【原爆投下から80年】至近距離で被爆、「22度のがん」を乗り越え「原爆の恐ろしさ」を訴え続けた「兒玉光雄さん」の壮絶な人生

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広島に原子爆弾が投下されて、今年の8月6日で80年となる――。
【写真を見る】在りし日の兒玉さんと、語り継ぐ「8月6日」
今年も広島市の平和記念公園では、原爆死没者への慰霊と平和を祈念する式典が開催される。決して忘れてはいけない「あの日」、広島で何が起こったのか……世界で唯一の被爆国として、後世に語り継いでいかなければならない。
2020年10月28日、原爆の後遺症と闘いながら、その恐ろしさを伝える証言活動を続けてきた兒玉光雄さんが亡くなった(享年88)。
兒玉さんは、広島市中区にあった旧制広島第一中学1年生だった12歳の時、爆心からおよそ870メートルという至近距離で被爆した。307人の同級生のうち、復学できたのはわずかに19名だった。当初は原子爆弾と知らされず、被爆直後から脱毛や発熱、吐血といった放射線の影響が体を蝕んだ。兒玉さんは61歳になって大腸がんを発症、その後、胃、甲状腺、皮膚と、いくつものがんを患いながらも、原爆被害の恐ろしさを訴え続けた。
そんな兒玉さんの、壮絶な人生を描いた書籍がある。NHKディレクターとして番組制作で知り合って以来、兒玉さんへ取材を続けてきた、横井秀信氏の『異端の被爆者 22度のがんを生き抜く男』(新潮社刊)だ。
「地獄を見せつけられた原爆に、人生まで支配されるのはまっぴらごめん」と、あらゆる困難を克服してきた兒玉さんの人生が綴られている同書の中から、80年前の8月6日に何が起こったのか、紹介したい(引用はすべて同書より)。
原爆投下前日の8月5日、午後9時20分に警戒警報、その7分後には空襲警報のサイレンで寝入りばなをくじかれた。標的になることから電気を点けることは許されず、真っ暗闇の中で家族は息をひそめた。B-29は広島の上空を旋回しただけで去った。11時55分に空襲警報が解除。家族が再び床に入った午前0時25分、再び空襲警報。しかし、何も起きないまま、2時10分に解除となった。
迎えた8月6日。兒玉さんは眠い目をこすりながらの起床となった。同級生の土井隆義さんと会い「眠いのう」「アメ公め、わしらを寝かせんつもりじゃ。ほんに、憎たらしいのう」と会話しながら、学校へと向かった。
〈二人は空を見上げた。雲ひとつ見えない晴天で、太陽はまだ低い位置にあるのに、熱い日差しを投げかけていた。戸板駅から汽車に揺られ、広島駅に着いてからは徒歩であった。(略)しばらくすると、長いサイレンが響いた。警戒警報だった。
「どうする?」
どちらともなく、声をかけた。街のあちらこちらに掘られている防空壕に、身を寄せることを考えたのである。しかしそれでは七時半の集合時間に間に合わなくなってしまう。空襲警報ならともかく、警戒警報で遅れたとなれば、教員の鉄拳が飛び、同級生から笑われてしまうかもしれない。当時は、そんな空気だった。
「急ごう」
二人は、さらに歩を早めた〉
午前7時31分、警戒警報は解除された。「上空に敵機なし」というラジオ放送を確認した教員たちが、中庭にあつまった生徒たちの点呼を始めた。この日は空襲に備えて建物を壊して防火帯をつくる疎開作業にあたるとともに、学徒動員で中止となっていた授業の補習内容が発表されることになっていた。土井さんは歩いて疎開作業現場へ、待機組の兒玉さんは教室に向かった。
〈光雄の一六組は賑やかだった。生徒たちは時間割をノートに写し終えると、好き勝手に移動し、気の合う者同士で雑談にふけっていた。普段は軍隊式の礼儀作法に縛られている生徒たちも、教員や上級生の目のない教室で自由に振る舞っていた。(略)外の陽射しは時間とともに強さを増し、セミの声が重なり合ってエコーのように響いていた。そこに「ブゥー」という低音が覆い被さった。
「お、Bじゃ」
誰ともなく、声が上がった。B-29である。
「警戒警報もないのに、おかしいのう」
生徒たちは、敵機の出現に慣れてしまっていた。どんどん近づいて来るのが、音で分かった。
「おい、見に行こう」
何人かが、北側の廊下に向かった。他の教室からも何人か飛び出していったようである。「おおい、落下傘か何か落としたで」と叫ぶ声が聞こえる〉
この時、兒玉さんも同級生から外に行かないかと誘われる。椅子から腰を上げたとき、「どけ」「ええから、みせろや」と騒いでいる一団が気になった。学校に持ってきてはいけない雑誌、「少年倶楽部」を何人もの生徒が上か横からのぞき見していた。「わしにも見せてみい」と兒玉さんが一団に割り込んだ、その瞬間――。
〈右眼に黄金の火柱を見た〉
〈気を失ったようだった。口の中は脂ぎった泥を押し込められたような不快感で一杯だった。光雄はゴホッゴホッとむせると、胃の中の物を吐き出した。埃がもうもうと立ちこめている。咳と嘔吐が止まらなかった〉
朝だった教室が、夜のように暗くなっていた。校舎の屋根が落ち、自分はその梁と座面との間にできたわずかな隙間に挟まっているのが分かった。必死の思いで外に出ると、
〈空は、灰色に覆われていた。おぼろ月のように、一点だけが丸く、白く浮かび上がっていた。太陽のようであった〉
倒壊した建物に閉じ込められた同級生たちの声がする。助けようと木材を動かそうとするが、なかなかうまくいかない。やがて、少しずつ、あたりの様子が見えるようになってきた。兒玉さんは最初、自分の校舎だけがやられていると思っていたが、そうではなかった。
〈西の方からは、赤い炎が吹き出しているのが見えた。中国配電のビルの窓から上がる火の手だった。その先には、真っ黒な入道雲が、何かの意思を持った生き物のように、むくむくと湧き上がっていた。北の方に目をやると、デパートの福屋や中国新聞のビルがうっすらと見えた。一中から二つのビルまでは、一キロ近くある。間の建物がすべて消えてしまっているらしかった。光雄の背中を冷たい物が走り抜け、思わず身震いした。
「どうなっとるんじゃ。一中だけじゃない、広島中がやられとるぞ」〉
同級生たちの無残な姿も飛び込んでくる。落ちてきた梁に頭を割られ、どす黒い血とともに薄紅色の脳が流れ出したまま絶命しているもの。首のあたりから大量の血を流し、何かを言おうとしているのか、喉がゼロゼロと鳴くもの――。
助けを呼びに駆け出した兒玉さんは、さらなる惨状を目の当たりにする。
〈ぼんやりと何人かの人影が見えた。様子がおかしかった。皆、膝と腰をかがめ、すり足のような格好で歩いている。両手は前腕を持ち上げ幽霊のように突き出していた。呼び止めようと近づいた光雄は、その姿に息をのんだ。顔は焼けただれ、皮膚が溶けた蝋(ろう)のように流れ落ちていて、瞼の皮はぶら下がり、薄目を開けたようになっていた。帽子を被っていたあとなのか、布に隠れていた部分だけ髪の毛が残り、帽子の線より下はカミソリで剃り落としたように一直線に毛がなくなっている。唇は腫れ上がり、めくり上げたように大きくなっていた。顔全体が膨張し、細い目と鼻の穴と、真っ赤な大きな唇が並んでいる。皆似たような風貌になっていた〉
〈持ち上げている両腕は、肩の辺りから指先に向けて、生皮を剥いだように中の肉がむき出しになり、血と分泌液が流れ出ていた。腕の下には、着物の袖のように、溶け落ちた皮がぶら下がっていた。爪の先にも、皮膚がぶら下がり、動きに合わせて紙のようにふらふらと揺れていた。上着やズボンは黒く焼け焦げているだけでなく、強暴な力で引っ張られたように切れ切れの布になっていた。頭からつま先まで、無事なところはどこにもなかった〉
同じように焼けただれた人たちが姿を現し、中には兒玉さんと同じクラスの者もいた。彼らが目指した場所は……そして、そこで繰り広げられた痛ましくも、悲しい惨劇とは……。
奇跡の生還を果たした同級生たちとの交流や、22度のがんを克服した兒玉さんの生きざまなど、詳細は前掲書を読んでいただきたいが、被爆から80年、著者の横井氏に改めて話を聞いた。
「NHKでは今年、兒玉光雄さんの被爆体験を映像化したバーチャルリアリティ(VR)を制作しました。兒玉さんが残した手記や、彼の証言をもとに描かれた『原爆の絵』を参考に、当時12才の少年が見た惨状を、360度で映像化しました。賑やかな教室のひとときが閃光とともに一変し、焼けただれた同級生や、全身にガラス傷を負った友人たちと対面していく様子が、兒玉さんの肉声で伝えられていきます。技術的な限界もあり、制作に協力して下さった被爆者の感想は『まだまだ、こんなものではなかった』というものでした。もとより、あの惨状を再現することは不可能だと考えています。それでも、一人でも多くの人に、兒玉さんの思いや言葉が伝わればと思い、制作しました」
若い世代は、このVRをどう受け止めるのか――。8月10日、NHK総合で放送する「戦争をどう伝えていくか」の中で詳しく紹介するという。また、8月1日から31日まで、広島市の追悼平和祈念館や、埼玉県川口市のNHKアーカイブスでVRを視聴できる(13歳以上)。NHKのサイトでも動画で視聴することが可能だ。
「被爆80年の夏に、あの日広島で起きたことに想像を膨らませていただきたいと考えています」(横井氏)
デイリー新潮編集部

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