18歳で「試験結婚」、大バッシング、監督業への挑戦…大女優「田中絹代」の華麗で孤独な67年【昭和の女優ものがたり】

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日本映画史を代表する大女優の1人、田中絹代。サイレント映画の時代にスターとなり、トーキー映画への移行、戦争を経ても第一線に立ち続けた。1977年3月21日に67歳で死去するまで、出演した映画は約260本。
晩年は国際的な評価も受け、1975年にはベルリン国際映画祭の銀熊賞(最優秀女優賞)に輝いた。誕生日である11月29日を記念して、映画監督としても6本の作品を残した大女優の生涯を映画解説者の稲森浩介氏が解説する。
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田中絹代は、日本で初めての本格的トーキー映画に出演した女優だが、映画界のアイドルでもあった。その後も溝口健二、小津安二郎、成瀬巳喜男などの名作に多く出演し、映画界を代表する女優となる。
身長が150cmほどで体重は40kgと小柄だったが、その足跡はとてつもなく大きい。しかし、その生涯は華やかさの裏に孤独の影が常に付きまとうものだった。
1909年に山口県下関で生まれる。1924年、京都の松竹下賀茂撮影所に入社し、1年後に東京の松竹蒲田に移り本格的な女優活動を始めた。けっして美人ではないが、日本的な可憐な容姿ですぐに人気が出た。
やがて新進気鋭の監督、清水宏と18歳で「試験結婚」という同棲をするが、2年で破局を迎えてしまう。当時の雑誌に自らの結婚生活を語っている。「清水と喧嘩して『お座敷におしっこをしてやる』と言ったら『やるならやってみろ』と怒鳴られて、ほんとにおしっこをしちゃった事がありました」と。
また清水にひっぱたかれた時もつかみ合いのケンカをしていたという。まるで幼い子供の結婚生活のようだ。
1931年、日本初の完全トーキー作品「マダムと女房」に出演。「あなたぁ」という、ややかん高く甘い声が評判となる。さらに名声を決定づけたのは、1938年の「愛染かつら」だ。看護士の高橋かつ枝(田中絹代)と医師の津村(上原謙)のメロドラマで、すれ違いによって2人が結ばれないストーリーが、「花も嵐もふみ越えて~」(旅の夜風)と歌われる主題歌とともに日本中を夢中にさせた。
1936年、松竹蒲田が大船に移転する。それに伴い、田中も大船に近い鎌倉山に転居した。近所には大臣などが住み、500坪の敷地に建つ家は「絹代御殿」と言われた。当時14歳だった高峰秀子は田中に可愛がられ、田中の家から撮影所に通ったという。
「……豪華で美しい日本家屋であった。そして人形のように小柄で華奢な彼女にふさわしく、巧緻な家具調度等はじめ、なにからなにまで優雅で、そして繊細だった」(高峰秀子著『わたしの渡世日記』文春文庫)。
田中は映画界に友人がいなかった。高峰との交流が唯一のやすらぎだったのかもしれない。
戦中の田中出演作品で、近年さらに評価が高まっているのが「陸軍」(1944年)だろう。戦時中、陸軍省は映画界に対し、国策映画の制作を要請していた。しかし、木下惠介監督はそれを逆手に取り、見事な「反戦映画」にしあげた。
息子が徴兵された母親(田中絹代)は、出兵行進が行われる日、自分は涙が出てしまうから行かないという。しかし行進の音が聞こえると心が動き、街中に飛び出す。ここからの10分間が圧巻だ。
カメラは息子を見つけようと群衆の中を走る田中をひたすら追い続ける。転んでは立ち上がりまた走る。ようやく息子を見つけると、その背中に手を合わせるシーンで終わる。言葉はほとんどなく、田中を追うことだけで死線に赴く息子を思う母親を表現している。ひたすら感動的だ。
戦後になってからも田中の人気は続く。しかし自分の後の若い女優たちの存在を常に気にかけていた。そうした中で、1949年、アメリカ映画界との交流が目的の親善使節の話が飛び込んできた。
無事に親善使節の役目を果たした約3カ月後、羽田空港に帰国した田中の姿に多くの日本人は驚く。サングラスに毛皮のコートで第一声が「ハロー!」。そして銀座をオープンカーでパレードし、歓声に応えて投げキッスをしたのだ。この振る舞いが新聞で報じられると、今でいう大バッシングが起こる。
当時はサンフランシスコ講和条約が締結される前で、日本はアメリカの占領下にあった。敗戦の傷の癒えない日本人を激怒させてしまったのだ。田中はひどく落ち込み、鎌倉山の家に籠もり崖から飛び降りようかとも考えたという。
そんな田中が見事に復活したのは溝口健二監督の作品だった。その高い芸術性と様式美は他の監督の追随を許さないが、この頃は田中同様に低迷していた。その溝口が用意した作品が「西鶴一代女」(1952年)だ。御所につとめる武家の娘が、恋愛騒動で追放された後島原遊廓に売られ、最後は夜鷹となり彷徨う流転の生涯を描いている。
溝口の得意なワンシーン、ワンショットの流麗なカメラワークが光り、田中も最高の演技をみせた。続いて出演した「雨月物語」(1953年)とともに、田中は溝口の手によって演技者として頂点を極めたのだ。
田中は若い頃から監督をすることを夢みていた。しかし当時は、女優が監督をすることに否定的だった。その代表的な存在が、田中を大女優の地位に押し上げた溝口監督だ。「田中の頭では監督はできない」とまで発言している。「自分の女優」が監督をすることへの嫉妬心もあったのかもしれないが、実は田中に長い間好意を持っていたのだ。
しかしその思いを伝えることはなかった。新藤兼人監督は溝口から直接「ぼくはね、田中くんに惚れているんだが、どうにもならなくてね、困っているんだよ」(新藤兼人著『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』)と告白されている。
そんな困難な状況に手を差し伸べたのが、小津安二郎監督だった。監督第1作の「恋文」(1953年)の評判が良かった田中の元に、第2作「月は上りぬ」(1955年)の話が小津から来たのだ。当時あった「五社協定」の縛りをはねのけて、小津は東奔西走したという。(五社協定=各社専属の監督、俳優の引き抜きおよび貸し出しの特例を禁止する申し合わせ。後に「六社協定」となり、1971年に消滅)
田中は生涯に6本の監督作品を残しているが、どの作品も古さを感じない秀作だ。今だったら、どんな作品を撮るのだろうか。
田中の女優人生で、最後に輝いたのが熊井啓監督の「サンダカン八番娼館 望郷」(1974年)だ。生活が苦しくて南方の島に売られた女性を「からゆきさん」と呼ぶ。女性史研究家の三谷(栗原小巻)は天草で知り合った老女・サキ(田中絹代)から「からゆきさん」だったこれまでの人生を聞くうちに、深い信頼感で結ばれる。
最後に2人が別れる時、サキは三谷が使っていたタオルを欲しいと願う。「これを見ておまえを思い出すから」と、タオルを握りしめて慟哭する姿は胸をうつ。それは田中自身が歩んできた別れや孤独な人生と、重なっているように見える。
田中は1977年3月に脳腫瘍で亡くなる。67歳だった。「人間の條件」3部作(1959~1961年)などで知られる小林正樹監督は、田中のまた従弟であり、入院から亡くなるまで田中に寄り添った。病院に行くと「座ったきりでも女優をやれるかしら」と女優としての執念を見せていたという(「文藝春秋」1989年9月号)。しかし、その頃の田中にはほとんど現金がなかったことがわかる。
秋晴れの10月、田中が長年住んでいた鎌倉山を訪ねてみた。鎌倉駅からバスで20分、「絹代御殿」のあった近くで降りる。田中は1949年、近所に3万坪の土地を購入しているが、貯金がなくなり晩年は切り売りしてしまったという。
最後に残った土地には今、みのもんた氏の家が建っている。そのみの氏も今年亡くなってしまった。
春は桜並木が有名なところだが、この時期は観光客もいなくて静かな場所だ。おそらく夜は深閑としていることだろう。田中はここで、ひとり孤独をかみしめて生きてきたのだろうか。小さな身体で坂道を一歩一歩上る背中がみえるような気がした。
稲森浩介(いなもり・こうすけ)映画解説者。出版社勤務時代は映画雑誌などを編集
デイリー新潮編集部

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