「パパ死んじゃえ」が父娘の最後の会話に。39歳で急逝した父、遺された家族が辿り着いた「後悔の終着点」

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「パパなんて大嫌い、死んじゃえ」。思春期ゆえの親への反発。本心ではない言葉が、しかし本当に父娘の最後の会話になってしまったら…。39歳で夫が逝去した岸田ひろ実さん。娘で作家の岸田奈美さんは、大好きだった父との予期せぬ別れに傷つき、後悔の念を抱きます。母として、妻として、ひろ実さん自身も悔いの残る夫の最期を迎え、家族は「パパは東京で生きている」と日常を続けることにしました。
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── 作家の奈美さんとダウン症の良太さんを育てた母のひろ実さんは、ご主人の浩二さんを若くして亡くされたと伺いました。ご家族にとっても、大きなショックだったと思います。ご主人はひろ実さんにとってどんな存在でしたか。
岸田さん:3歳上の夫とは、会社の同期として知り合いました。私は足元ばかり見て心配するタイプですが、夫は反対に、物事を俯瞰して先を見通せるけれど、足元にある細かいことはあまり気にしないというタイプ。リーダーシップがあって、私が「どうしよう、どうしよう」と言うと、「なんとかなるやろ」と言ってくれる人でした。
結婚が決まって、私は1年半で会社を辞めました。当時は「寿退社」が一般的だったんですよね。23歳で長女の奈美が産まれて、その4年後にダウン症の長男・良太が産まれました。
1995年に起こった阪神淡路大震災をきっかけに、夫は勤めていた不動産会社を辞めて起業しました。古いマンションをリノベーションして、より価値のあるものにするという会社で、当時はまだ珍しかったベンチャー企業です。当初は西宮を拠点にしていましたが、東京にも進出して「もっと事業を大きくする」と張り切っていました。
── 亡くなられたのは、急なことだったそうですね。
岸田さん:当時、夫は赤坂にオフィス兼自宅マンションを借りて単身赴任をしていました。いつも忙しそうでしたし、仕事のストレスも溜めていたのだと思います。日曜日に家にいても、「疲れた」と言って寝ていることが多かったですね。
その日は特に調子が悪かったようで、「足が前に出ない、迎えに来てほしい」と電話がかかってきました。その日、夫は西宮のオフィスに戻ってきていて、私は神戸の自宅から車で迎えに行きました。「このまま病院へ行こう」と言ったのですが、夫は「明日、金沢への出張が入っているから行けない。どうせ病院へ行ってもすぐに帰される」と言うので、家に帰りました。
夫の様子が急変したのは、深夜のことでした。「苦しい、救急車呼んでくれ」と言われて、眠っている子どもたちを置いて、救急車で一緒に病院へ行きました。心筋梗塞と診断されて、すぐにカテーテル治療をすればよくなると聞いて、私はホッとしました。でも、夫は「もう死んでしまうと思う、ごめんな」と言うんです。そして、「奈美と良太は大丈夫や」と何度も何度も言っていました。どうして夫がそんなことを言うのか、私にはわかりませんでした。夫だけが、自分の運命を悟っていたのかもしれません。
「2時間くらい」と聞いていたのに、手術は朝までかかりました。後でわかったのですが、夫は遺伝的に血管がもろくて、思うような治療ができなかったそうです。それから2週間後に、一度も意識が戻ることなく亡くなりました。
── そのとき、お子さんたちはおいくつだったのですか。
岸田さん:奈美が中学2年生、良太は小学4年生でした。良太は、何が起こっているのかわかっていませんでした。
奈美は、見た目も性格もパパにそっくりで、小さいころからパパのことが大好きだったんです。東京にもよくひとりで遊びに行って、パパにいろいろなところへ連れて行ってもらっていました。
「人として何を大事にするか」「なんのために勉強するのか」「仕事とは何か」というような話を、夫は奈美が小学生のころからよく話していました。奈美が学校で友達ができなくて悩んでいたとき、「奈美ちゃんの友達はこの箱のなかにいる」と言ってインターネットの掲示板を教えたのも夫です。
ただ、ふたりは似ているだけに反発することも多くて、奈美が思春期になるとよくケンカをしていました。勉強をしないとか携帯電話を使いすぎるとか、パパに叱られることも増えて、奈美にしてみたら憧れのパパにほめてもらいたいのにほめてもらえなくて、歯がゆい思いをしていたのだと思います。
夫が倒れた日も、ささいなことで言い合いになって、奈美は「パパなんて大嫌い。死んじゃえ」と言って部屋に閉じこもってしまいました。ケンカをしても、いつも朝になるとふたりはケロっとしてぺちゃくちゃしゃべっているので、その日もそうなるわ、と思っていたんです。まさかそれが、最後の会話になるとは思いませんでした。
病院に駆けつけた奈美は、泣きながら「ありがとう」「ごめんなさい」と言っていました。今でも自分を責めていると思います。あの夜、私が奈美を起こしていれば、と後悔してもしきれません。
── 父親が突然亡くなったことは、お子さんたちにとっても大きなショックだったと思います。
岸田さん:まともに向き合うには、あまりにも突然で、悲しい出来事でした。だから、夫が亡くなってから1年以上、私たち家族は「パパは生きていて、東京に住んでいる」ということにして、それまで通りに暮らしていたんです。
夫は、単身赴任をする前から仕事でほとんど家にいませんでしたし、私はずっと専業主婦で、家のことはちょっとした大工仕事でも何でもひとりでできました。だから、夫が東京にいることにしておけば、生活は何も変わりませんでした。
夫が亡くなったとき、彼の高校時代の野球部の先輩からお手紙をいただいたんです。私は直接お目にかかったことはないのですが、夫はその方を尊敬していて、何かあると相談をしていました。
その方も小学生のときにお父さまを亡くされていて、お手紙には「父を亡くした悲しみよりも、父を思って泣いている母を見るのが悲しくてつらかった。ひろ実さん、お願いだからお子さんたちの前だけでは、泣かないで元気を装ってあげてください」ということが書かれていました。
手紙を読んで、「ここで私が泣いていたらいけない、子どもたちの前では、私は太陽みたいに元気でいよう」と思いました。でも、夫を失った悲しみに向き合ってしまったら、それは無理でした。だから夫には東京にいてもらうことにしたんです。
── 亡くなられたあとも、ご家族と一緒にいらしたのですね。
岸田さん:奈美は、最後にパパにひどい言葉を投げつけてしまったことを後悔していると思います。私も、夫に「ありがとう」をちゃんと伝えられていたかな、と思うことはたくさんあります。
夫が亡くなってから、奈美と私は言いたいことは先延ばしにしないで、その場ですぐ伝え合うようにしてきました。私たちは、いろいろなことを一緒に乗り越えてきた戦友のような関係です。私たちの関係が悪くなったら、岸田家はおしまいだということはお互いにわかっているので、何か気になることがあったら、とことん話し合うようにしています。娘の夫には「家族で話をしすぎるね」と言われるくらい。そして、「ありがとう」と「ごめんね」は、必ずその日のうちに伝えるようにしています。

夫の死を乗り越え、前向きに生きようとした矢先、岸田ひろ実さんは病気で下半身麻痺になってしまいます。今は、車いすでもできるカウンセラーや講演の仕事をしながら、多くの人に勇気を与えています。
取材・文:林優子 写真:岸田ひろ実

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