「障害は個性」は実はすごく冷たい言葉…全盲のお笑い芸人が「ちょっと鬱陶しい」と感じる相手のリアクション

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※本稿は、濱田祐太郎『迷ったら笑っといてください』(太田出版)の一部を再編集したものです。
俺はいままで、“障害”っていうものを“個性”だと思ったことは1回もありません。
「障害は、“泳ぐのが得意”とか“歌が下手”と同じようなもので、その人の持っている特徴のひとつに過ぎません。だから“個性”なんですよ」
こういう言葉が一時期よく言われていました。
まず、この時点で違和感があります。その“個性”が生まれた経緯を考えてみてください。泳ぐのが得意な理由はその人がめっちゃ努力して上達したからかもしれないし、音痴の原因はもともとのセンスによるものかもしれません。
それで言うたら、俺が視覚障害である理由をたどると、先天性緑内障って病気です。この病気の症状は、眼圧が上がったり、それによって周りの組織が傷ついたりするというもの。その結果として視力が失われていきます。
多分ほとんどの障害の原因をたどっていったら、事故や病気がきっかけだと思います。だから俺は障害っていうのは“症状”だととらえてる。そこには“個性”に該当するようなものはなにもないと思うんですよね。“症状”を“個性”って言葉に置き換える必要なんてまったくないと思う。症状は症状でいいし、障害は障害でいい。
“個性”って言いたがる人たちは「障害というとマイナスなイメージを持たれがちだから、ちょっとでもプラスのイメージを浸透させたい」って考えてるんだと思います。「障害も個性のひとつなんや。マイナスに思う必要なんてないんや」って思わせたい。多分、テレビとかから広がっていった言葉なんでしょうね。
先天性緑内障自体が命に関わることはほとんどありません。視覚障害の方が駅のホームから転落して電車と接触して命を落とされるようなことは珍しくないけど、直接的にこの病気で亡くなる人は多分ほぼいない。だけど“症状”として障害を持つ方の中には、その原因になった病気が命に関わるものである方だっているわけです。
俺の中で「障害は個性」っていうのは、その病気そのものを“個性”って言ってるのとイコールです。命に関わる病気にかかってる人に対して「それはあなたの個性ですよ」って言えるかな? と考えたら、俺はとてもじゃないけど言えないし、言うべきじゃないと思う。
この話をここまで読んでくれた人が「あれ?」って、“個性”って言葉を口に出そうとしたときに喉のあたりでなにかつかえるとか、“個性”って言葉がグニャグニャしてきてるような感覚になってくれてたら、俺の言いたいことが少しでも伝わってるのかな。
「障害は個性」と思ってる人を批判するつもりはないし、そう思う人は思ってていいです。実際に「目が見えないことは濱田さんの個性ですよね」って言われたときも、「いやいや、障害は個性じゃないですよ」って言い返しはしませんでした。
でも自分が誰かに「障害は個性ですよ」って言うのを想像したら、強いためらいがある。やっぱり、これはものすごく冷たい言葉やと思います。
ただ、最近はあんまりこの言葉を聞かなくなった気がします。ここから先は俺の完全な想像だし、ものすごく下世話なことを言いますね。
なんで福祉番組やインタビューなどで「障害は個性」って言葉が使われるようになったかといったら、さっき言ったように「障害に対してちょっとでも明るいイメージを持たせたい」ってところから始まったはずです。それを言わなくなってきたのは多分、そう表現する旨味がなくなったからだと思います。
言いだしたときは「そういう考え方があるんや」って注目された。それを言ってるのが番組やったら観てくれる人が増えるし、団体や人物だったら応援してくれる人が増えるわけで、そういう表現を使うことにものすごく旨味があったと思う。でもいまはもう世間一般にその捉え方が広まったから、それを言うだけじゃ注目を集めるまではいかなくなってきたんじゃないでしょうか。
これは別に障害に関する話に限ったことじゃなくて、どのジャンルでもそうだと思います。注目を浴びる表現、目新しい考え方が常に求められていて、どんどんどんどん変わっていく。そういうもんですからね。
4年ぐらい前から1人でやっているYouTubeなんかでは、こういう話を結構してます。
以前にインタビューで「シリアスな話題で共感を集めると、芸人としては笑われづらくなるジレンマがないですか?」と聞かれました。でも俺としては、ただただそのときしゃべりたかったことをしゃべってるだけです。それを聞いた人から「シリアスすぎて受け止めきれない」とか「笑いづらい」とか思われようがあんまり関係ない。「同情するなら勝手にしてください」と思います。
正直、真面目な話もそこまで真剣に考えてしゃべってないというか、“真面目にしゃべってるというギャグ”みたいな感じです。「なにこいつ真面目なことしゃべってんねん」って自分に対するツッコミ込みでやってます。あと、YouTubeなんで、そういう話題について真剣な感じでしゃべったほうが注目されて再生回数伸びるんちゃうか? って下心もちゃんとあります。
芸人になったばっかりの頃は、お客さんからどう見られてるかを気にしてました。
「あんまり障害に関して踏み込んだネタをしないようにしよう」「ラジオでもそういう話はなるべく避けよう」
そう考えながらしゃべってた。でも2020年ぐらいにYouTubeやTwitter、stand.fm(ラジオ配信アプリ)を始めて、自分の思ったことを自由にさらけ出せる場所が確保できてきてから少しずつ考え方が変わっていきました。
その前は世間との距離感が「劇場でネタをやる・トークする」「テレビでネタをやる・トークする」の2つしかなかったわけです。劇場に観に来てくれるお客さんとの距離感、テレビの向こうにいる視聴者との距離感しかなかった。でもSNSやYouTubeは、それぞれによっていろんな距離感の人がいる。その反応を見たり聞いたりしているうちに
「相手がどう受け止めるかは結局、自由やしな」「どう思われるかは知ったこっちゃないな」
と思えるようになってきました。
福祉系の団体の営業に行ってネタをしたりトークをしたりすると、来てくれたお客さんから「感動しました」「勇気もらいました」ってたまに言われます。
若手の頃は内心「いや、俺がやってんのはお笑いやねんけどなぁ」と思ってました。でもいまは、これもどっちでもいいです。どう思ってもらっても別にかまへん。たまたまその日その人が見た俺のおしゃべりがそうだったってだけで、YouTubeラジオでもさかのぼってもらえたら、とてもそんなふうには思えないだろうトークもいっぱいしてますからね。
なにを思ってもらうのも自由やけど、ちょっと鬱陶しいのは、トゲがあったりマイナスな方向のオチだったりする話に対して「でもそういう苦労があったからいまがあるんですよね」って無理やりポジティブな方向で受け止められるときです。
いや、わからへんやんけ。その苦労がなかったらもっとええ人生を送っていたかもしれへんやん。それはただの可能性の話やろ。そういうふうに思います。
相手としてはフォローのつもりで言ってくれてても、言われたほうからしたらちょっと鬱陶しい。まぁネガティブな話ばっかりされたら「暗くて聞いてられへんわ」って思う気持ちもわかるんですけどね。それはそれで鬱陶しいから。
たまに「講演会をやってくれませんか?」って依頼をもらっても、そのまま引き受けることがないのは似たような理由です。
これは完全に俺の勝手なイメージで、講演会って、真面目な話や苦労話から入っていって、最後のほうでは家族や周りで支えてくれた人たちのことを絡めて感動させて……みたいなトークが求められてそうじゃないですか。そういう話はするのも聞くのもまだ鬱陶しいなって思っちゃうんですよ。
だから講演会の仕事が来たときは「タイトルを“お笑いライブ”とか“お笑いトークショー”にしてもらえるなら引き受けます」と答えてます。“お笑いトークショー”で俺がしゃべったことを、来た人がどう受け取るかは自由。講演会と同じような受け止め方をしてもらっても構いません。
でも、こっちから発信するものとしてはあくまでも“笑い”だって、タイトルから伝えておきたいんです。
最近は「ある程度年齢がいったら、そっちの方向に行くこともあるだろうなぁ」とは思うようになってきました。でもやっぱり、30代中盤のいまはまだ全力でお笑いをやっていたいです。
そうそう、『R-1』の決勝でも言った「どっちか迷ったら笑っといてくださいね」は、この数年は舞台で言わなくなってます。だんだんとあれが「面白い」じゃなく「いい言葉やな」って、“感心”の方向でとらえられるようになってきたのが鬱陶しくて。それだと笑いにならないんですよね。俺は別に感心してもらうためにネタやってるわけじゃないんで。
だけど営業に行った先で担当の人から「あの言葉、好きなんです。今日言ってもらえるとうれしいです」って言われたら「わかりました!」って、すぐ言います。お金をいただいてるんで(笑)。
———-濱田 祐太郎(はまだ・ゆうたろう)お笑い芸人1989年9月8日生まれ、兵庫県神戸市出身。吉本興業所属。2013年より芸人として活動を開始し、『R-1ぐらんぷり2018』(カンテレ・フジテレビ系)にて優勝。現在は関西の劇場を中心に舞台に立つほか、テレビやラジオなどでも活躍。2025年5月には吉本新喜劇とのコラボ舞台で主演を務める。レギュラー番組に『オンスト』(毎週金曜日/YES-fm)。———-
(お笑い芸人 濱田 祐太郎)

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