戦後の皇室は、常に女性皇族の人気によって支えられてきました。そして、敗戦後の昭和、平成、令和の三代にわたる天皇家に対して 3回のファッション革命が国民にもたらさたのではないかと思います。
もちろん、初代は美智子さま(上皇皇后)です。初めての民間から皇太子妃。皇太子からの直接のプロポーズ。軽井沢でのテニスコートの恋と、敗戦にうちひしがれ、食べ物も衣類も不足している時代の国民に勇気と希望を与えるものでした。ご成婚にともない週刊誌も続々創刊されました。それくらい美智子さまという文字や写真が掲載されているだけで雑誌が売れた時代があったのです。
もちろん、美智子妃の「革命」は単なるセレブ的なものではありません。服装も生き方も、それまでの皇室の殻を大きく打ち破るものであったからこそ、国民の人気を博したのでしょう。
第二の革命は、小和田雅子さんの登場です。あえて雅子妃と書かなかったのは、お妃を正式に承諾される前から、女性として、生き方とファッションに人気が集まっていたからです。彼女は男女雇用均等法の第一期生の時代に社会人になりました。女性自体が未来の希望とともに、男女が平等に社会で争う時代になったという自覚と怯えを抱いた時代でもありました。
そして第三の革命は、秋篠宮の佳子さまを中心に姉の眞子さまも加えた、ファッション雑誌から抜け出てきたような、カジュアルで気さくで、それなのに気品をもったファッションでした。
実は、今、第四回目の革命=愛子さまと雅子妃殿下の二人が起こす革命がおきようとしていますが、まずは美智子妃の存在の大きさについて書くのが筋でしょう。美智子さまが、過去に三回(1985年・1988年・1990年)もニューヨークの国際ベストドレッサー賞を受賞されていることは、もう知らない人が多いかもしれません。
元々、裕福な実家に生まれた美智子さまは、ファッションセンスも豊かでしたが、皇室にはいってからは、「子供を真ん中に川の字で寝たい」といった、従来の皇室とちがう、自分の手で子育てをするという心構えと、一方で華美にみられて、苦労する国民の反感を買わないことを深く考えておられました。
彼女のモットーは?相手がどう思うか(老人ホームではどのような色や形の服を着ることで、お年寄りが安らかな気持ちになるか・児童養護施設では明るい色が子供たちを喜ばせるか…etc.)?目上の方よりも、やや控えめなデザインや装飾にする?染め直し・仕立て直しができるものを選んで長く着る?ここぞというときにはお花の力を借りる(デザインに取り入れる)?ドレスに着物の美を取り入れ個性的な装いに?公務先の国の花や行事に合わせ、相手への親しみをファッションに込める。?動きやすくエレガントなケープはお仕事をしながらも優雅さを忘れないため?決して流行を追うことがなく、数々の工夫をこらすという点であったといいます。
いまでもお若いころの写真をみると、簡単におめにかかれるような美女でないことはまちがいありませんが、そこには、戦後の厳しい世の中を生き抜き、国民に希望を与えるという強い意志が感じられる美しさでした。
第二の革命、雅子妃の革命は、最初は、男女平等になった世の中で、時の皇太子が「僕が一生全力でお守りします」の言葉に動かされ、外交官としての国際性を存分に活かした、グローバル皇室が誕生するという期待でむかえられました。外交官時代の彼女は足が長く、ロングコートとロングヘアがにあう、現代的な美女であり、日本が敗戦国から大国になったことを象徴するような雰囲気まで兼ね備えた、華やかな存在でした。
仕事か、結婚かと悩む彼女が結婚を承諾し、婚約パレードで、全世界にみせた笑顔は、本当に幸せそうで、しかも国民と皇室の紐帯を感じさせるものでした。
しかし、好事魔多し。この世代の女性なら、誰しも経験したであろう、均等法以前に入社した女性との軋轢、同期の男性との軋轢、そして、世の中全体の、仕事よりまず跡継ぎをという空気。この三つとの戦いが、一般人の何倍もの圧力でかかりました。先輩も同僚も、跡継ぎを望む人々も、決して意地悪だったわけではありません。とはいえ、自分たちの世代の価値観をそのまま、ぶつけられた雅子妃には、人の何百倍もの圧力がかかったにちがいありません。
彼女の望む国際外交は、懐胎に不安が残るという理由で数が減り、すばらしい頭脳は、世継ぎのみのために使うことを余儀なくされ、とうとうパンクしてしまいました。適応障害……。それが彼女に与えられた病名でした。彼女より上の世代には、その辛さがわかりません。何よりも、あれほどファッショナブルだった彼女のファッションが、皇室流の少し古くさいものに替わり、さらに公務を休むことが多くなると、「公務を休んでいるのに、いつもブランドファッション」と攻撃をうけました。実は、公務のために着る洋服の予算申請の期間までに諾否が決まらず、仕方なく、外務省時代の洋服を仕立て直して着ていただけで、贅沢をしていたわけではなかったのです。
愛子さまに対しても、自分の体調を考えながら、子育てをするので、どうしても慎重になるのですが、それにも溺愛の度がすぎるという批判が出ました。この苦悩をすべて受けてたった今上陛下(当時の浩宮さま)の覚悟と生き方は、国民をして、この人なら安心だと思わせる優しさと寛大さ余裕を感じさせるものでした。一方、紀子さまは、なかなか世継ぎができないなか、悠仁さまを生み、一躍天皇の母になる可能性をえることになりました。彼女の場合、結婚当初から洋服の選び方は、独特のものがあり、白を基調に美智子様の洋服や着物姿に似た姿がよくみられます。皇室にはいったときから、美智子様をめざしているのが彼女のファッションにあらわれているのかもしれません。
記事後編は【佳子さまと小室眞子さんにあった「ファッションセンス」の違い…宮内庁職員の名前を借りて「ネット通販」をすることも】から。
【つづきを読む】佳子さまと小室眞子さんにあった「ファッションセンス」の違い…宮内庁職員の名前を借りて「ネット通販」をすることも