常磐線“ナゾの終着駅”「取手」には何がある?

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

上野発の夜行列車はとうの昔になくなって、常磐線の特急も品川始発になってしまったけれど、上野始発の電車が完全になくなったわけではない。いまもまだ、常磐線を中心に普通列車が上野始発で走っている。
【画像】常磐線“ナゾの終着駅”「取手」を写真で一気に見る
もう少し具体的にいうならば、昼間の上野始発の常磐線は毎時3本。そのうち1本は我孫子駅から成田線に入って成田行きで、もう2本は取手行き。
取手駅は地下鉄千代田線から直通する電車の終点でもあるから、地下鉄ユーザーにとっても名前ばかりは何度か見聞きしたことがあるに違いない。
つまりこの取手という駅は、上野始発の終着駅であり、また同時に地下鉄千代田線の行き着く先の駅でもあるというわけだ。言い換えるなら、“首都圏の端っこ”といったところだろうか。
常磐線“ナゾの終着駅”「取手」には何がある?
そういうわけで、取手駅にやってきた。首都圏の端っこ、取手駅はいったいどんな駅なのだろうか。
取手駅は、上野駅を出てから北千住、松戸、柏、我孫子といった駅を過ぎた先にある。こう書くとだいぶ遠くにあるんじゃないかという気がしてくるが、所要時間は上野駅から40分程度。東京駅から中央線快速電車に乗ったら三鷹駅を過ぎたあたりだから、それほど遠いわけではない。

取手駅に着く直前、電車は大きな川を渡る。言わずもがなの、利根川だ。利根川は千葉県と茨城県の県境でもある。
つまり取手駅は茨城県に入って最初の駅というわけだ。それも利根川を渡った土手からそのままの高さで続けてホームに入るから、利根川とまるで一体化しているような駅。
ここで常磐線の複々線も終わるし、直流電化区間も終わりを告げる。茨城県の入口という点を含めても、まさに“首都圏の端っこ”にふさわしい駅なのだ。
電車を降りたらまずは人の流れに乗っかって、ホームの中ほどにある階段を登って改札を抜ける。常磐線の改札の脇には関東鉄道常総線の改札も設けられている。
関東鉄道常総線は取手を起点に北に向かい、守谷・下妻などを経て下館までを結ぶローカル私鉄だ。鬼怒川沿いの田園地帯を走り、右手には筑波山を望む。いつか乗ってみたいとは思うが、今回は寄り道している時間はない。そのまま取手駅の外に出よう。

と、そんな橋上の改札を抜けた取手駅の駅ビルには、JR東日本の駅ビルではおなじみのアトレが入っている。そしてそのまま西口の駅前に向けて、ペデストリアンデッキに通じている。これだけを取ってみれば、なかなか立派な地方都市のターミナルといったところだろうか。

駅ビルのアトレは1988年に「ボックスヒル取手」としてオープン、2020年にアトレにリニューアルした。だからいささか年季を感じる駅ビルではあるけれど、アトレが入っているくらいなのだから立派なものだ。
ペデストリアンデッキの向こうでも何やら商業ビルにつながっている。「リボンとりで」という商業ビルのようで、1階に入っている西友がキーテナント。

こちらももともとは違う施設で、1985年にオープンした取手とうきゅう。つまり東急ストアのビルだった。しかし2010年に閉店してしまい、その後に西友を核としてリボンとりでにリニューアルしたという。
3階や4階にはこまごまとした店舗が入っているのだが、2階はパチンコフロア。このあたり、駅前の超一等地の商業ビルとしては少々寂しさを感じてしまう。これが地方都市の現実でもあるということなのだろう。

もうひとつ言えば、西口のペデストリアンデッキの北側には、広大な空き地が広がっている。造成途中でこの後開発されるのだろうことはわかるのだが、数年前に取手に来たときもまったく同じ風景だった。
取手市のホームページを調べると、どうやら図書館を中心とした複合公共施設になりますよ、ということらしい。それが完成すれば、西口駅前ももう少し賑やかになるのだろうか。
ペデストリアンデッキの正面からは、まっすぐ西に向かって目抜き通り。道沿いには金融機関などもあるが、すぐに国道6号との交差点。国道の北側を見れば、ロードサイドに飲食店などが集まっているのが見える。クルマ通りも多いし、むしろこちらの方が駅前よりも賑やかなのだろうか。

国道6号を反対に南に下れば、すぐに大利根橋で利根川を渡る。もちろん常磐線と同じく、利根川を渡れば向こうは千葉県だ。この茨城県内に入ってからの国道6号は、1960年代に開通したいわば旧道のバイパスにあたる。
だから取手駅西口もそれ以降に整備された新しいエリアなのだろう。それ以前はいわば“駅裏”。取手の町の中心は、実は西口ではないようだ。

ならば、駅の東側に出なければならない。
といっても、取手駅に戻っても自由通路があるわけではないから、他のルートで東口を目指す。駅の南北にもホームの下を潜る通路や地下道があるのだが、それではちょっとつまらない。駅前から「リボンとりで」の脇を抜けて、川沿いの道から取手駅東側に出てみよう。
利根川沿いの県道11号を歩いてガードを潜ると、老舗の旅館やビジネスホテル。その先は商店街のようになっている。
いかにも老舗と思しき造り酒屋や豆腐店などがあって、呉服店の類いも目に留まる。街灯の上には「本陣通り」と書かれた旗が掲げられていた。本陣、つまりかつて宿場町がこの一帯にあったというわけだ。

水戸街道取手宿。それが取手の町のはじまりだ。
明治の半ば、まだ常磐線が開通していない頃に俳人の正岡子規が取手を訪れている。そのとき見た取手の町について、「今迄にては一番繁華なる町なり。処々に西洋風の家をも見受けたり」と『水戸紀行』に書いている。
まだ鉄道も通っていないような地方都市に西洋風の家があるというのは珍しい。どうやらその頃の取手は、なかなかの“都会”だったようだ。
それもそのはず、取手は江戸時代から幕府公認の河岸が置かれ、物資の集積地として相当に栄えていた。銚子の港に着いた東北諸藩の蔵米や水揚げされた海産物は、利根川を上って千葉県最北の関宿で江戸川に移り、そのまま江戸の町まで運ばれた。
取手はそんな物流の大動脈と水戸街道が交差する要衝の地。それが賑わわないはずもなかろう。

明治に入ると蒸気船が利根川にも就航し、新たに開削された利根運河などを通じて東京とも結ばれる。取手もとうぜん蒸気船の拠点のひとつになった。
正岡子規が「一番繁華なる町」といった取手は、ちょうどそうした時期のこと。そしてそうした歴史を含んだ町並が、取手駅の東口、利根川沿いの旧水戸街道を中心に息づいているのである。
こうした歴史を知れば、取手駅の古くからの“正面”がペデストリアンデッキのある西口ではなく東口だということがわかるだろう。本陣通り、つまり水戸街道から脇道を入り、大師通りと呼ばれる路地をゆく。道沿いには実に味わいのある酒場が並ぶ。このあたりは取手の小さな歓楽街といったところだろうか。

大師通りを北に抜ければ、芸大通りと名付けられた東口の目抜き通りへ。芸大通りの名はこの道をずーっとずーっと歩いて行った先の利根川河畔に東京藝術大学のキャンパスがあるからだ。
駅前にはおなじみビジネスホテルの東横インもあるし、飲食店などが入った雑居ビルもある。
近くには取手一高、取手二高とふたつも高校がある。ちょうど訪れたのが中間テストの最中だったのかどうか、昼過ぎの取手駅前は高校生たちで溢れていた。ガードを潜って西口に向かう高校生もいれば、そのまま取手駅から電車に乗る高校生もいる。
ホームの下に位置する取手駅の東口はいくらか年季を感じるものの、取手の正面玄関らしく堂々たる雰囲気も湛えている。これほどの高校生が出入りする駅ならば、町から活気が消えることもなさそうだ。

さすがに近年こそ減少傾向にはあるものの、戦後の取手は1990年代まで人口が右肩上がりで増えていた。常磐線の複々線化、地下鉄の直通といった鉄道網の整備、そして茨城県内初の公団アパートの建設なども相まって、首都圏のベッドタウンに組み込まれたのだ。
いわゆる“いばらき都民”が暮らす町。かつての川港から脱却し、新しい性質の都市へと生まれ変わったのが、戦後の取手なのである。
いまは、夕方になると取手駅から千代田線・小田急線直通の電車も出るようになる。取手から東京の真ん中・大手町までは約1時間。遠いか近いかは人それぞれだが、のどかさとほどよい活気と歴史の詰まった取手駅周辺の町並を見れば、暮らしてみてもなんだか悪くないのではないかと思える、そんな町であった。
写真=鼠入昌史
(鼠入 昌史)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。