36年前に起きた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」。17歳の女子高生を40日間にわたって監禁し、性的暴行や集団リンチの果てに殺害。ドラム缶でコンクリート詰めにして遺棄するという残忍な手口は日本中を震撼させた。容疑者は当時16~18歳の少年たちだ。
【写真】女子高生はボストンバッグに入れられたうえ、ドラム缶でコンクリート詰めにされた
彼らの残虐性は家族や友人関係、環境などさまざまな観点から語られてきたが、少年犯罪を中心に40年以上ルポライター・ノンフィクション作家として活躍する藤井誠二氏が検証するのは、“ある仮説”だ──。
同氏の著書『少年が人を殺した街を歩く 君たちはなぜ残酷になれたのか』(論創社)より、一部抜粋して再構成。【全4回中の第3回。第1回から読む】
* * *「女子高校生監禁殺人事件」については、いままでにさまざまな論者や書き手がそれぞれの視点をもって表現している。家族、地域、性暴力、学校、友人関係など、裁判記録を土台にしながら、事件は多弁に語られた。かくいう僕も『少年の街』という1冊を上梓した。その本の構成は、加害者の少年たちが生活していた街にうごめく彼らと同世代の声を丹念に拾い、街の様相を絡め合わせながら、事件を記録したものである。
僕自身の仕事も含めて、この事件の報道に欠けていた視点がある。それは、以前から精神科医やドラッグ・アディクションの専門家から指摘されていたことなのだが、「薬物依存の視点が欠けている」という批判であった。事実、特に主犯格のAは事件を引き起こす2カ月前から、女子高校生を死に追い詰めていく過程に至るまで、いくたびもシンナーを吸引している。
僕はシンナーの介在はひとつの事実としては描いていたものの、その部分を専門家に聞くなどして掘り下げることはしなかった。この小稿では、東京・日暮里に本部のあるDARC(ダルク/ドラッグ・アディクション・リハビリテーション・センター)の代表である近藤恒夫氏に、当事件について僕が抱き続けている疑問を提示するかたちで検証を進める。
事件の概要だが、発覚は1989年3月。その前年の11月、アルバイトから帰宅途中の女子高校生を少年数人がだますなどして拉致、その後、40日間以上にわたって、少年自宅の自室に監禁。その間、強姦や輪姦、暴力行為を繰り返した。
筆舌に尽つくしがたい凌辱行為は凄惨を極め、女性から逃走する意志を奪い、日常生活が困難になるような状況に陥れた。 少年らは、食べ物や水さえほとんど与えることもしなかった。よって、女性は次第に衰弱し、死亡に至った。
彼らは、ドラム缶に遺体をコンクリート詰めにし、東京湾埋め立て地に遺棄した。実行犯とされ、成人と同じ扱いの刑事裁判に付されたのは、高校を中退したあと、定職についたり、つかなかったりの16~18歳までの少年たちだった。
まず、近藤氏に、事件を最初に知ったときの率直な感想を求めた。
「事件を聞いたとき、あれほど残忍なことができたということは、とてもシラフでやったんじゃないなって思った。シラフではない状態で女子高校生を凌辱したに違いない、と。人間はドラッグを使用したときに、普通じゃないことをやれるようになる。例えば、セックスなんかでも、クスリを使ってるときと、使ってないときとではぜんぜん違う。酒飲んでも、女性に対して、普段ならできないような異常なことをすることがある」
シンナーの介在は当初から予測できた、と近藤氏は言う。
「シンナーだろうなって感じはしてた。なにかを媒介しないとそこにグループはつくられない。暴走族だったらバイクだし、この場合はシンナーだろう、と」
近藤氏は、自身の体験やDARCの活動を通じて、シンナー依存の少年たちの行動や内面性に、一定の共通項があることを見いだしている。氏が僕に開陳したその論理は、当事件の展開と大筋において沿うものだった。
「一般的にいうと、シンナーを中学生ぐらいで覚えた子は、だいたい高校1年生でリタイヤする。その理由は、シンナーの持つ時間のスピードに関係している。使っているときの速さと、やめてからのかったるさの長さ──これに耐えられるか、耐えられないかということ。耐えられないと、高校に入学しても、授業を受けられない。そうすると、だいたい1学期で学校に行けなくなる。そして、2~3年次で昼夜が逆転してしまう」
この事件は、主犯格の少年に付和雷同的に、ほかの少年たちが引っ張られていった。主犯格の少年は柔道の選手であったため、喧嘩がやたらと強かったが、いったん怒りだすと、なにをしでかすかわからないという恐怖で支配していた。
「つまり、下の少年たちはそいつの陰に隠れるっていうか、安全地帯にいたというか、強い力の下にいるというのは居心地いいことだろう。きっと、主犯格の少年に、そういう強さはあったんだろう。リーダーシップっていうのか。グループを形成するのに、おれはこういうことができるっていう、なにかハッタリみたいなものをかます力というのか」
女子高校生を監禁し、ときどきクルマに乗せて町内を連れまわしたりしたということは、実行犯である数人の少年たちだけの秘密ではなく、彼らのすそ野にいた街の少年たちもその事実を知っていたことがわかっている。まるで、ギャング映画のワンシーンのようなことを実際にしでかし、虚勢をはるための道具に女性を利用したのである。
加害少年にとってのハクづけは、人より少しでも悪いことをすることだった。そうすれば、 一目置かれる存在になった。それが彼らの自己実現でもあり、勝ち取るべき価値だった。
「わかるような気がする。グループを形成したときには、普通だったら、こんなのおもしろくもねえって誰かが言えば、グループにならない。今回の場合は、誰かが自分より特技があるとか、違うところを持ってるとか、そういうところで敬われるわけではないんだから。
だから、やはり主犯格の彼はそういうふうにせざるをえなくなってきたんじゃないか。だんだん、教祖を演じるというか、そのためには普通のことをやってたんじゃ、教祖になれないからね。それは、少年の世界だって、大人の世界だって同じですよ」
そこにも、シンナーなどのクスリが関係している。
「彼は自分は万能感を持った人間であるということを信じ込んでいる。だから、まわりの人間はみんなバカだと思っている。これは薬物依存の共通した発想なんですよ。自分を正当化しなくてはならない。次第とそういうふうになってしまう。自分はなにも悪くないんだという。否認の変形と言ってもいい。
つまり、そうしてクスリを使える理由づけをどんどんつくっていくわけです。自分は正しくて、相手はバカだという、正しくないんだという。そういう論理が成り立たないといけなくなる。これは犯罪だとか、悪いことをやっているんだとか、そういう意識を最初は持っていたかもしれない。
でも、だんだんそれが大きくなってくると、正当化のために余計なことを背負うことになる。バカをつくんなきゃいけない。自分が神だと思っちゃう妄想を抱いたときにはそうなる」
(第4回に続く)
【著者プロフィール】藤井誠二(ふじい・せいじ)1965年愛知県生まれ。高校時代より社会運動にかかわりながら、取材者の道へ。著書に、 『殺された側の論理』(講談社プラスアルファ文庫)、『光市母子殺害事件』(本村洋氏、宮崎哲弥氏と共著・文庫ぎんが堂)、人物ルポ集として、『「壁」を越えていく力』(講談社)、『路上の熱量』(風媒社)、『「少年A」被害者遺族の慟哭』(小学館新書)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)、『死刑のある国ニッポン』(森達也氏との対話・河出文庫)、『沖縄アンダーグラウンド―売春街を生きた者たち』(集英社文庫)など著書・対談等50 冊以上。愛知淑徳大学非常勤講師として「ノンフィクション論」等を語る。ラジオのパーソナリティやテレビのコメンテーターもつとめてきた。