豊川延彦さん(44歳・仮名=以下同)は、正義感の強い父に育てられた。父は出世争いから外れながらも誠実に働き続けたが、延彦さん自身もまた、愚直に仕事に向き合い、社内で信頼を得ていった。30歳になるころ結婚願望が芽生えたものの、恋愛感情が強すぎて失敗してきた過去の経験から、同僚の亜紀さんと恋人関係になり「楽しくやっていけそうだから」とプロポーズ。「その言葉が気に入った」と彼女も受け入れたのだが……。(前後編の後編)
***
【写真を見る】「夫が19歳女子大生と外泊報道」で離婚した女優、離婚の際「僕の財産は全部捧げる」と財産贈与した歌手など【「熟年離婚」した芸能人11人】
結婚してから2年目に亜紀さんが妊娠した。無理をしないで楽しく生きていきたかった彼は、子どもはひとりでいいと思っていたという。ところがなんと双子だった。
「二卵性の男女の双子でした。うれしかったけど、双子を育てるのは大変そうだなと覚悟しましたね。でも結局、大変なことより楽しいことのほうが大きかった。同じ環境で生まれているのに、性格はまったく違う。顔もあまり似てない。子育ては楽しかったんですが、ちょうどそのころ僕は仕事が超多忙になっていったんですよ。もっと家庭に関わりたかったけど、亜紀は状況をわかってくれていたから自分から残業のない部署に異動希望を出してくれた。それでも時間的にも物理的にも大変だったと思う。僕の母親も頻繁に来てくれました。母は亜紀と気が合ったみたいで、ふたりはすっかり仲よくなって……」
延彦さんが帰宅すると、妻と母が仲よく話し込んでいることも多かった。子どもが小さいうちは妻も頼るところが多いほうがいいし、妻と母の関係に悩む男性もいるというのに自分はラッキーだったと彼は感じていたという。
子どもたちが小学校に入ったのは彼が40歳のときだった。そのころから職場での彼の立場が「どこか変わっていく」のをひしひしと感じていたという。ことの発端は彼をいつも気にかけてくれていた上司が役員になったことだった。それをよしとする人、反発する人、社内にはさまざまな意見があり、いくつかの派閥があった。延彦さん自身は派閥など気にしたこともなかったのだが、周りがどう見ていたかはわからない。
「そもそも会社の理念とか社員の目的なんて、みんな同じだと思うんですよ。やり方は違っても、企業というのは利益を上げること以外に社会的な責任とか社会貢献とかがなければいけないと僕は思っています。でも会社の利益以上に個人の利益を上げたい人もいるし、名誉にしがみつく人もいる。自分の仲間内だけを大事にする人も。政治の世界を見ていると、あれが縮図なのかもしれないなと思います。企業も政治も、そんな視野の狭いことをしていてはいけないんですけどね」
水面下で、役員たちの足の引っ張り合いや勢力争いが始まっていたようだ。延彦さんの上司もまた、そこに巻き込まれていった。見えないところで何があったのか、延彦さんにもよくわからないのだが、あからさまに彼の仕事に妨害が入るようになった。そのころ彼は営業2部の部長補佐で、実質、部を仕切っている立場だった。
「ライバル会社が妨害しているのかと思って、いろいろ作戦を立て直したりしていたんですが、何かがおかしい。結局、内部からの妨害だったとわかったときには例の上司が失脚しかけていた。どう動けばいいのか、誰が味方なのか、ほとんどわからないまま仕事を進めていくしかありませんでした」
誰に相談すればいいのか。自分の保身より社員全体のこと、ひいては会社のことを考えたつもりだったが、彼自身も部下たちから突き上げられることがあった。それに対して彼の見方の部下たちが水面下で抗戦する。表だっては通常の業務を続けているのに、実は内部争いが激化していった。
「隣の部署で、亜紀の先輩にあたる茉耶さんという女性がいるんです。うちに遊びに来てくれたこともあり、僕も慕っていたんですが、あるとき彼女が『なんだかつらそうね。大丈夫?』と声をかけてくれて。たまには1杯どうと言われ、気が緩んだんでしょうね、つい彼女に愚痴をこぼしてしまった」
彼女は社内の勢力図に妙に詳しかった。以前、人事にいたから今もいろいろ情報が入ってくるのと教えてくれた。今、延彦さんがどう対応すればいいのかについてもアドバイスをくれたのだが、考えてみたら「とにかく巻き込まれたくない」のが彼の本音だった。
「だから僕はふりかかってきた火の粉は払うけど、それを他に押しつけたり、自分から火の粉をばらまくようなことはしたくない。企業人である前に、ひとりの人間として正しく行動したいと言ったんです。茉耶さんは『そうよね。あなたはそういう人だものね』と理解は示してくれたけど、亜紀のためにもうまく立ち回ってと言われました」
水面下のごたごたはなかなかおさまらなかったようで、延彦さんはときどき茉耶さんから情報を得たり愚痴を聞いてもらったりしていた。そうこうしているうちに亜紀さんが多忙な部署に異動となった。家庭重視で生活したいからと残業のない部署にいったのに、首を傾げざるを得ない人事だった。
「茉耶さんもおかしいと言っていました。その後ですよ、とんでもないことがあったのは」
あるとき茉耶さんから大事な話があるとホテルの部屋に呼び出された。どうしても人に聞かれたくない情報だという。迷いながらも延彦さんは出かけていった。ルームサービスをとって部屋で飲みながら話していたのだが、茉耶さんがその日はやけに酒を勧めてくる。もともとお酒に強くない延彦さんはすっかり酔って睡魔に襲われ、いつしか眠り込んでしまった。
「おい、と起こされたんですが、目を開けると、僕と上司を敵対視しているAという役員が立っていた。どうして彼がここへと思ったら、茉耶さんの着衣が乱れている。上半身、裸同然でした。てっきりAがそういうことをしたんだと思い、何をしているんだと言ったら、『おまえがやったんだろう』とAが言うわけです。わけがわからなかった。すると茉耶さんが『ここは穏便に』なんて言ってる」
社内ハニートラップだったのだ。茉耶さんと役員Aがつながっていて、延彦さんは騙された。そしてこともあろうに茉耶さんの着衣が乱れた状態の写真が亜紀さんに送られていた。
「わけがわからないままに帰ったら、亜紀がいきなりスマホを突きつけてきたんです。どういうことなの、あなたが茉耶さんを襲ったのねって。全部話しましたが、亜紀は信じてくれなかった。あなたは以前から茉耶さんのことを気にしていたでしょって。正直言うと、茉耶さんのことは女性として意識していた。意識はしていたけど、男女の関係になるつもりなんてなかったし、そもそも不倫なんてしない。でもどう訴えても亜紀は疑ったまま。亜紀との信頼関係だけは盤石だと思っていたのにと僕は絶望的になりました」
役員Aはそれをネタに、延彦さんが寝返ることを要求してきた。だがもちろん、彼はきっぱりと断った。そして彼は子会社に出向させられてしまう。
「僕の上司もいつの間にか別会社に行かされていました。水面下の争いに決着がついたんでしょう。子会社に出向といっても、そこに仕事があるわけじゃなかった。そんな理不尽には耐えられなかった。鬱々としていたら、仕事でつながりのあった他社の方からうちに来ないかと誘っていただいて……。収入は減りますが、来いと言ってくれるだけありがたい。会社をやめて転職しました」
亜紀さんには転職が正式に決まってから話をした。社内がおかしいことに、亜紀さんもようやく気づいたようだったが、自分も退職するとは言わなかった。亜紀さんはいつの間にか、延彦さんを敵対視していた派閥寄りになっていた。その人たちが今後の主流派になるのだから、そのほうが居心地がいいのだろう。だが、延彦さんには亜紀さんまでもが裏切ったとしか思えなかった。
「会社の醜悪な事態が家族関係にまで影響していました。亜紀が逐一、母親に報告しているので、母まで僕を妙な目で見る。母に話してもしかたがないから、あるとき父に半分ぼやきながら話してみたら、『オレにも似たようなことがあったよ』と若いころの経験を語ってくれました。父も僕も、正しく生きたかっただけなのに」
父に話したのがよかったかどうかと彼は今も考えている。負け犬同士が慰めあっているような虚しさだけが残った。
「1年前、家を出たんです。電車で15分くらいのところにアパートを借りました。転職先が少し住宅費を出してくれているので。子どもたちには会いたいので週末は自宅に戻りますが、亜紀との関係には冷たい空気がありますね。その後、前の会社の同僚から連絡があって、茉耶さんは退職したらしい。彼女も既婚だったんですが、離婚して役員Aと一緒にいるという噂もあります。きっといつか、ふたりとも自滅するはずだと僕は信じています。そんな話があるのに亜紀は、まだ僕を疑っているんですよ」
もしかしたら亜紀さんの疑惑は、派閥争い以前からなのかもしれない。夫が自分を女として見ていないことが、年齢を経るにしたがって寂しさにつながっていったのではないだろうか。そして夫が茉耶さんを女性として見ているとわかっていたら、たとえ夫がハニートラップにひっかかったとしても、もともと浮気心があったからだと思ってしまうのではないか。
「子どもたちが成人するまでは離婚するつもりはありません。経済的に亜紀が退職するのもむずかしいし、亜紀は案外、あの会社の中枢にいることになるのかもしれないという話もあって……。もう転職したのだから、いろいろなことは忘れようと元上司にも言われたんです。でも彼自身も悔しくてたまらないはず。とはいえ、今さらほじくり返しても誰も幸せにはならない」
いきなり濁流に飲み込まれ、翻弄されたあげく放り出されたような気がしますと延彦さんは言った。今の会社でなんとか恩返しをしたいと思ってはいるが、いろいろ考えすぎてなかなかなじめずにいるのも口惜しいようだ。
「今、本当に僕の心に寄り添ってくれる人がいたら、身も心も委ねてしまいそうです。今が僕の気持ちのいちばんの危機なのかもしれない」
慰めようがなかった。かける言葉すら見つからないまま手を差し出してしまった。彼はしっかり握り返してくれた。
***
延彦さんとしては、ただ真面目に働き、家庭を築いてきたという思いがあるかもしれない。だが、彼が“正しい”と信じていた道は、周囲にとっても同じ正しさだったのかどうか……。【記事前編】では、穏やかだった人生の前半期、そして亜紀さんとの馴れ初めについて紹介している。
亀山早苗(かめやま・さなえ)フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。
デイリー新潮編集部