「解決した」励ましのうそに、病床の元被告号泣 長男「後悔ない」

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「一日も早く再審無罪を」――。滋賀県日野町で1984年に女性(当時69歳)が失踪し、翌年遺体が見つかった「日野町事件」。強盗殺人罪で無期懲役が確定し、75歳で亡くなった阪原弘(ひろむ)・元被告の再審開始決定が大阪高裁でも支持された。冤罪(えんざい)を訴えた父に伴走し続けてきた長男弘次(こうじ)さん(61)は、再審開始に向けた司法判断が父の死後に積み重なることにさみしさをにじませつつ、この日の大阪高裁決定を喜んだ。
【写真特集】「再審開始決定」と書かれた紙を掲げる原告団 弘次さんは午後1時40分ごろ、弘さんと、主任弁護人だった玉木昌美弁護士2人の遺影とともに「行ってきます」と支援者に言い残して高裁に入った。 決定文はまもなく手渡され、午後2時過ぎに弁護士が高裁前で検察側の即時抗告棄却を知らせる垂れ幕を掲げると支援者からは「おおっ」「良かった」と喜ぶ声が飛び、拍手が起こった。 弘次さんは、受け取った決定文を左手で青空に掲げ「(大津地裁決定の)4年半前もうれしかったが、改めて本当にうれしい」と話すと、母つや子さん(85)に電話した。「再審が開かれるで。良かったな」。容疑者や被告、受刑者の妻として苦労を重ねたつや子さんは「頑張ったからいい結果が出た。ありがとうな」と声をつまらせて、応じたという。 弘次さんは、約12年前に死のふちにあった父に、一つのうそをついた。 広島刑務所に服役していた父は2010年12月、肺炎とみられる症状が悪化し、広島市内の病院に搬送された。1回目の再審請求中だった。 受刑中であっても、体調が著しく悪化すると、刑は執行が停止される。主治医から「今日、明日が山」とも告げられる場面があるほど容体は一時悪化し、家族が交代で看病にあたった。 容体が少し持ち直したときのこと。「全部終わった。解決した。病気を治して滋賀に帰ろう」。弘次さんはベッドに横たわった父に、再審が行われ「無罪」が確定したかのように伝え、励ました。容体を見かねて、やむにやまれずついたうそだった。 そのうそに、父は激しく号泣した。声もほとんど出せないほど弱っていたはずだが、ベッドに突っ伏してまで泣いた。そして、父は11年3月に逝った。 父の死から約1年後。弘次さんらは、2回目の再審請求を申し立てた。今、弘次さんは「父についたうそに後悔はない」と言い切る。「はじめは警察が、検察が、そして裁判官が間違うわけがないとも思った。とんでもないことでした」 2回目の再審請求に向けて動く中で、滋賀県警の調書写真に不正が見つかるなどし、捜査機関や司法に抱いていた信頼はもろく崩れていった。 地裁、高裁と続いた再審開始決定は吉報だ。だが、再審に至る扉が完全に開いたわけではない。 「父がいないことが寂しい。刑務所に行かなければ今も生きていたはずです」。弘次さんは「事件までは、笑顔が印象的だった」と振り返る。だが、その遺影はどこか寂しげだ。「家族でまた一緒に暮らす」という願いがかなわなかった悲しみを込めて、弘次さんらがこの1枚を遺影に選んだ。 死刑や無期懲役の事件で、元被告の死後に再審開始が確定すれば戦後初めて。高裁決定後に大阪市内であった記者会見の場で、弘次さんはこの重みをかみしめるように「再審無罪に向けて階段をまた上がることができた」と言葉を選んだ。横には父の遺影があった。そして、こう訴えた。「大阪高検は特別抗告をすべきではない。我々の時間を奪うべきではない」【菅健吾、山本康介、沼田亮】
弘次さんは午後1時40分ごろ、弘さんと、主任弁護人だった玉木昌美弁護士2人の遺影とともに「行ってきます」と支援者に言い残して高裁に入った。
決定文はまもなく手渡され、午後2時過ぎに弁護士が高裁前で検察側の即時抗告棄却を知らせる垂れ幕を掲げると支援者からは「おおっ」「良かった」と喜ぶ声が飛び、拍手が起こった。
弘次さんは、受け取った決定文を左手で青空に掲げ「(大津地裁決定の)4年半前もうれしかったが、改めて本当にうれしい」と話すと、母つや子さん(85)に電話した。「再審が開かれるで。良かったな」。容疑者や被告、受刑者の妻として苦労を重ねたつや子さんは「頑張ったからいい結果が出た。ありがとうな」と声をつまらせて、応じたという。
弘次さんは、約12年前に死のふちにあった父に、一つのうそをついた。
広島刑務所に服役していた父は2010年12月、肺炎とみられる症状が悪化し、広島市内の病院に搬送された。1回目の再審請求中だった。
受刑中であっても、体調が著しく悪化すると、刑は執行が停止される。主治医から「今日、明日が山」とも告げられる場面があるほど容体は一時悪化し、家族が交代で看病にあたった。
容体が少し持ち直したときのこと。「全部終わった。解決した。病気を治して滋賀に帰ろう」。弘次さんはベッドに横たわった父に、再審が行われ「無罪」が確定したかのように伝え、励ました。容体を見かねて、やむにやまれずついたうそだった。
そのうそに、父は激しく号泣した。声もほとんど出せないほど弱っていたはずだが、ベッドに突っ伏してまで泣いた。そして、父は11年3月に逝った。
父の死から約1年後。弘次さんらは、2回目の再審請求を申し立てた。今、弘次さんは「父についたうそに後悔はない」と言い切る。「はじめは警察が、検察が、そして裁判官が間違うわけがないとも思った。とんでもないことでした」
2回目の再審請求に向けて動く中で、滋賀県警の調書写真に不正が見つかるなどし、捜査機関や司法に抱いていた信頼はもろく崩れていった。
地裁、高裁と続いた再審開始決定は吉報だ。だが、再審に至る扉が完全に開いたわけではない。
「父がいないことが寂しい。刑務所に行かなければ今も生きていたはずです」。弘次さんは「事件までは、笑顔が印象的だった」と振り返る。だが、その遺影はどこか寂しげだ。「家族でまた一緒に暮らす」という願いがかなわなかった悲しみを込めて、弘次さんらがこの1枚を遺影に選んだ。
死刑や無期懲役の事件で、元被告の死後に再審開始が確定すれば戦後初めて。高裁決定後に大阪市内であった記者会見の場で、弘次さんはこの重みをかみしめるように「再審無罪に向けて階段をまた上がることができた」と言葉を選んだ。横には父の遺影があった。そして、こう訴えた。「大阪高検は特別抗告をすべきではない。我々の時間を奪うべきではない」【菅健吾、山本康介、沼田亮】

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