「アディーレ法律事務所」事件防げなかった異常さ

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殺人未遂容疑で逮捕された渡辺玲人容疑者(右)(写真:時事)
【図表を見る】身体的な攻撃を伴うパワハラの割合はどの程度?
7月1日、アディーレ法律事務所(以下「アディーレ」)で、従業員の渡辺玲人容疑者(50)が同僚の芳野大樹さん(36)を殺害するという事件が発生しました。渡辺容疑者は、東京・池袋の高層ビルの31階にある事務所の中で刃物を振り回し、芳野さんの喉を複数回刺しました。渡辺容疑者は「人間関係のトラブルがあった」と供述しています。
今回のように殺人事件にまで発展することは稀ですが、人が集って一緒に働く職場では、人間関係に絡むトラブルが付きものです。企業では、従業員による暴力沙汰にどう対応しているのか、また今回の事件についてどう思っているのか、大手企業の人事部門担当者にアンケート&ヒアリング調査をしました。
暴力沙汰についてまず、「以前と比べて職場で暴力沙汰が増えていますか?」と質問したところ、「報告件数は増えている」とする回答が多くありました。
「セクハラ・パワハラやSNSでの誹謗中傷といった事案は日常茶飯事ですが、暴力沙汰も少しずつ増えています。コロナ前は年に1件あるかないかだったのに、コロナ後は毎年1~3件報告されるようになっています」(小売り)
「以前は、宴席で酔って喧嘩になってケガをさせてしまったといった話が大半で、『アホなやっちゃ』と笑っていました。しかし最近は、就業時間中、職場内で明確な意図をもって暴力に及ぶというケースがたまにあります。報告件数が増え、笑っていられなくなっています」(電機)
一方、「暴力沙汰は、実質的には増えていないのでは?」という見解がありました。
「暴力沙汰の報告件数は増えています。ただ、上司から叱責された際にちょっと肩を叩かれた、といった軽微なものばかりで、事件性のあるものはゼロです。暴力沙汰が増えているというより、気に入らないことがあったら何でもぶちまけるという最近の風潮を反映しているだけだと思います」(物流)
ということで、暴力の実質的な被害がどこまで深刻化しているかは不明ですが、職場での暴力沙汰の報告件数が増え、人事部門として無視できない問題になっていることは伺えました。
「暴力沙汰がSNSで拡散すると、実態がどうであれ、新卒・中途の採用に大きく響きます。また、従業員も動揺し、モチベーションが低下します。人事部門としては、この問題に強い危機感を持っています」(金融)
「仕事の世界におけるハラスメントに関する実態調査2021」日本労働組合総連合会調べ
では、増加する職場での暴力沙汰に、人事部門はどう対応しているのでしょうか。多くの人事部門担当者が、「事件が発生してからでは遅い。未然に防ぐことが大切」と力説していました。
「以前は暴力沙汰があっても、職場の管理職や人事部門が間に入って仲裁すれば、ちゃんと丸く収まりました。しかし、最近は仲裁する前に、被害を受けた従業員がSNSで即座に大袈裟にぶちまけます。発生してしまったら、もはや処置なしですね」(エネルギー)
では、人事部門はどのような事前の対策をとっているのでしょうか。大きくは次に挙げる4つの対策があるようです。
ルール化・厳罰化
「就業規則の総則部に最重要項目の一つとして記載しています。またハラスメント行為を懲戒解雇・諭旨解雇の懲戒条項の一つにしており、実際に起こった場合には懲戒処分とし、戒めのため社内へ情報展開しています」(素材)
職場の実態調査と個別ケア
「暴力沙汰やハラスメントは、人間関係が悪化している職場で頻発しています。エンゲージメントサーベイやストレスチェックを実施し、とくにスコアの悪い職場では、管理職に個々のメンバーを丁寧にケアするよう指示しています」(化学)
通報窓口の設置
「当社ではパワハラ通報窓口で、パワハラだけでなく、暴力沙汰などあらゆるトラブルを通報できるようにしています。通報を受けて外部専門家が迅速に対応すれば、それ以上に話が大きくなることはありません」(商社)
当事者の異動
「誰と誰が仲が悪いとか、相性が合わないといった情報が、人事部門にも入ってきます。やはり当事者同士の接触を減らす、なくすというのが一番。まずは職場の中で担当替えするなど対処してもらい、それでも収まらない場合は当事者を他部門に異動させます」(素材)
このように、人事部門担当者は、暴力沙汰の問題にどう対応するべきか、かなり明確な答えを持っているようです。
「暴力沙汰やパワハラが起きるとき、ほぼ例外なく、職場の他のメンバーが容易にわかるくらい人間関係が悪化しています。職場の状態をちゃんと把握していれば、たいてい未然に防ぐことができます」(輸送機)
「暴力沙汰の問題は、原因もやるべき対策もはっきりしています。実際に我々がちゃんと対応できているかどうかは別にして、人に関するさまざまな問題の中で、そんなに難易度が高い問題だとは思っていません」(IT)
となると不思議なのが、今回アディーレが事件を未然に防げなかったこと。
多くの人事部門担当者が事件について、「不明点が多いので断定的なことは言えませんが」と前置きしつつ、「事件を防げなかったのは、まったく不可解」(商社・輸送機・エネルギー・IT)と感想を漏らしていました。
渡辺容疑者は、以前から芳野さんに強い殺意を持っていたようで(「殺そうと思ったわけではなく痛みを味わわせたかった」と供述していますが)、6月上旬に「人を刺して刑務所に行く」と知人に話し、知人から連絡を受けた渡辺容疑者の父親が警視庁四谷署に相談していたことが判明しています。
これだけの騒動があれば、アディーレも事情を把握していたはずです。仮にアディーレが事情を知らされていなかったとしても、人事部門担当者が渡辺容疑者と芳野さんの人間関係の悪化に気づいたはずです。
仮に人事部門担当者が気づかなくても、職場のメンバーが気づいたはずです。気づいたら、人事部門に知らせるか、ホットラインで外部専門家に通報するはずです(ホットラインの社外窓口を請け負うことが多い法律事務所では、社内でもホットラインがちゃんと機能しているはずです)。
人事部門担当者が渡辺容疑者の異常を知ったら、渡辺容疑者を出社停止にするか、芳野さんを別のオフィスに異動させるといった対応をしたはずです。そうすれば、今回の事件は起こらなかったはずです。
こうした多くの「はず」が「はず」のままで終わり、痛ましい事件になってしまいました。この状況について、アディーレの組織の体質を問題視する意見がありました。
「人事部門も職場のメンバーも、渡辺容疑者の異常に無関心だったということでしょうかね。当社では、ちょっと考えられません。どの会社でも起こり得る事件というわけではなく、ちょっと異常な体質の会社でしか起こらない悲劇だと思います」(精密)
アディーレのように、当たり前の「はず」が「はず」のままであり続けるということがないでしょうか。企業関係者は、改めて組織の体質を見直したいものです。
(日沖 健 : 経営コンサルタント)

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