第1回【児童と教諭23人を殺傷した附属池田小事件「宅間守」 捜査員が逮捕後3日間の“姑息な演技”を見破った“一瞬の反応”】を読む
2001年6月8日、午前中の小学校に侵入した男が出刃包丁で複数の児童と教員を殺傷した「附属池田小事件」。現行犯逮捕された宅間守(37=当時)は、第一審の死刑判決に対する控訴を自ら取り下げ、死刑を確定させた。だが、供述調書を入手したジャーナリストの今西憲之氏によれば、宅間は逮捕後の3日間、精神障害を装う演技を続けていた。
捜査員が宅間の縁起を見破るきっかけまでを伝えた第1回に続き、第2回ではついに「落ちた」宅間の心情などを伝える。
(全2回の第2回:「週刊新潮」2005年6月16日号「1200枚の『供述調書』が語る池田小『宅間守』自白までの3日間」を再編集しました)
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【写真】附属池田小事件から「7年後の同じ日」に発生した無差別殺傷事件とは
「罵声が聞こえた瞬間、宅間の表情が一瞬、ピクリとした。おそらく、声に反応してムッとしたんや。なんや正常な男やないかって思いました」(捜査員)
大阪地裁から戻った宅間に対し、捜査員はそれまでの態度を一変させて、厳しい追及をはじめたのだ。机を叩き、「お前」「こらっ!」「ほんまは病気やないやろ」と口調が変わり、責めたてるシーンもあったという。
1時間、2時間と経過した頃、宅間は、自分の頭を壁にドスンドスンと打ちつけた。その後しばらくして、涙を流し、「やりました」とつぶやいたのだ。
このシーンの心境は供述調書にはこう書かれている。
〈私のやった事件のことを認めて、話をした途端何故か分かりませんが、急に涙が流れ出てきて止まりませんでした。この涙は、事件を後悔してのために出たものではありません。精神病を振る舞っているようにしていたことを、最後まで押し通すことができなかったという悔しさから出た悔し涙であったのです〉
〈刑事さんに厳しく追及されて、これ以上嘘をつき通せないと苦しくなって、自分で壁に頭を打ち付けたのです。こんな行動をとれば、精神病だから異常なことをするんだと思わせる為にしたのです。しかし、それも見破られてしまい、これ以上は嘘をつき通せないと諦めて、精神病を装うことをやめたのです。そして私は、刑事さんに死にたくないと本当の気持ちを話しました〉
怪物・宅間はこの瞬間に「落ちた」のだ。
以後、宅間は素直に自供し、連日、供述調書が作成されるようになったという。例えば、6月13日付の2つの供述調書は、合わせて35ページにも及ぶ極めて長いものだった。
〈きちがいの真似をするために口を半開きにしてボーッとしていたり、視線が定まらないような目をわざとしていたのです。これが私の本来の顔です〉
と、宅間はカミングアウトし、自らの生い立ちや経歴から、小学校時代にどうやって友達をいじめたか、自殺した兄、4度の結婚と離婚、借金や前科までを供述している。だが、それでも事件当日の池田小学校での行動については、口が重く、あいまいな供述に終始していた。
「精神病の知識や、大嫌いだった自分の父親のことなど、喋りたいトピックには実に積極的やった。けど、肝心の事件のことにはなかなか触れなかった。『覚えてない』『知らん』というばかり」(捜査員)
ようやく6月16日付の供述調書からは事件の動機に触れているが、たった20ページ分程度しか喋らなかったのである。
捜査員は、「怖さがあったのか、思い出したくないような素振りもあった」と当時を振り返る。それを捜査員が懸命に説得し、宅間の後悔や愚痴を聞き、お茶やコーヒーをふるまって2週間……。6月20日の供述調書で、ついに宅間はこう切り出した。
〈大阪教育大学附属池田小学校に侵入し、教室内に入って出刃包丁を取り出したところまでは話していましたが、殺人を実行しだしてからは、無我夢中で詳しく覚えていないと話していました。自分がやってしまった行為の恐ろしさを直視するのが怖かったのです。しかし、刑事さんから自分の後梅の話ばかりで、いつになったら子供達の事を考えられるんやと言われた。自分の苦しみを何の関係もない子供達の命にぶつけてしまった事に心からお詫びしたい気持ちになれたのです〉
以後の供述調書には、数百ページに亘って、犯行の状況が写真とともに克明に記録されている。
そしてその中には、嘘か真か、公判では微塵も見られなかった悔悟の念のような言葉も見つけることができるのだ。
〈前に話したときには、やはり心の中のどこかに事件をやったということを認めているのだから、はっきりと思い出すことは必要無いのではないか、また、事件の詳しい状況を思い出すことによって、恐怖感がよみがえるのではないかなどという考えがあった〉(6月30日付供述調書)
〈私が覚えていることを説明することは、私が殺した子供達への供養にもなると考えて、現場に行くことに応じました〉(7月3日付供述調書)
むろん、裁判での態度を見ていれば、これをストレートに受け取ることはできない。なぜならば、同じ調書の中でも、〈できるだけ多くの子供を殺してやる気でやっていますので、邪魔しに来る大人は、殺してやる気なのです〉と言い、最後には、〈殺した人数は私が望んでいた数よりは、少なかった〉とうそぶいている。
事件から3カ月後の9月13日、大阪拘置所に移管された宅間は、検事から数十回目となる調書を取られた。そこで彼が語ったのは、逮捕直後の3日間を忘れたかのような強がりだ。
〈自分の人生を悲観して自殺しようとしたのですが、それも遂げられませんでした。私は何もかもがじゃまくさくなりもう無茶苦茶やってやろうという考えになったのでした。私自身積極的に死刑になってやろうとまで言うような気持ちまではありませんでした。しかし、たくさんの人を殺すような大変な事件を起こす以上は死刑になることは当然覚悟していました。私としては、1人や2人殺して数年間服役するという中途半端な結果になるよりは、出来るだけたくさんの人を殺して死刑になったほうがよいという気持ちがあったのでした〉
昨年9月(編集部注:2004年9月)、大阪拘置所で死刑を執行され、怪物・宅間はこの世を去った。
おそらく拘置所内の彼にとって意外だったのは、女性から求婚され、結婚できたことだろう。獄中結婚した30歳代の妻は、絞首刑のローブの跡が首にくっきり残る宅間の遺体にすがりついて号泣し、一晩、遺体の横に布団を敷いて、添い寝をしたという。
宅間の骨を4つの骨壺に入れて、火葬場からすべて持ちかえった妻は、近く、海の見える自分の故郷に、宅間の墓を立てるつもりだという。
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「この空白の3日間が勝負やったんや」――。第1回【児童と教諭23人を殺傷した附属池田小事件「宅間守」 捜査員が逮捕後3日間の“姑息な演技”を見破った“一瞬の反応”】では、逮捕後3日間に亘る宅間の“演技”について伝えている。
今西憲之(いまにしのりゆき)1966年生まれ。大阪を拠点に週刊誌などで取材・執筆活動を展開。著書に『私は無実です 検察と闘った厚労省官僚村木厚子の445日』『原子力ムラの陰謀』など。
デイリー新潮編集部