日本史上最悪の獣害事件といえば「三毛別羆事件」が有名だが、それに次ぐ犠牲者を出した凄惨な事件をご存知だろうか。
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1923年(大正12年)8月、北海道の沼田町で起きた「石狩沼田幌新事件」。夏祭りの帰り道、原生林から突如として現れたヒグマは、次々と人間を襲い、民家にまで押し入って母親を生きたまま森へ引きずり込んだ。
闇夜に響く断末魔と、肉を食らう音。のべ300人規模の討伐隊が出動した、体重340kgの人食いヒグマの凶行とは。『超危険! 最恐クマのすべて』(宝島社)の一部を抜粋して紹介する。
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三毛別羆事件が日本史上最多の死者数を出した事件ならば、大正時代に起きた石狩沼田幌新事件は、史上2番目の死者を出したクマ被害であった。いずれも北海道の開拓地域で起こった事件である。舞台となった沼田町は今では道内の有数の米どころで知られるが、開拓以前はほとんどが原生林に覆われるヒグマの生息地であった。そのため、開拓民とヒグマの接触による事故は頻繁に起きていたのである。
写真はイメージ KhunTa/イメージマート
1923年8月21日、沼田町内は年に1回の夏祭りで賑わっていた。娯楽の少ない開拓地であり、芝居などを見に近隣の村落からも多くの人が詰めかけていた。そんな一夏の祭りも無事に終わり、夜も深まると、人々は帰宅の途についた。夜の山道を行く一行だったが、脇道で小用を足し、遅れて歩いていた19歳の青年が、背後から突然ヒグマに襲われたのである。なんとか抵抗して逃れた青年は、先を歩く一行に危険が迫っていることを教えに急いだ。
ところが、ヒグマは先回りして一行の先頭を歩いていた13歳と15歳の兄弟を襲った。最初の一撃で弟は撲殺され、兄は内臓に達するほどの重傷を負った。恐慌をきたした一行は、300mほど離れた農家宅に逃げ込み、囲炉裏の火を強めて、屋根裏や押し入れに身を隠した。やがて、弟の内臓を食べながらヒグマは家に近づき、様子を窺う。兄弟の父は中に入れまいと必死に内側から戸を押さえたが、ヒグマは彼もろとも押し破り、侵入してきた。兄弟の母親が次の餌食となった。部屋の隅で震える彼女をヒグマはくわえ上げ、外へ連れ出そうとした。深手を負っていた兄弟の父親は、自分の妻を助けるべく抵抗したが、それも虚しく、ヒグマは山中へと消えていった。
闇の中から「痛い、痛い」という母親の叫び声が響いた後、念仏を唱える声がかすかに聞こえ、ほどなく声は遠ざかっていった。重傷を負った兄の証言によれば、闇の奥からやがて自分の母親をヒグマが食い出す音が、ガリ、ガリと響いたという。母に向かって叫ぼうと息を吸っても、裂けた腹から出てしまい、力を入れることもできなかった。兄の傷は深かったが、奇跡的に一命を取り留めた。
その翌日、近くのやぶの中で、母親の遺体が見つかった。下半身はすべてヒグマに食われ、無くなっていた。
母親の遺体が見つかった日、この惨劇は瞬く間に、沼田町全域に知れ渡った。翌23日、近隣の雨竜村(現・雨竜町)にある伏古コタン(アイヌの集落)から、熊撃ち名人と称されるアイヌを含む猟師3人が応援に駆けつけた。そのうちのひとりは憤慨のあまり、「そんな悪いクマは、自分が仕留める」と、周囲の制止も振り切って、単独で山中へと入っていった。その後、数発の銃声が響いたが、それっきり行方不明となる。
翌24日、事態を重く見、在郷軍人や近隣の青年団などが応援に駆けつけた。近隣の集落の60歳未満の男子が残らず参加するという、村始まって以来の、総勢300人以上からなる討伐隊が組織されたのである。
この討伐隊が山中を進むと、ほどなくしてヒグマが現れた。最後尾にいた50代の男性を撲殺。別の男性にも重傷を負わせ、他の討伐隊メンバーに襲い掛かろうとした矢先、鉄砲隊の一斉射撃を浴び、とうとう凶悪なヒグマは射殺された。
ヒグマが殺された現場近くからは、23日に行方不明となっていた猟師の遺体が発見された。銃は折られ、頭部だけを残して、全身が食い尽くされた、惨憺たる状態であった。
死者4名、重傷者4名。しかも死者の多くがヒグマに食われるという、実に無惨な事件であった。4人の人間を屠ほふったヒグマは、体長2m、体重340kgとされる。死後に解体されたクマの胃の中からは、大きなザルいっぱいにもなる大量の人骨と、未消化の人の指が出てきたという。
その後、ヒグマの毛皮は、沼田町立幌新小学校に保存されたが、廃校になったのちは、幌新会館に移され、現在は沼田町ふるさと資料館分館に展示され、その惨劇の記憶を伝えている。
〈《胃から赤ん坊の両手が?》“人食いグマ”の凶行を誰も止められなかった…原形がわからなくなるまで食い荒らされ、雪原に投げ出された我が子を食い殺された…札幌を震え上がらせた“獣害事件”のリアル〉へ続く
(別冊宝島編集部/Webオリジナル(外部転載))