「ママ、死にたいなら死んでもいいよ」。最愛の夫を亡くし、自身も大動脈解離の後遺症で車椅子生活となった岸田ひろ実さん。生きる気力を失い、暗闇の中で「死」を願った彼女を救ったのは、娘・奈美さんが放った、あまりに意外なひと言でした。「死にたい」という願いさえ包み込んでくれた娘の愛。絶望の底で、ひろ実さんが再び「生きたい」と思えるようになるまでの、静かな再生の記録。
【写真】車いす生活の絶望を救った娘、そして希望を与えた新しい目標を叶えた瞬間(全14枚)
── 長女の奈美さんが中学2年生、長男の良太さんが小学4年生のときに、一家の大黒柱である夫の浩二さんが急逝されました。その後、シングルマザーになられて、大変なこともあったのではないですか。
岸田さん:結婚してから15年以上専業主婦をしていたので、自分に仕事ができるか不安でした。何の資格もないし、結婚前に勤めていた会社も1年半で辞めてしまいましたし。最初の仕事は、石材店のテレアポのアルバイトです。「ノルマがないし、座ったままできるよ」とママ友に誘ってもらいました。
電話帳の上から順に電話をかけて「お墓の案内を送らせてください」と言うと、「縁起でもない電話してくるな!」とたいていは怒られるんですけど、私は意外と「いいですよ」と言ってもらえたんです。一緒に働いている先輩たちから「やるやん!まだ若いんやから、もっと人前に出る仕事したらいいのに」と言ってもらえて自信がつきました。
当時の私は37歳くらい。「接客の仕事をしてみようかな」と思っていたところに、近所に整骨院がオープンして受付を募集していたんです。
整骨院に来られる患者さんは女性の方が多くて、おしゃべりの合間にいろいろな相談をされました。もともと私は健康オタクだったので、体にいい食材のアドバイスをするうちに、「勉強して、もっと役に立ちたい」と思うようになって。
院長にも「資格を取ったら」と勧められて、福岡にある自然形体療法の学校に通うことにしたんです。1か月に1回、泊まりがけで通って整体を学んで資格を取りました。
整骨院の仕事も勉強も楽しくて、忙しかったけれど充実していました。家事も完璧にやりたいタイプなので、睡眠時間を削ってしまっていました。楽しいことって無理ができてしまうんですよね。それがたたって、倒れてしまったんです。
── 倒れる前に、何か兆候はなかったのですか。
岸田さん:いえ、つねに寝不足ではありましたが、元気でした。その日は、午前の診療を終えてから一度家に帰ってお昼寝をして、夜、職場の新年会へ出かける予定だったんです。起きて、洗面所に立ったら胸のあたりに「バーン!」と衝撃があって。そのときは、痛みもなくて「肉離れかな」と思ったくらい。でも、立っていられないし、何かがおかしい。子どもたちが家にいたので、救急車を呼んでもらいました。
病院で検査をしたら、心臓の太い血管が破裂して剥がれる大動脈解離で、1分1秒を争うと言われました。手術のために別の病院へ移ることになりましたが、救急車の中で死亡する可能性が高いからと、未成年だった長女の奈美は救急車に同乗できなかったんです。代わりに、駆けつけてくれた私の母に乗ってもらいました。
病院に着いて手術の準備をしている間に、私は意識を失いました。
あとで聞いた話なのですが、家族は先生から「手術をしても命が助かる確率は2割あるかないか」という説明を受けたそうです。手術の同意書を書いてくれたのは、当時高校2年生だった奈美でした。
中学2年生のときにケンカをしたまま父親を突然亡くして、奈美はずっと後悔していました。それなのに、今度は母親を失うかもしれないというのは、あまりにも酷だったと思います。
── 手術は長くかかったのでしょうか。
岸田さん:7時間以上かかりました。目が覚めたら、胸から下が動かせなくなっていました。命を救うことを最優先にするために上半身に血流を集中させた結果、下半身が麻痺してしまったんです。
手術が終わって1週間経っても、私は寝返りさえできませんでした。寝たきりで、着替えや食事も誰かの手を借りないとできません。もう好きなところへ自由に行くことはできないし、好きな服も着られない。何をするにも人に迷惑をかけてしまう。子どもたちのことを思うと「生きている意味はあるのかな」と思ってしまって、ひとりになると毎日泣いていました。
とにかく車いすに乗って動けるようになるように、転院してリハビリを始めましたが、これがしんどくて…。下半身の筋肉がないので、1年くらいはベッドの上に座っただけで貧血を起こしていました。食欲がないし、気力も出ません。
歩けるようになるならいくらでもやるけれど、どんなにリハビリをがんばっても、一生車いすの生活には変わらない。それなのに何のためにリハビリをやるのかがわからなくて、一時期は「どうやってサボろうかな」ということばかり考えていました。
── 希望を失ってしまわれたのですね。
岸田さん:落ち込んでいる私を、奈美が車いすで外に連れ出してくれたことがありました。よく出かけていた三宮で「ごはんを食べよう」ということになったのですが、車いすで入れるお店はなかなか見つかりません。人が多いから車いすでぶつかりそうになって、「すみません」「ごめんなさい」とふたりで謝ってばかりいました。
ようやく車いすで入れるお店で席についたとき、私は絶望して、泣きながら思わず、「もう無理、もう死にたい」と言ってしまいました。奈美は、自分が手術に同意したことで、私が下半身麻痺になってしまったことに胸を痛めていたんです。それなのに、なんてことを口にしてしまったんだろうと思いました。
でも、そのとき奈美は「ママ、死にたいなら死んでもいいよ」と言ったんです。「そんなことを言わないで」と言われると思っていたから、びっくりしました。でも、その言葉を聞いて、私は「死にたくない」と思いました。
長男の良太がダウン症だとわかって絶望していたとき、夫が「ママが育てられないなら、育てなくてもいい」と言ってくれたことを、そのとき思い出しました。つらい気持ちを否定されずに、寄り添ってもらえたことで、私は救われたのだと思います。あとで奈美に話したら、「私、パパと同じことを言ったんだね」と笑っていました。ふたりは、本当によく似ているんですよね。
── 今は、車いすでアクティブに暮らしていらっしゃいますね。
岸田さん:あるとき作業療法士の方に、歩けなくても車を運転できると聞いて「えっ!そんな未来があるの?」と希望が持てました。私は、車を運転するのが大好きなんです。車を運転するには、車いすから運転席への移乗ができないといけないし、車いすを引っ張り上げるために筋力をつけないといけない。そう聞いて、初めてリハビリをやる気になりました。
「車いすに乗って出かけられるようになりましょう」「生活に困らないようになりましょう」というおおざっぱな目標でやる気にならなかったのですが、「運転がしたい」という具体的な目標を見つけて、サポートしてもらえればがんばれるということを実感しました。
もうひとつ、車いすでもできる目標を見つけました。入院中、同じ病室の人や医療従事者の人が、よく悩みを打ち明けに来てくれたんです。あんなにがんばっていた整体はもうできないけれど、話を聞くカウンセラーの仕事ならできるかもしれない。
暗黒の入院生活でしたが、「車の運転」と「カウンセリング」という希望を見つけたおかげで、元気になりました。
元気になってくると、どんな状況でも楽しいことや幸せなことはたくさんあるし、自分で作れることに気づきます。入院中も「Tシャツだけでもカッコいいのを着よう」とか「眉毛だけでもメイクしよう」とか。車いすに乗って外へ出られるようになってからは、近くのマクドナルドへ行って好きなことを勉強するのが楽しみでした。
── 退院されてからは、どのような生活になったのですか。
岸田さん:自宅をリフォームしたので、自分ひとりで料理をできますし、お風呂にも入れます。車を運転して、カウンセリングの勉強に通いました。あるとき、勉強のために先生のカウンセリングを受けていたら、滝のように涙が溢れてきたんです。
夫が亡くなってから5年以上たって、初めて自分の心の奥にある深い悲しみに気がつきました。子どもたちのために、「パパは東京で生きていることにしよう」とできるだけ明るく過ごしてきました。そのあいだ、夫を失った悲しみが、こんなにも自分の中にあったことを、見ないようにしていたのだと思います。
そんなに泣いたのは1回きりだったのですが、泣くだけ泣いたら、重い鎧を脱いで羽が生えたみたいに軽やかな気持ちになりました。「私は何でもできる」と楽しい気持ちになったことを覚えています。
── カウンセリングの勉強を生かして、仕事を再開されたのですね。
岸田さん:勤めていた整骨院に復帰して、空いている部屋でセラピーをやらせてもらいました。相手の話を丁寧に聞くことは私にもできますし、「ありがとう」と言ってもらえることは何よりうれしかったです。1対1のセラピーだけでなく、大勢の人の前で話をするきっかけを作ってくれたのは、大学生になっていた奈美でした。
奈美は、大学の先輩が立ち上げたミライロという会社で働いていました。障害を価値に変える「バリアバリュー」を理念に、ユニバーサルデザインのコンサルティングをする会社です。
そこで、私は車いすの扱い方や接し方を教える研修の講師として働くことになりました。代表の垣内さん自身も車いすに乗っていて、全国で講演活動をしていました。私も、多いときは年間180回もの講演をさせてもらっていました。
── 忙しくされていたのですね。
岸田さん:セラピーや講演で、みなさんには「自愛優先で、無理しないで」と言っているのに、自分にはつい厳しくなってがんばりすぎてしまうんですよね。
2021年に、感染性心内膜炎を起こして手術を受けました。後遺症が残る可能性もあって、今度こそ「もういいかな」と生きることをあきらめそうになったのですが、助けていただきました。せっかく助かったのだから、これからの人生は自分が楽しいことを見つけようと思っています。
退院して1か月後、奈美と良太に付き添われて、東京オリンピックの聖火ランナーとして走ることができました。夢を見ているような時間でした。
── 今は、どのように暮らしていらっしゃるのですか。
岸田さん:ミライロを退職させてもらって、マイペースで1対1のセラピーやコンサルティングをしています。
日本は、ハード面のバリアフリーは進んでいますが、車いすの人とどう接したらいいかわからないという人も多いですよね。急に車いすを押されたり、そうかと思うと段差の前で困っていても、誰も気づいてくれなかったり。そういうとき、気軽に「何か手伝いましょうか?」とか「手伝ってください」と言える空気が作れたらいいな、と思います。
奈美は結婚をして、良太も家を出てグループホームで暮らしているので、私はひとり暮らしなんです。もう、がむしゃらに仕事や子育てをしなくてもいいから、ラクですね。何も予定がない日に、「今日、何を食べようかな」「どんな服を着て、どんな靴を合わせよう」「どこのカフェで本を読もう」と考えるのが楽しみです。
夫が亡くなったことも、歩けなくなったことも、事実は変わらないけれども、それでも楽しいことを選ぶことはできるんですよね。
私は長い間、自分に厳しかったので、今は自分を甘やかして、自分に優しくするようにしています。好きな人と会って、好きなことをする。「これ、ほしいけどどうしようかな」と思ったら「買っちゃえ、買っちゃえ」「食べちゃえ、食べちゃえ」という感じ(笑)。おかげで、娘からは「いつも楽しそうやね」と言われます。「次、どんな楽しいことが起こるやろ」「どんな楽しいことしよう」と思える今がいちばん幸せです。
取材・文:林優子 写真:岸田ひろ実