家族を想うがゆえの選択が、時として残酷な決断を伴うことがあります。特に少子高齢化が進む現代日本において、親の介護と子のキャリア維持の両立は、多くの家庭が直面する切実な課題です。ひと組の親子の事例を通じ、共倒れを防ぐための方法を考えていきます。
「もう帰ってこなくていい。この家を出ていきなさい」
娘の明美さん(48歳・仮名)にそう告げたという佐藤健一さん(75歳・仮名)。当時の心境を「断腸の思いだった」と振り返ります。
佐藤家を襲った変調は5年前、母の良子さん(73歳・仮名)が脳梗塞で倒れたことでした。一命は取り留めたものの、右半身に麻痺が残り、日常生活には介助が不可欠となりました。当時、大手メーカーの正社員として多忙な日々を送っていた明美さんは、父の健一さんも膝に持病を抱え、足腰が弱っていることを案じて大きな決断を下します。
正社員から契約社員になり、働き方を変えて実家に戻ってきたのです。現在の月収は約28万円。正社員時代に比べれば年収は大幅に下がりましたが、時間の融通が利く分、母の通院付き添いや自宅での介護に時間を割くことができました。「自宅で過ごしたい」という良子さんの願いを叶えるため、親子3人での生活が再開したのです。
しかし、健一さんの心境は複雑でした。
「娘が結婚しなかったのは、仕事を一番に考えてきたから。『仕事ばかりしていたら、婚期を逃したわ』と笑って話しますが、それほど仕事に打ち込んできたんです。それが今は、仕事が終わると急いで帰ってきて、妻の着替えや食事の世話をしてくれます。でも、明らかに娘の顔には疲れがたまっている。彼女ももうすぐ50歳。自分の老後のために貯金もしなければならない時期です。それを私の負担を減らすため、妻の願いを叶えるために、自分のキャリアを捨ててしまった……。このままでは、私たちが死んだ後、彼女には何も残らないのではないかと思い始めたんです」
健一さんの年金は月18万円。良子さんの年金と合わせれば、日々の生活は何とか回ります。しかし、それは「今」に限った話です。健一さん自身も年齢とともに介護が必要になる可能性は高く、その時、すでに非正規雇用となっている明美さんが、さらに重い負担を背負うことは目に見えていました。
悩んだ末、健一さんは良子さんに「施設入所」を提案しました。当初、良子さんは嫌がりましたが、健一さんは「明美の人生をこれ以上、犠牲にはできない」と説得を続けました。そして、ようやく入所の目処が立った日、明美さんに対しても「実家を出て独立すること」を命じたのです。
「娘は『お母さんを施設に預けるなんてひどい』と泣いて怒りました。でも、あの子が実家にいれば、いつまでも私の身の回りの世話を焼いてしまう。自分の人生を後回しにしてしまうんです。心を鬼にして突き放すしかありませんでした」
良子さんが施設に入所し、明美さんが引っ越して、広く感じるようになった最初の夜、健一さんは声を上げて泣いたといいます。それは喪失感と安堵感が混ざり合った、複雑な涙でした。
総務省『2022年(令和4年)就業構造基本調査』によると、過去1年間に介護・看護を理由に離職した「介護離職者」は10.6万人にのぼります。その内訳を見ると、女性が約8.1万人と圧倒的に多く、年齢層では45歳から54歳という、職場で中核を担う世代が中心となっています。
明美さんのように、完全に離職せずとも、正社員から契約社員やパートへと雇用形態を変更する「キャリアダウン」を選択するケースも少なくありません。しかし、これは長期的に見て極めて高いリスクを伴います。厚生労働省『令和6年賃金構造基本統計調査』によると、20歳から60歳まで正社員の場合と、非正規社員の場合とでは、生涯賃金で1億円以上の差が生じます。
また、もし50代から10年間、非正規社員になった場合と、引き続き正社員だった場合を比較すると、約3,600万円もの差となります。50代からのキャリアは老後を見据えた資産形成に大きな影響を与えるばかりでなく、現役時代の収入差はそのまま年金の受取額にも反映されます。介護離職やキャリアダウンが、親亡き後の子どもの老後に甚大な影響を与えることは想像に難くありません。
なぜ、介護離職やキャリアダウンを選択してしまうのか。その背景には、佐藤さんのように、親が「自宅で過ごしたいと希望している」というケースもあるでしょう。公的介護保険制度の枠組みでは、在宅介護を維持するために外部サービスをフル活用すると、自己負担額が跳ね上がり、世帯収入を圧迫します。結果として、家族による「無償の労働」で穴埋めをせざるを得ない状況が生まれるのです。
健一さんが選択した「施設入所」は、一見すると家族の絆を断ち切る行為のように見えますが、「子の老後破産」を防ぐための現実的な最善策といえます。介護を家族だけで抱え込まず、外部の施設や専門家に委ねることは、現役世代の就業機会を守り、経済的な自立を維持するために不可欠なプロセスなのです。