと籍入れておいたほうが世間的にもいいんちゃう?」って言われて。
――年齢差があるゆえに、お互いの知らなかった世界を知ることができたりは。
裕 それはありますね。お互いに知らなかった部分がたくさんあるので。音楽に関しては、僕は長くやってきたので「あの頃はこうやった」「この頃はどうやった」と実体験を踏まえて伝えることができて、潤雅からしてみれば知らない部分が多いので興味津々になるみたいです。実際、潤雅が生まれる前から盛んにバンド活動していたんでね。
逆にいまの音楽を僕はあんまり聞いていなくて、潤雅のほうが聞いているわけです。で、僕も曲を作るときは潤雅から最近の音楽について教わります。「いまはこういうことをやってるんか」って、めちゃくちゃ参考になりますね。
潤雅 そういった差はありますけど、ふたりとも白黒時代のジャズが好きなんですよ。根本的に好みが一緒で、一緒になんか聞こうかってときも自然にその頃のジャズを選んだりして。
音楽以外でも、食事や出かける場所の好みもどこか似てるから。ふたりとも「映画を見るよりも、山とか海に行こうか」という感じなんです。
裕 出かけた先で、どうやって飲もうかとかね。
潤雅 お互い飲むのが好きやから。
――裕さんは“年の差”について、誰かになにか言われたりは?
裕 周囲に話してなかったんでね。というより、そもそも話す相手がいなかった。離婚のことも、潤雅と一緒になったことも報告してない。「俺の自由やろ」という話ですからね。
――潤雅さんの両親に入籍を勧められたとのことですが、おふたりとしては結婚を意識してはいたのですか。
潤雅 変な考えかもしれないけど、結婚ってなんのためにするのかわからないってところが私にはあって。「紙切れひとつでなにが変わるのかな」とか。だから、事実婚でもいいかって。
塩さんは、事実婚よりは籍を入れたほうがいいんじゃないかっていうタイプだったんですけど、私は「事実婚でいいやん。あこがれるやん」と事実婚推しで。
裕 正直、潤雅のことはあまり相手にしていなかったんですよ。でも、ガンガンとアプローチされるなかで「潤雅とやったら、もう一回やり直せるかな」と思えるようになってきて。その一方で「俺、先に逝くけどええの?」というのもありました。
とにかく一緒におるんだったら、そのあたりはちゃんと筋を通さないと。それで「潤雅のご両親にも挨拶に行く」って言ったんです。
潤雅 塩さんは結婚という概念に縛られすぎているようにも感じたんです。私はそれも込みで「重荷になるような結婚じゃなくて、事実婚でいいんじゃないか」って思っていたんですけど。
――裕さんの親とも顔合わせをしたのでしょうか。
裕 親父は亡くなっているので、93歳の母親と。
潤雅 最初は会うのも拒否されるほどで。自分の息子が孫より年下の子と結婚するだけでなく、私が韓国籍なので「国際結婚ってどういうこと?」っていう。「それ以上は話を聞きたくない!」ぐらいの勢いでしたね。(#2に続く)
「子どもが欲しいのはエゴなんじゃないか」娘が20歳の時に父親は87歳、人工授精10回失敗の末、妊娠…35歳差夫婦が明かす、子どもへの思い へ続く
(平田 裕介)

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