子どもや高齢の犠牲者の姿を見て…”元ヤクザの日本人義勇兵”が語る「ウクライナで戦う理由」

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「報道を見ていて、最初は戦争が始まったなというぐらいにしか思っていませんでした。しかし、ロシア軍が民間人に危害を加えていることに気持ちが動かされた。とくにお年寄りや子供の犠牲者を見ていて『このまま傍観しているだけで良いのか?』という気持ちになってきて……」
そう語るのはウクライナで義勇兵として活動するハルさん(49、仮名)。彼のこれまでの人生は波乱に満ちている。
「父親が暴力団の組長をやっていて、刑務所に入ったり出たりしていました。そのこともあり、周囲からイジメというか差別を受けていました。僕も寂しかったから同じような境遇の子たちと遊ぶようになり、流れるままに極道の道に進んでしまいました」
父親を超えたいという思いで同じ極道の道へと進んだハルさん。だが組に入ってからは苦労が続いたという。
「良い組に入ればそれなりのポジションにつけたのですが、僕は運が悪いのか組長の用心棒などをしていました。仕事柄、命に関わる出来事もありましたが、戦場に比べたらたいしたことはないです。ただ、シノギがないのでいつもカネには困っていましたよ」
ハルさんは某宗教団体とそこに関係のある団体に暴力的な抗議をしたことで罪に問われ、西日本にある刑務所で10年間服役した。
出所後は今までの生き方を悔い改めて四国で林業に従事したが、2年目で無理がたたって膝の半月板を損傷。職探しをしている時にロシア軍のウクライナ侵攻のニュースを見て衝撃を受ける。ゼレンスキー大統領が世界に向けて義勇兵の呼びかけをしているのを聞いた彼は、これまでの人生について振り返り、このまま見て見ぬ振りをしたら死ぬ間際に後悔するのではないかと思ったという。
「これまで犯してきた罪の贖罪の意味もあって、やらないで後悔するよりはまずは行動しようと思いました」
彼自身がカトリックのクリスチャンだったことも理由のひとつだったのだろう。生まれて初めてパスポートを取得し、昨年3月29日に日本を出国。これが人生初の海外だったというから驚きだ。
中継地であるポーランドのワルシャワ空港で、偶然にも義勇兵志願のアメリカ人とイギリス人と知り合いになった。彼らと行動をともにすることになったハルさんは、4月1日に国境を越えてウクライナ西部のリビウにある募集所へとたどり着いた。面接官からこれまでに軍歴がなく、言葉が話せないと入隊は許可できないと言い渡される。
「その時に一緒にいたイギリス人が『彼は経験はないがハートがある。その証拠に彼の身体を見てくれ!』と服を脱げとジェスチャーをしたので言われた通りに脱いだら面接官が『おおお! ヤクザ!』と驚いてました(笑)」
彼の情熱と刺青が功を奏して、イギリス人が面倒をみることを条件に入隊が決まった。まずはキーウへ行き、1週間ほど射撃訓練を受けた後、西に130劼曚氷圓辰疹貊蠅砲△襯献函璽潺襪破楹陛な軍事訓練を受けた。40代後半のハルさんにとって20代、30代の若者と一緒に訓練を受けるのは辛くはなかったのだろうか。
「当初は部隊も私も心配はありましたが、朝から20人で走る訓練で、僕はいつも5位以内には入っていました。若い子たちは辛くて途中から歩いていて『軍隊経験者とはいえ、たいしたことないな。これはイケるかも』と思いました」
そうはいっても訓練は厳しくハルさんは必死で頑張った。面接時に彼を助けてくれたイギリス人がサポートを続けてくれたことも励みになっていた。
訓練を終えたハルさんはウクライナ陸軍の特別第1独立旅団第3大隊に配属される。そして偵察、待ち伏せ攻撃の部隊の一員としてウクライナ東部のリシチャンスクの最前線へ送られた。射撃訓練の時に成績が良かったので、仲間の推薦もありスナイパーに任命された。
「スナイパーはカッコいいというイメージがあって皆が希望するんです。でも、いざやってみると平均的な装備の2倍以上の荷物を持ち、一ヵ所で何時間も同じ姿勢で待っていなければならなくて、地味なんです。ただ、他の兵士から『ハルさんの守りがあるから俺たちは大丈夫だ』と言われ、自分が死ぬよりミスによって仲間が死ぬことが怖かったです」
砲弾が飛び交う最前線では絶えず死と隣り合わせだったという。ある夜に10m横にある木に火柱が上がった。ハルさんを狙ってのドローン攻撃だった。
「怖いとは思いましたが、次はドローンに見つからないように気をつけようと。不思議と逃げ出したいという気持ちにはならなかったです」
実際、他の外国人義勇兵の中には逃げ出す兵士が少なくなかったという。最前線でスマートフォンの電源をオフにするという命令に背いてロシア軍に居場所がバレて攻撃されたり、戦地への派遣経験を持つアメリカ人でもロシア軍の砲撃のショックで酒に溺れて精神的にまいってしまったという。
その後、部隊内でのトラブルがきっかけで義勇兵の離脱があり、部隊を辞めざるを得なくなった。そして昨年11月から国際義勇軍の中核を担うジョージア人部隊に入隊した。まだ本格的な戦闘には参加していないが、マムカ・マムラシュビリ司令官は彼に一目置いている。
「日本人兵士は他の外国人に比べて規律がしっかりしています。かつて在籍していた日本人はトレーニングの後に本で学び、武器についてよく質問をしてきました。そして彼の部屋はいつも整理整頓が行き届いていました。彼の影響で他の兵士たちがそれに倣(なら)うようになりました」
ジョージア人部隊はウクライナ軍情報部に属しており、前線での偵察、ドローンや電波探知機の破壊という特殊任務を担っている。前線部隊に配属されるには高度な訓練を受ける必要がある。マムカ司令官はハルさんの経験や人間性を評価しており、訓練を受けた後はスナイパーとして活躍してもらいたいと考えている。
「ロシア軍は難癖をつけて攻めてきて、言うことを聞かないならもっと懲らしめてやろうというヤクザと同じです。これを許してしまうとウクライナだけではなく他国にも被害が拡大してしまいます」
どんなことがあっても筋は通さなければならないというハルさんの戦いは始まったばかりだ。
インタビューを終えてキーウ市内を歩いていると、空襲警報が聞こえた。すると「ドカーン!」という爆発音が響いた。爆音から推測する限り、爆撃地点は遠くはない。ロシア軍のミサイルか自爆ドローンが近くに着弾したのか空中で迎撃されたのだろう。街ゆく人々は周囲を見回している。しかし10秒ほどで何もなかったかのように歩き出していた。キーウ市民にとって空爆は日常化している。
そのちょうど同じ時刻に、南東部の工業都市ドニプロにもミサイルが着弾していた。翌日の夜に、私はドニプロの空爆された集合住宅の前にいた。建物は崩れ落ちており、半壊した壁には血痕も見える。氷点下の中、重機を使って懸命な捜索、救助作業が行われている。空爆直後は瓦礫の中からうめき声が聞こえていたが、その声も消火活動の放水で徐々に聞こえなくなっていったという。作業を見守る17歳のミレナさんに話を聞いた。
「私は後ろのマンションに住んでいるのですが、激しく揺れて恐怖を感じました。残念ながら同じ学校に通う友達を失いました。彼女は先月、生徒会長になったばかりだったのです。これまで戦争というものをテレビやネットなど画面を通して見ていましたが、実際にはどういうことかわかっていませんでした。でもこの悲劇に直面して戦争が残酷でひどいということを実感しました。それでも私たちウクライナ人はどんな試練も乗り越えられると信じています」
ロシア軍のウクライナ侵攻から1年が経つ。来(きた)るロシア軍の大規模攻撃にウクライナ軍は警戒を強めている。
『FRIDAY』2023年3月3・10日号より
撮影・文:横田 徹(報道カメラマン)

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