黙秘権が多用され、加害者は“黙り得”という現実 名古屋主婦殺害、被害者の夫が憤慨 「遺族をさらに傷つけるつもりか」

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迷宮入りもささやかれていた「名古屋主婦殺害事件」。昨年10月、安福久美子容疑者がようやく逮捕され一件落着かと思われた。だが……。容疑を認めながら動機を語ろうとしない安福容疑者。そのため真相が分からず苦しめられる遺族。黙秘権、それは“絶対正義”なのか。【水谷竹秀/ノンフィクション・ライター】
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【写真を見る】高校時代の安福容疑者 似顔絵と比較するとよく似ている
きらびやかなイルミネーションが名古屋の街を彩っていた昨年12月上旬のことだった。居酒屋に集まった知人たちは、席に着くや否や、口々にこう言った。
「おめでとうって言いたいんだけど……」
「これから長い戦いになるね」
「日本の司法がおかしいんですよ」
声をかけられたのは、高羽悟(たかばさとる)さん(69)である。妻の奈美子さん(32)=当時=が1999年11月、名古屋市西区の自宅アパートで殺害された事件は、発生から26年となる直前の昨年10月31日、安福久美子容疑者が逮捕され、あらためて大きな注目を集めた。
高羽さんの高校時代の同級生だった安福容疑者は、逮捕直後は警察の取り調べに応じていたが、間もなく黙秘に転じ、11月半ばからは名古屋地検が鑑定留置を行った。
居酒屋に集まった知人たちは、犯人逮捕を祝する予定だったが、安福容疑者の黙秘によって、諸手を挙げて「おめでとう」とは言えなくなってしまったのだ。
報道によると、逮捕当初、安福容疑者は警察の取り調べに対し、「合っています」と殺人の容疑を認め、逃げ続けた26年間についてこう供述していたという。
「毎日が不安だった。事件の発生日ごろになると気持ちが落ち込んだ」
一方の高羽さんはその間、情報提供を求めるビラを配り、メディアの取材を受けて早期解決を訴え、現場保存のために累計2000万円以上を払ってアパートを借り続けた。そして奈美子さんとの間に生まれた航平君を育てながら、人前では涙を見せず、堂々と生きてきた。そんなある日の突然の出来事だった。
「26年間お待たせして申し訳ありません」
と、担当捜査員から同級生逮捕の報告を受け、「事件解決」と思われたのもつかの間、罪を認めた容疑者が一転、口を閉ざす……。その一報を知った高羽さんは、やり場のない怒りを覚えた。
「憲法でも保障されている権利だということは理解しているつもりです。それでも正直に話をし、早く裁判に出て、判決をもらって刑務所に行く。それこそが安福が私たち遺族に対して見せるべき誠意だと思うんです。にもかかわらず黙秘したという事実は反省もなく、自己保身に走っているということに他ならない。だから求刑できる最大限の重い刑にしてもらいたい」
怒りの矛先は安福容疑者の親族にも向かった。
「なぜ安福にきちんと話すように説得ができないのか。家族にも腹が立っています」
安福容疑者は事件発生時、夫とまだ小さかった息子2人と共に暮らしていた。そんな土曜日の白昼、刃物を手に高羽さんの自宅へ向かい、奈美子さんの首を複数回刺して殺害。その際に手にけがをしている。当時、捜査に関わっていた愛知県警の元幹部が語る。
「犯人は現場のアパートから逃走した際、約500メートルにわたって1メートルほどの間隔で血痕を残しています。相当の出血量です。法医学の専門家を現場に連れて行き検証してもらったところ、縫合を伴う治療を必要とするけがで、病院に行かないと治らない可能性があったと。でも安福は病院に行っていないみたいだね」
安福容疑者は事件後、家族や周囲には事件のことを話していなかったというが、それだけのかげをしていたら、気付かれる可能性もあっただろう。高羽さんが訝(いぶか)しげに語る。
「安福の夫が、仕事で単身赴任とかしていたのであれば、けがに気付かなかった可能性はあるでしょう。でも少なくとも子供は気付くはず。その時は母親(久美子容疑者)から、例えば『包丁を使っている時にけがした』とうそをつかれていたとしても、今は大人です。彼らも26年間母親からだまされ続けたことになるわけだから、今回の逮捕を受け、遺族に償ったらどうかと説得をすべきではないのか。母親がそんなひどい犯罪に関わり、黙って生きてきて、容疑まで認めたのに、お前ら家族全員で遺族をさらに傷つけるつもりかと問いたいです」
黙秘権――。刑事手続において、被疑者や被告人が自身の不利になる供述を強要されない権利であり、憲法第38条第1項にこう定められている。
〈何人(なんぴと)も、自己に不利益な供述を強要されない〉
これは裁判だけでなく、捜査機関による取り調べの段階から行使することが可能だ。無罪推定の原則により、被疑者や被告人は有罪が確定するまでは「罪を犯していない人」として扱われなければならない。ゆえに無罪か有罪かを争う場合、黙秘権は、自白の強要による冤罪の被害に陥らないための“防御手段”として認められているのだ。
しかし一方で、容疑者が犯行を認め、客観的証拠が十分にそろっている今回のような事件において黙秘権を行使するのは、いくら憲法で保障されているとはいえ、被害者や遺族にとっては理不尽以外の何物でもないだろう。
今回の事件現場となったアパートに残る血痕から採取されたDNA型は、安福容疑者のものと一致しており、犯人である蓋然(がいぜん)性は客観的証拠からも極めて高いと言わざるを得ない。
公判が開かれても安福容疑者は沈黙を貫くのか。あるいは口を開くのか。高羽さんが語る。
「これだけ犯人であることが明らかなのに、なぜ黙秘するのか。恥ずかしくて言えないような、裁判で不利になる動機があるのではないか」
「反省していない」とみなされれば、黙秘はかえって公判で被告人に不利に働く可能性がある。その上での黙秘。「なぜ」の二文字が、高羽さんの頭の中に今もこだましている。
犯罪被害者支援に長年携わっている高橋正人弁護士は、「一般論として」と前置きした上で、こう語る。
「取り調べ段階で被疑者が黙秘に転じるケースは、弁護士の介入による可能性が高いと思われます。被疑者が突如として自発的に行使することは考えにくい。刑事弁護を担当する弁護士の多くはいまだに『国家は敵』だという思想の下、被疑者や被告人の人権を盾に黙秘権を行使させる人もいます。だから被害者の被害回復の権利にはあまり関心がないのです」
実際、捜査関係者によれば、名古屋に事務所を構える弁護士らが安福容疑者を“支援”しているという。その弁護士に、安福容疑者に黙秘へ転ずるよう促したのか尋ねたところ、「個別の取材はお断りしている」と答えるだけだった。
弁護士が黙秘を指示する意図について、高橋弁護士は引き続き一般論としてこう説明する。
「量刑を軽くすることを狙い、公判で被告に『物語』を語らせるためとみられます。被告は自分にとって都合の良いように脚色した話を展開し、自身の罪を矮小化する動機を供述する傾向がある。実際、それで裁判官や裁判員の理解が得られ、量刑が軽くなったケースもあります」
なぜそんな「黙り得」がまかり通るのか。それには2009年から導入された裁判員裁判が関係している、と高橋弁護士は指摘する。
「弁護人は、被疑者が一時的に取り調べに応じていたとしてもその後に黙秘権を行使させ、公判前整理手続で警察や検察による供述調書に不同意の意見を述べることが少なくありません。結果、裁判の証拠としては原則として採用されなくなる。これで『公判前の被疑者の供述』が十分に検討されなくなります。そうすると量刑の判断材料は、法廷で語ったことがクローズアップされる。だから裁判員裁判の導入以降、取り調べ段階で弁護士が介入し、黙秘権が多用されるようになったという側面は否定できません」
公判前整理手続は、裁判員裁判の対象となっている殺人や強盗致死傷などの凶悪事件を中心に、公判期日前に裁判官、検察官、弁護人が集まり、事件の争点や証拠を整理する準備手続きのことだ。そこで供述調書が“お蔵入り”となれば、被告人は、公判で「同情すべき加害者」を演じ切ることで刑を軽減され得るという理屈である。
黙秘権の多用。その背景にはもう一つ、2019年から義務化された取り調べの可視化があるのではないか、と高橋弁護士は分析する。
「被疑者が黙秘権を行使しようとした時に、取り調べ官から『不利になるよ』と暗に仄(ほの)めかされるケースが可視化で減ったためとみられます。もちろんこのような示唆自体間違いですが、取り調べ官も被疑者に反省を促すのを意図してそう仄めかす時があります」
性犯罪でも、被疑者による黙秘権の行使は相次いでいるという。数多くの性犯罪被害者を支援してきた上谷さくら弁護士が解説する。
「性犯罪は客観証拠が乏しい場合が多いので、被害者の証言頼みです。そこで黙秘をされると被害者証言にかなり高度な信用性が求められることになります。信用性がもとより高い場合はそれだけで起訴されて有罪になりますが、そうしたケースは極めて珍しい。黙秘して不起訴になれば、加害者にとっては『成功体験』になるので、反省する機会を失い、再犯に及ぶ可能性もあります」
黙秘権を有する被告人が裁判で口を開き、うそをついても偽証罪には問われない。ところが被害者が証言をする時は裁判官から「うそをついたら処罰されます」と告げられ、真実を述べる旨の宣誓をさせられる。これは刑事裁判において被告人は裁かれる「当事者」で、被害者はそうではないという原理に由来するのだが、だとしてもあまりに均衡を欠いているのではないか。そんな不公平感も踏まえ、上谷弁護士はこう強調する。
「何でもかんでも黙秘をさせようとする今の刑事弁護のやり方には違和感を覚えます」
冤罪はあってはならない。そんなことは誰もが分かっている。だからといってその「正義」を悪用し、黙秘権を過剰に行使するのは、被害者や遺族をさらに傷つけるという意味で、二次被害を生む恐れがある。
高羽さんは安福容疑者の犯行動機が分からないため、奈美子さんの遺影が飾られた仏前で、事件の真相をいまだに報告できない状態が続いている。犯人逮捕を26年間待たされてもなお、立ちはだかる「司法の壁」に、切実な思いが込み上げていた。
「安福からどんなに謝ってもらっても、金を積まれても奈美子はもう返ってこないんです。だからせめて、口を開くことが、安福に残された最後にして唯一の遺族への償いなのではないでしょうか。でも弁護士にはそんなことは関係ないのかもしれませんね。とにかく安福を黙らせ、罪を軽くすることが彼らの職務なのだとしたら」
高羽さんは高校時代、同じ軟式テニス部に所属する安福容疑者から好意を寄せられていた。卒業後、高羽さんが進学した大学のテニスコートにまで安福容疑者は姿を見せたが、交際の申し出はきっぱり断った。それでもまたコートに現れた……。
もしや、法廷で彼女は「痴情のもつれ」が動機であるとでも主張するつもりなのだろうか。だとしても言わずもがな、それは安福容疑者サイドの一方的な「物語」に過ぎず、ましてやそんな過去の話を持ち出し、何の落ち度もない奈美子さんの殺人が正当化されるわけもない。
全国被害者支援ネットワークの理事長で中央大学名誉教授の椎橋隆幸氏は、日本の司法制度において被害者や遺族はかつて知る権利が十分に認められず、「忘れられた存在だった」と振り返り、こう解説した。
「動機や加害者の状況も含めて遺族は事件の真相を知りたいと願っている。その知る権利は近年の法改正によって徐々に拡大されてきた。被害者や遺族が傍聴席からでしか裁判を傍聴できない時代に比べると、今は被害者参加制度により意見を陳述したり、被告人にも質問できるようになった。ところが今回の事件のように取り調べ段階から黙秘権を行使されてしまうと、遺族が知りたいことが閉ざされてしまう。被疑者に認められた権利であるがゆえ、不適切とまではいえないが、個人的にはその戦術はいかがなものかと思う」
高羽さんが語気を強める。
「安福が裁判で仮に、自分にとって都合の良い話をしてきたら、事実ではないと否定するだけです。あなたには一切興味がなかったし、関わりを持たずに生きてきた。それが私の人生です、と言ってやります。今はもうこんな年齢ですが、自分が少しでも長生きし、彼女の獄中死を見届けてから死にたいです」
憲法には、黙秘権以外にも被告人や被疑者を保護する権利がいくつも明記されている。しかし、被害者に関する権利は一つも書かれていない。
「なぜ加害者の権利が優先されるのか」
高羽さんの言葉が重く突き刺さる。
水谷竹秀(みずたにたけひで)ノンフィクション・ライター。1975年生まれ。上智大学外国語学部卒業。2011年、『日本を捨てた男たち』で第9回開高健ノンフィクション賞を受賞。他に『ルポ 国際ロマンス詐欺』(小学館新書)などの著書がある。10年超のフィリピン滞在歴を基に「アジアと日本人」について、また事件を含めた現代の世相に関しても幅広く取材を続けている。
「週刊新潮」2026年1月29日号 掲載

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