12匹の飼い猫をみな殺し、誘拐した少年にわいせつしてたのに…《中1男児誘拐ホルマリン漬け事件》“問題だらけの犯人男”を誰も止められなかった謎(昭和32年の事件)

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〈「ついに理想の少年を見つけた」誘拐した中1男子をノコギリで切断、ホルマリン漬けに…26歳・犯人男の“恐るべき犯行理由”(昭和32年の事件)〉から続く
1957年に発生した《中1男児誘拐ホルマリン漬け事件》。犯人は以前から異常行動を繰り返していたにもかかわらず、なぜ誰もその凶行を止められなかったのか? 事件のその後を、鉄人社刊『高度経済成長期の日本で起きた37の怖い事件』よりお届けする。(全2回の2回目/最初から読む)
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写真はイメージ getty
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金魚鉢と水槽は全部で4つあり、2つの金魚鉢には頭部と両足、2つの水槽には胴体と両腕が入っていたのだという。
通報を受けた警察が現場に急行。身元を調べ、遺体が行方不明になっていた和利くんであることを確認。
また、裏庭の地中からふろしきなどで包まれた彼の衣類や遺体の一部が、仏壇の裏からノコギリ、出刃包丁などの刃物が見つかったことから、その日のうちに邦太郎を逮捕する。
邦太郎は1953年に明治大学商学部を卒業後、1956年11月から中野区立図書館の臨時職員として働き始めた。礼儀正しく、仕事ぶりもいたって真面目。一方で、邦太郎には近所で悪評が立っていた。以前から銭湯やそろばん塾帰りの少年を、所持していた300冊以上の少年雑誌や漫画を読ませてあげると言葉巧みに自宅へ誘い込み、彼らに猥褻行為や暴力を振るっているとの噂が絶えなかった。
早い話が、邦太郎は小児性愛者で、すれ違った少年にいきなり抱きつくこともしばしば。子供がいる近隣住民は彼に近づかないよう厳しく注意していたという。
邦太郎の暴力は少年のみならず両親にも向けられ、林家では長男が恐るべき存在だった。また、無類の猫好きだった邦太郎は多いときには20匹、事件前には12匹を飼っていたが、直前にその全てを抹殺していた。
殺し方は異様で、1匹ずつ手にかけた後、四肢をバラバラにしてドブなどに遺棄。それどころか、命を奪った猫の半数を自ら食していたという。
こうした異常な行動により、5年ほど前から前出の都立桜ヶ丘保養院で入退院を繰り返していたものの、事件当時、体調は比較的良好で図書館で働きながら自宅で療養生活を送っていた。
そして1957年4月1日、銭湯で和利くんを見かけ声をかける。邦太郎は以前から日記をつけていたが、この日から始まった日記のノートは『若松湯』と題されており、こんな記述があった。
〈ついに理想の少年を見つけた。住所、名前を聞いた。必ず連れ出そう必ず〉
父親の清美川に似て美少年だった和利くんは、邦太郎にとって、まさに探し求めていた子供だった。
翌2日、若松湯の風呂につかりながら“理想の少年”を待っていた邦太郎の前に和利くんが同級生と一緒に現れたのは19時過ぎ。前日に顔見知りになっていた邦太郎は和利くんの背中を流しながら「面白いところに遊びに行こう」と声をかける。
後の同級生の証言によれば、和利くんは「さっき、背中を流してくれたあの人に僕は殺されるかもしれない。誘拐されるかもしれない。だから、あの人の顔をよく覚えておいて」と語っていたそうだが、同級生がどうせ冗談だろうと目を離した隙に、2人の姿は銭湯から消えていた。
同日21時ごろ、和利くんを自宅に連れ帰った邦太郎は、戸惑う両親に「風呂に行け」と命令し家から追い出す。2人きりになったところで和利くんの服を脱がせようとしたものの頑なに拒否されたため、問答無用で顔面を殴打。鼻血を出し気絶した和利くんが目を覚ますのを待って、背後から何度も鉈を振り下ろし殺害する。
そして、両親が帰ってくる前に遺体をノコギリで2つに切断、床下に1メートル四方のスペースを空け隠匿する。ほどなく帰宅した両親には畳に付いた血痕を「生意気なことを言ったので殴ったら鼻血が出た」とごまかし、和利くんはすでに自宅に戻ったと嘘の説明をした。
その後、邦太郎は2日をかけて両親が寝静まった深夜にノコギリや包丁で遺体をバラバラに切断。部位をホルマリン漬けにし、事前に渋谷で購入していた金魚鉢と水槽4つに入れ密閉、床下に隠す。

が、昼間はともかく夜になると、和利くんに会いたい気持ちが抑えきれなくなる。そこで、夜な夜な頭部の入った金魚鉢を床下から取り出し、じっくり眺めては悦に入った。当時の日記にはこう記されている。
〈金魚鉢に入ったあの子は見ても見ても飽きるということがない。ホルマリン漬けになったあの子は生きている時より一層かわいい〉
後の供述によれば、頭部の入った金魚鉢を再び床下に戻す際は、いつも「さよなら」と声をかけ非常に辛い思いをしたのだという。また、和利くんの母親に身代金を要求するハガキを出したのは、遺体を解体する合間の暇つぶしでしかなかったそうだ。
このような常軌を逸した状況から邦太郎の精神状態は4日ごろより急激に悪化し、6日から桜ヶ丘保養院に入院。そして9日に主治医に奇妙なことを口走り始めたため、急転直下で事件発覚となる。
ちなみに、5日に和利くんの失踪が報道された直後、邦太郎の父親が不安になり「息子が事件に関与しているかもしれない」と警察に相談していた。これを受け野方署は、6日の午前3時に邦太郎を保護したものの、特に調べることもなく、その日のうちに病院に戻したそうだ。
殺人および死体損壊罪などで起訴された邦太郎は裁判で精神鑑定にかけられ、責任能力ありとして1958年7月に懲役10年の判決を受け、控訴せず服役した。
これほど残虐な行為を犯しながら、なぜ10年の量刑で済んだのか。
その後、邦太郎がどんな人生を送ったのかは明らかになっていない。
(鉄人ノンフィクション編集部/Webオリジナル(外部転載))

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