雑誌の編集長を殴って逃走、死の遠因は「過剰な食欲」…前代未聞の文豪社長・菊池寛が残した「豪快伝説」

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大正・昭和の大ベストセラー作家であり、昼ドラ「真珠夫人」の原作者などとして知られる菊池寛は同時に、文藝春秋社の創業者でもあったことをご存知だろうか。文豪にして社長というと、とてつもない偉人というイメージを持たれるかもしれないが、素顔の菊池寛はその対極にいた。
【画像】「過剰な食欲」が死の遠因になった菊池寛(全2枚)「フライデー襲撃!」ならぬ「中央公論社襲撃!」で編集長を殴ったり、自著の解説を他人名義で書いたり、吐くまで食べ、吐いても食べるほど、食に執着したり……。破天荒といえば聞こえはいいが、はた迷惑と思われても仕方のない、ダメ文豪、ダメ社長ぶりを物語る逸話は数知れず。

作家や編集者仲間が残した、そんなダメぶりを物語るエピソードの一部をご紹介する。◆◆◆元祖「フライデー襲撃事件」 著名人が出版社に怒鳴り込んだ事件と言えば、ビートたけしの「フライデー襲撃事件」が有名である。しかし、そのはるか半世紀以上前に、菊池寛はほとんど同じような事件を引き起こしている。 すでに押しも押されもせぬ大ベストセラー作家であり、文藝春秋社の社長でもあった寛が、単身で中央公論社に乗り込み「婦人公論」編集長を殴ったのは昭和5年8月のことである。発端は、「婦人公論」に掲載された「女給」という小説だった。菊池寛 その物語は、カフェーの女給をしていたある女性から聞いた身の上話を基にして書かれてあったのだが、そのなかにとにかくモテない男が出てくる。それが明らかに菊池寛と思しき人物なのである。作者は寛に配慮してか、「男」を一応は詩人としていたが、掲載媒体の「婦人公論」の方では、新聞広告に「文壇の大御所」とでかでかと書き立てた。当時、「文壇の大御所」と言えば菊池寛に決まっていた。 寛は、その女性の話は本当ではない、と穏やかな抗議の原稿を送ったのだが、「婦人公論」はあろうことかその原稿に「僕と『小夜子』の関係」(「小夜子」というのが小説のヒロイン)と意味深なタイトルをつけて掲載してしまったのである(当時の中央公論社内に、作家業と会社業の両方を成功させた菊池寛への妬み嫉みがあったそう)。怒りに火のついた寛は編集部に電話で抗議したが、編集部はにべもなかった。「当編集部では持ち込みの原稿の題は編集部でつける慣例になっています」 依頼原稿ではないとはいえ、己の原稿を「持ち込み原稿」と切り捨てた中央公論社に怒りの収まらない寛は、ひとり編集部に乗り込み、編集長の頭を殴ってしまった。あまりのことに呆気に取られていた中央公論社の社員たちが気づいたときには、寛はすでに逃走してしまっていたという。友人作家の名を騙り、自作解説 現在でも版を重ね、新潮文庫に収められている菊池寛の初期代表作を収めた短編集『藤十郎の恋・恩讐の彼方に』の文庫解説には「吉川英治」とクレジットがある。 曰く、「この集には、菊池寛の初期の作品中、歴史物の佳作が悉く収められている。これらの作品を見ても、菊池氏が、リベラリストとして、その創作によって封建思想の打破に努めていたことがハッキリするであろう」「およそ大正から昭和の初めに当って、菊池氏の作品ほど、大衆の思想的、文化的啓蒙に貢献した作品は少ないと、いってもよい」と、あの吉川英治が絶賛である。 さすが、「文豪・菊池寛」と思うところだろうが実は、この解説を書いたのが他ならぬ菊池寛自身だったとしたらどうか。 戦後間もない頃に刊行されたこの本の解説について寛は、「自分が書く。解説文は第三者でなければならないのなら、吉川英治の名で出す。吉川君にはぼくから話しておく」と語ったという。文庫刊行の際に「文庫版のあとがき」として作者が作品解説のようなことをすることは少なからず見られるが、堂々と「解説」と銘打ち、しかも友人とはいえ同じ作家の名前を使うなど前代未聞、空前絶後だろう。担当編集者、そして吉川英治の驚きと困惑の顔が目に浮かぶようである。菊池寛が「追い込まれた」わけ このほど、菊池寛の生涯を描いた『文豪、社長になる』を刊行した直木賞作家・門井慶喜氏はこの解説を読み、「これは確かに菊池寛の文章ですね」とした上で、寛の胸の裡をこう推察する。「作家というのは口には出さないだけで、自分の作品を自分の筆で自己弁護したい、世の中に正しく理解されたいと多かれ少なかれ思っているだろうとは思います。ただ、普通は踏みとどまる。寛の場合、そうやらざるを得ないところまで追い込まれた。そう考えると少し胸が痛いような気もします」「追い込まれた」とはどういうことか。 寛は戦中に、軍部が作家を戦地に送り、戦意高揚の文章を書かせるにあたり、作家たちの取りまとめをする等の戦争協力などをしていた。そのため戦後は、GHQから公職追放の憂き目にあっていたのである。文庫解説の執筆はその1年後のことである。 解説で、吉川英治(もとい菊池寛)はこう締めくくっている。「戦いに敗れた今日、改めて封建思想の打破が叫ばれなければならぬほど、菊池氏としては、残念至極なことと思っているであろう」食べては吐き、吐いては食べ… ことほどさように菊池寛は、話のタネに事欠かない人物であるが、先の門井慶喜氏が『文豪、社長になる』の執筆に際して印象に残っている“ダメ”エピソードは「食」、特に異常なまでの「食欲」にまつわるものだという。「とにかく食べることへの執着は相当のものでした。実家が裕福ではなかったこともあり、若いころはお金に苦労したからなのか、作家として成功した後は、他人が見れば意地汚いとすら思えるほどによく食べました。今でいう、生活習慣病まっしぐら。その食欲で身体をダメにしたと言っても過言ではありません」 残されている逸話によると、「物を食べて旨いのは喉三寸だろう。だから、喉三寸で旨いと思ったら、あとをいつまでも胃に溜め置いて、胃の負担を重くするのは愚だよ」と自説をぶち、食べては吐き、また食べていたという。死の遠因も「過剰な食欲」? 寛は59歳の時、狭心症で命を落としているが、その遠因も過剰な食欲にあったであろうと門井氏は語る。寛は、これ以上の肉と米は身体に毒だからと医者に止められていたにもかかわらず、それを我慢することはできなかった。 ある時、パーティに出席したゲストが、寛が散らし寿司を食べているところを目撃。医者に控えるように忠告されているのではないかと心配すると、「これは酢で味付けしているから米じゃない」と訳の分からぬ理屈を捏ねて食べ続けていたほどだった。「食べ方も汚かった」と門井氏は続ける。「評論家の小林秀雄は若いころ、大いに菊池寛の世話になった人物ですが、その小林にして、この人は飯粒を顔に付けないで弁当を食べることができないのだろうか、と呆れていたといいます」 食べ方の無頓着さについては、こんなエピソードも残っている。アリがたかる菓子を口に入れ… 服のポケットなどに菓子を投げ込んでいた寛は、将棋を指しながらポリポリやっていたのだが、当然、ポケットの塵などが菓子に黄な粉のように付着してしまう。それでも平然と口に放り込んでいたという。酷いときなどは、アリがたかっている菓子をそのまま口に入れることすらあった。それを見た友人が驚いて注意すると、「アリは毒じゃないよ。キミ」とのたまってそのまま食べてしまったそうである。 どれも思わず眉を顰めてしまいそうなものばかりであるが、関係者による、それらのエピソードの披露ぶりに非難めいた調子は感じられない。それどころか、語り口の向こうに笑顔すら見えてきそうなのである。 門井氏はこう分析する。「菊池寛は自分が得たものを自分のためだけに使う人ではありませんでした。周りのために惜しみなく使ったのです。食べるにしても、美味しいものがあれば色んな人に食べさせ、自分も一緒に食べる。皆でワイワイ楽しむというのが寛の流儀でした。若い、金のない作家にも、好きなもの食べなさい、と」菊池寛に“世話になった”作家たち 過剰な食への執着は間違いなく寛の欠点であるが、同時に、作家として、社長としてのチャームでもあったのだ。前述の小林秀雄はもちろん、芥川龍之介や川端康成など、菊池寛に“世話になった”作家、編集者は枚挙にいとまがない。直木三十五などは、借金苦にあえいでいた無名時代に「文藝春秋」で書き物の仕事を寛から得、文字通り「食わせてもらっていた」時期さえあった。「ある意味、胃袋を掴んだということなのかもしれませんね。菊池さんのところに行けば、食いっぱぐれないと思わせることは、今ほど社会保障の充実していなかった時代においては、私たちが考えるよりもずっと大きなことだったかもしれません」(門井氏) ここに一葉の写真がある。 写っているのは、川端康成、小林秀雄、大佛次郎、佐藤春夫、丹羽文雄など、菊池寛の13回忌に集まった多くの作家や編集者仲間である。 人間の人望は死んだ後に分かる、とはよく言われることだが、この写真をみれば、菊池寛の人生が破天荒で無茶苦茶だったばかりではなかったことが窺えるようだ。 そんな寛の一代記を綴った、門井慶喜さんによる『文豪、社長になる』が刊行され、話題となっている。これを機に、稀代の“ダメ文豪”、“ダメ社長”だった男の生涯を覗いてみてはいかがだろうか。(「第二文芸」編集部/文藝出版局)
「フライデー襲撃!」ならぬ「中央公論社襲撃!」で編集長を殴ったり、自著の解説を他人名義で書いたり、吐くまで食べ、吐いても食べるほど、食に執着したり……。破天荒といえば聞こえはいいが、はた迷惑と思われても仕方のない、ダメ文豪、ダメ社長ぶりを物語る逸話は数知れず。
作家や編集者仲間が残した、そんなダメぶりを物語るエピソードの一部をご紹介する。
◆◆◆
著名人が出版社に怒鳴り込んだ事件と言えば、ビートたけしの「フライデー襲撃事件」が有名である。しかし、そのはるか半世紀以上前に、菊池寛はほとんど同じような事件を引き起こしている。
すでに押しも押されもせぬ大ベストセラー作家であり、文藝春秋社の社長でもあった寛が、単身で中央公論社に乗り込み「婦人公論」編集長を殴ったのは昭和5年8月のことである。発端は、「婦人公論」に掲載された「女給」という小説だった。
菊池寛
その物語は、カフェーの女給をしていたある女性から聞いた身の上話を基にして書かれてあったのだが、そのなかにとにかくモテない男が出てくる。それが明らかに菊池寛と思しき人物なのである。作者は寛に配慮してか、「男」を一応は詩人としていたが、掲載媒体の「婦人公論」の方では、新聞広告に「文壇の大御所」とでかでかと書き立てた。当時、「文壇の大御所」と言えば菊池寛に決まっていた。
寛は、その女性の話は本当ではない、と穏やかな抗議の原稿を送ったのだが、「婦人公論」はあろうことかその原稿に「僕と『小夜子』の関係」(「小夜子」というのが小説のヒロイン)と意味深なタイトルをつけて掲載してしまったのである(当時の中央公論社内に、作家業と会社業の両方を成功させた菊池寛への妬み嫉みがあったそう)。怒りに火のついた寛は編集部に電話で抗議したが、編集部はにべもなかった。
「当編集部では持ち込みの原稿の題は編集部でつける慣例になっています」
依頼原稿ではないとはいえ、己の原稿を「持ち込み原稿」と切り捨てた中央公論社に怒りの収まらない寛は、ひとり編集部に乗り込み、編集長の頭を殴ってしまった。あまりのことに呆気に取られていた中央公論社の社員たちが気づいたときには、寛はすでに逃走してしまっていたという。
現在でも版を重ね、新潮文庫に収められている菊池寛の初期代表作を収めた短編集『藤十郎の恋・恩讐の彼方に』の文庫解説には「吉川英治」とクレジットがある。
曰く、「この集には、菊池寛の初期の作品中、歴史物の佳作が悉く収められている。これらの作品を見ても、菊池氏が、リベラリストとして、その創作によって封建思想の打破に努めていたことがハッキリするであろう」「およそ大正から昭和の初めに当って、菊池氏の作品ほど、大衆の思想的、文化的啓蒙に貢献した作品は少ないと、いってもよい」と、あの吉川英治が絶賛である。
さすが、「文豪・菊池寛」と思うところだろうが実は、この解説を書いたのが他ならぬ菊池寛自身だったとしたらどうか。
戦後間もない頃に刊行されたこの本の解説について寛は、「自分が書く。解説文は第三者でなければならないのなら、吉川英治の名で出す。吉川君にはぼくから話しておく」と語ったという。文庫刊行の際に「文庫版のあとがき」として作者が作品解説のようなことをすることは少なからず見られるが、堂々と「解説」と銘打ち、しかも友人とはいえ同じ作家の名前を使うなど前代未聞、空前絶後だろう。担当編集者、そして吉川英治の驚きと困惑の顔が目に浮かぶようである。菊池寛が「追い込まれた」わけ このほど、菊池寛の生涯を描いた『文豪、社長になる』を刊行した直木賞作家・門井慶喜氏はこの解説を読み、「これは確かに菊池寛の文章ですね」とした上で、寛の胸の裡をこう推察する。「作家というのは口には出さないだけで、自分の作品を自分の筆で自己弁護したい、世の中に正しく理解されたいと多かれ少なかれ思っているだろうとは思います。ただ、普通は踏みとどまる。寛の場合、そうやらざるを得ないところまで追い込まれた。そう考えると少し胸が痛いような気もします」「追い込まれた」とはどういうことか。 寛は戦中に、軍部が作家を戦地に送り、戦意高揚の文章を書かせるにあたり、作家たちの取りまとめをする等の戦争協力などをしていた。そのため戦後は、GHQから公職追放の憂き目にあっていたのである。文庫解説の執筆はその1年後のことである。 解説で、吉川英治(もとい菊池寛)はこう締めくくっている。「戦いに敗れた今日、改めて封建思想の打破が叫ばれなければならぬほど、菊池氏としては、残念至極なことと思っているであろう」食べては吐き、吐いては食べ… ことほどさように菊池寛は、話のタネに事欠かない人物であるが、先の門井慶喜氏が『文豪、社長になる』の執筆に際して印象に残っている“ダメ”エピソードは「食」、特に異常なまでの「食欲」にまつわるものだという。「とにかく食べることへの執着は相当のものでした。実家が裕福ではなかったこともあり、若いころはお金に苦労したからなのか、作家として成功した後は、他人が見れば意地汚いとすら思えるほどによく食べました。今でいう、生活習慣病まっしぐら。その食欲で身体をダメにしたと言っても過言ではありません」 残されている逸話によると、「物を食べて旨いのは喉三寸だろう。だから、喉三寸で旨いと思ったら、あとをいつまでも胃に溜め置いて、胃の負担を重くするのは愚だよ」と自説をぶち、食べては吐き、また食べていたという。死の遠因も「過剰な食欲」? 寛は59歳の時、狭心症で命を落としているが、その遠因も過剰な食欲にあったであろうと門井氏は語る。寛は、これ以上の肉と米は身体に毒だからと医者に止められていたにもかかわらず、それを我慢することはできなかった。 ある時、パーティに出席したゲストが、寛が散らし寿司を食べているところを目撃。医者に控えるように忠告されているのではないかと心配すると、「これは酢で味付けしているから米じゃない」と訳の分からぬ理屈を捏ねて食べ続けていたほどだった。「食べ方も汚かった」と門井氏は続ける。「評論家の小林秀雄は若いころ、大いに菊池寛の世話になった人物ですが、その小林にして、この人は飯粒を顔に付けないで弁当を食べることができないのだろうか、と呆れていたといいます」 食べ方の無頓着さについては、こんなエピソードも残っている。アリがたかる菓子を口に入れ… 服のポケットなどに菓子を投げ込んでいた寛は、将棋を指しながらポリポリやっていたのだが、当然、ポケットの塵などが菓子に黄な粉のように付着してしまう。それでも平然と口に放り込んでいたという。酷いときなどは、アリがたかっている菓子をそのまま口に入れることすらあった。それを見た友人が驚いて注意すると、「アリは毒じゃないよ。キミ」とのたまってそのまま食べてしまったそうである。 どれも思わず眉を顰めてしまいそうなものばかりであるが、関係者による、それらのエピソードの披露ぶりに非難めいた調子は感じられない。それどころか、語り口の向こうに笑顔すら見えてきそうなのである。 門井氏はこう分析する。「菊池寛は自分が得たものを自分のためだけに使う人ではありませんでした。周りのために惜しみなく使ったのです。食べるにしても、美味しいものがあれば色んな人に食べさせ、自分も一緒に食べる。皆でワイワイ楽しむというのが寛の流儀でした。若い、金のない作家にも、好きなもの食べなさい、と」菊池寛に“世話になった”作家たち 過剰な食への執着は間違いなく寛の欠点であるが、同時に、作家として、社長としてのチャームでもあったのだ。前述の小林秀雄はもちろん、芥川龍之介や川端康成など、菊池寛に“世話になった”作家、編集者は枚挙にいとまがない。直木三十五などは、借金苦にあえいでいた無名時代に「文藝春秋」で書き物の仕事を寛から得、文字通り「食わせてもらっていた」時期さえあった。「ある意味、胃袋を掴んだということなのかもしれませんね。菊池さんのところに行けば、食いっぱぐれないと思わせることは、今ほど社会保障の充実していなかった時代においては、私たちが考えるよりもずっと大きなことだったかもしれません」(門井氏) ここに一葉の写真がある。 写っているのは、川端康成、小林秀雄、大佛次郎、佐藤春夫、丹羽文雄など、菊池寛の13回忌に集まった多くの作家や編集者仲間である。 人間の人望は死んだ後に分かる、とはよく言われることだが、この写真をみれば、菊池寛の人生が破天荒で無茶苦茶だったばかりではなかったことが窺えるようだ。 そんな寛の一代記を綴った、門井慶喜さんによる『文豪、社長になる』が刊行され、話題となっている。これを機に、稀代の“ダメ文豪”、“ダメ社長”だった男の生涯を覗いてみてはいかがだろうか。(「第二文芸」編集部/文藝出版局)
戦後間もない頃に刊行されたこの本の解説について寛は、「自分が書く。解説文は第三者でなければならないのなら、吉川英治の名で出す。吉川君にはぼくから話しておく」と語ったという。文庫刊行の際に「文庫版のあとがき」として作者が作品解説のようなことをすることは少なからず見られるが、堂々と「解説」と銘打ち、しかも友人とはいえ同じ作家の名前を使うなど前代未聞、空前絶後だろう。担当編集者、そして吉川英治の驚きと困惑の顔が目に浮かぶようである。
このほど、菊池寛の生涯を描いた『文豪、社長になる』を刊行した直木賞作家・門井慶喜氏はこの解説を読み、「これは確かに菊池寛の文章ですね」とした上で、寛の胸の裡をこう推察する。
「作家というのは口には出さないだけで、自分の作品を自分の筆で自己弁護したい、世の中に正しく理解されたいと多かれ少なかれ思っているだろうとは思います。ただ、普通は踏みとどまる。寛の場合、そうやらざるを得ないところまで追い込まれた。そう考えると少し胸が痛いような気もします」
「追い込まれた」とはどういうことか。
寛は戦中に、軍部が作家を戦地に送り、戦意高揚の文章を書かせるにあたり、作家たちの取りまとめをする等の戦争協力などをしていた。そのため戦後は、GHQから公職追放の憂き目にあっていたのである。文庫解説の執筆はその1年後のことである。
解説で、吉川英治(もとい菊池寛)はこう締めくくっている。
「戦いに敗れた今日、改めて封建思想の打破が叫ばれなければならぬほど、菊池氏としては、残念至極なことと思っているであろう」
ことほどさように菊池寛は、話のタネに事欠かない人物であるが、先の門井慶喜氏が『文豪、社長になる』の執筆に際して印象に残っている“ダメ”エピソードは「食」、特に異常なまでの「食欲」にまつわるものだという。
「とにかく食べることへの執着は相当のものでした。実家が裕福ではなかったこともあり、若いころはお金に苦労したからなのか、作家として成功した後は、他人が見れば意地汚いとすら思えるほどによく食べました。今でいう、生活習慣病まっしぐら。その食欲で身体をダメにしたと言っても過言ではありません」
残されている逸話によると、「物を食べて旨いのは喉三寸だろう。だから、喉三寸で旨いと思ったら、あとをいつまでも胃に溜め置いて、胃の負担を重くするのは愚だよ」と自説をぶち、食べては吐き、また食べていたという。死の遠因も「過剰な食欲」? 寛は59歳の時、狭心症で命を落としているが、その遠因も過剰な食欲にあったであろうと門井氏は語る。寛は、これ以上の肉と米は身体に毒だからと医者に止められていたにもかかわらず、それを我慢することはできなかった。 ある時、パーティに出席したゲストが、寛が散らし寿司を食べているところを目撃。医者に控えるように忠告されているのではないかと心配すると、「これは酢で味付けしているから米じゃない」と訳の分からぬ理屈を捏ねて食べ続けていたほどだった。「食べ方も汚かった」と門井氏は続ける。「評論家の小林秀雄は若いころ、大いに菊池寛の世話になった人物ですが、その小林にして、この人は飯粒を顔に付けないで弁当を食べることができないのだろうか、と呆れていたといいます」 食べ方の無頓着さについては、こんなエピソードも残っている。アリがたかる菓子を口に入れ… 服のポケットなどに菓子を投げ込んでいた寛は、将棋を指しながらポリポリやっていたのだが、当然、ポケットの塵などが菓子に黄な粉のように付着してしまう。それでも平然と口に放り込んでいたという。酷いときなどは、アリがたかっている菓子をそのまま口に入れることすらあった。それを見た友人が驚いて注意すると、「アリは毒じゃないよ。キミ」とのたまってそのまま食べてしまったそうである。 どれも思わず眉を顰めてしまいそうなものばかりであるが、関係者による、それらのエピソードの披露ぶりに非難めいた調子は感じられない。それどころか、語り口の向こうに笑顔すら見えてきそうなのである。 門井氏はこう分析する。「菊池寛は自分が得たものを自分のためだけに使う人ではありませんでした。周りのために惜しみなく使ったのです。食べるにしても、美味しいものがあれば色んな人に食べさせ、自分も一緒に食べる。皆でワイワイ楽しむというのが寛の流儀でした。若い、金のない作家にも、好きなもの食べなさい、と」菊池寛に“世話になった”作家たち 過剰な食への執着は間違いなく寛の欠点であるが、同時に、作家として、社長としてのチャームでもあったのだ。前述の小林秀雄はもちろん、芥川龍之介や川端康成など、菊池寛に“世話になった”作家、編集者は枚挙にいとまがない。直木三十五などは、借金苦にあえいでいた無名時代に「文藝春秋」で書き物の仕事を寛から得、文字通り「食わせてもらっていた」時期さえあった。「ある意味、胃袋を掴んだということなのかもしれませんね。菊池さんのところに行けば、食いっぱぐれないと思わせることは、今ほど社会保障の充実していなかった時代においては、私たちが考えるよりもずっと大きなことだったかもしれません」(門井氏) ここに一葉の写真がある。 写っているのは、川端康成、小林秀雄、大佛次郎、佐藤春夫、丹羽文雄など、菊池寛の13回忌に集まった多くの作家や編集者仲間である。 人間の人望は死んだ後に分かる、とはよく言われることだが、この写真をみれば、菊池寛の人生が破天荒で無茶苦茶だったばかりではなかったことが窺えるようだ。 そんな寛の一代記を綴った、門井慶喜さんによる『文豪、社長になる』が刊行され、話題となっている。これを機に、稀代の“ダメ文豪”、“ダメ社長”だった男の生涯を覗いてみてはいかがだろうか。(「第二文芸」編集部/文藝出版局)
残されている逸話によると、「物を食べて旨いのは喉三寸だろう。だから、喉三寸で旨いと思ったら、あとをいつまでも胃に溜め置いて、胃の負担を重くするのは愚だよ」と自説をぶち、食べては吐き、また食べていたという。
寛は59歳の時、狭心症で命を落としているが、その遠因も過剰な食欲にあったであろうと門井氏は語る。寛は、これ以上の肉と米は身体に毒だからと医者に止められていたにもかかわらず、それを我慢することはできなかった。
ある時、パーティに出席したゲストが、寛が散らし寿司を食べているところを目撃。医者に控えるように忠告されているのではないかと心配すると、「これは酢で味付けしているから米じゃない」と訳の分からぬ理屈を捏ねて食べ続けていたほどだった。
「食べ方も汚かった」と門井氏は続ける。「評論家の小林秀雄は若いころ、大いに菊池寛の世話になった人物ですが、その小林にして、この人は飯粒を顔に付けないで弁当を食べることができないのだろうか、と呆れていたといいます」
食べ方の無頓着さについては、こんなエピソードも残っている。
服のポケットなどに菓子を投げ込んでいた寛は、将棋を指しながらポリポリやっていたのだが、当然、ポケットの塵などが菓子に黄な粉のように付着してしまう。それでも平然と口に放り込んでいたという。酷いときなどは、アリがたかっている菓子をそのまま口に入れることすらあった。それを見た友人が驚いて注意すると、「アリは毒じゃないよ。キミ」とのたまってそのまま食べてしまったそうである。
どれも思わず眉を顰めてしまいそうなものばかりであるが、関係者による、それらのエピソードの披露ぶりに非難めいた調子は感じられない。それどころか、語り口の向こうに笑顔すら見えてきそうなのである。
門井氏はこう分析する。「菊池寛は自分が得たものを自分のためだけに使う人ではありませんでした。周りのために惜しみなく使ったのです。食べるにしても、美味しいものがあれば色んな人に食べさせ、自分も一緒に食べる。皆でワイワイ楽しむというのが寛の流儀でした。若い、金のない作家にも、好きなもの食べなさい、と」
過剰な食への執着は間違いなく寛の欠点であるが、同時に、作家として、社長としてのチャームでもあったのだ。前述の小林秀雄はもちろん、芥川龍之介や川端康成など、菊池寛に“世話になった”作家、編集者は枚挙にいとまがない。直木三十五などは、借金苦にあえいでいた無名時代に「文藝春秋」で書き物の仕事を寛から得、文字通り「食わせてもらっていた」時期さえあった。
「ある意味、胃袋を掴んだということなのかもしれませんね。菊池さんのところに行けば、食いっぱぐれないと思わせることは、今ほど社会保障の充実していなかった時代においては、私たちが考えるよりもずっと大きなことだったかもしれません」(門井氏)
ここに一葉の写真がある。
写っているのは、川端康成、小林秀雄、大佛次郎、佐藤春夫、丹羽文雄など、菊池寛の13回忌に集まった多くの作家や編集者仲間である。
人間の人望は死んだ後に分かる、とはよく言われることだが、この写真をみれば、菊池寛の人生が破天荒で無茶苦茶だったばかりではなかったことが窺えるようだ。 そんな寛の一代記を綴った、門井慶喜さんによる『文豪、社長になる』が刊行され、話題となっている。これを機に、稀代の“ダメ文豪”、“ダメ社長”だった男の生涯を覗いてみてはいかがだろうか。(「第二文芸」編集部/文藝出版局)
人間の人望は死んだ後に分かる、とはよく言われることだが、この写真をみれば、菊池寛の人生が破天荒で無茶苦茶だったばかりではなかったことが窺えるようだ。
そんな寛の一代記を綴った、門井慶喜さんによる『文豪、社長になる』が刊行され、話題となっている。これを機に、稀代の“ダメ文豪”、“ダメ社長”だった男の生涯を覗いてみてはいかがだろうか。
(「第二文芸」編集部/文藝出版局)

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