妊婦の腹が切り裂かれ、中に「受話器」と「ミッキーマウスの人形」が…1988年、名古屋で起きた“史上最悪の未解決猟奇事件”とは

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昭和末期の1988年3月18日、名古屋市の住宅で臨月の妊婦が首を絞められて殺害され、腹を切り裂かれる事件が発生した。切り裂かれた腹の中には電話の受話器とミッキーマウスの人形の付いたキーホルダーが押し込められていた。俗に言う「名古屋妊婦切り裂き事件」である。中にいた胎児は一命を取り留め、また、愛知県警が4万人もの捜査員を動員したものの、ついに犯人を逮捕できずに時効を迎えたことでも注目された。時に「史上最悪の未解決猟奇事件」と呼ばれることもあるこの事件を、発生から37年を迎えた今、当時の証言を交えながら振り返ってみよう。
【前後編の前編】
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【写真を見る】腹を切り裂かれた妻の遺影と、葬儀で涙ながらに挨拶する夫
被害女性をA子さん、その夫をB男さんとする。事件が起きたのは1988年3月18日。昭和が終わりを告げる10カ月ほど前の出来事である。殺害現場は夫妻の住まいである名古屋市中川区のアパート2階。A子さんのお腹には第一子がおり、既に出産予定日を5日過ぎていた。
「FOCUS」1988年4月1日号では事件をこのように報じている。
<その日、B男さん(31)が帰宅したのは午後7時45分頃。アパートの玄関のドアのカギは、めずらしく掛かっていなかった。電灯もついていなかった。DKを通り、3DKのいちばん奥にある6畳の居間で妻のA子さん(27)が、頭を南に向け死んでいるのを発見した。殺されていた。それも尋常なやり方ではない。首にはコタツのコードが巻かれ、みぞおちから下腹部にかけてほぼ一直線に38センチも切り裂かれていた。そのすぐ傍らで、まだ母親の胎内にいるはずの胎児が、かすかな泣き声をあげていた。切られたヘソの緒を30センチほど残したまま。A子さんの、切り裂かれ胎児を取り出された腹部には、コードを切った受話器とミッキーマウスの人形がついたキーホルダーが押し込められていた。>
辺りは一面が血の海。第一発見者となった夫の衝撃は、想像を絶するものだったに違いない。
<名古屋市のある精密機器会社に勤めるB男さんは、この日、3月18日も午後1時頃、自宅に電話を入れた。A子さんの出産予定日が13日で、いつ出産するかわからない状況を気づかってのことである。このときA子さんは元気に電話口に出た。退社する直前にもう一度電話をしたが、こんどは10回コールしても出なかった。会社のタイムレコーダーはB男さんの退社時間を午後6時48分と記録している。それから近鉄に乗り、帰路についたのは午後7時19分。それからのほぼ30分は、いつものようにやがて生まれる子供の姿をあれこれと想像しながらの心楽しい時間だったに違いない。>
一方、妻は、
<同じ日の午後、妻のA子さんは近くの蟹江町に住む知り合いの主婦の応対をしていた。A子さんは内職程度とはいえ家庭用雑貨の無店舗販売の仕事をしており、知人の訪問はそのためだった。知人がA子さん宅を出たのは午後3時。クルマで帰る彼女を駐車場で見送った。その後のA子さんの動向は不明。が、午後4時に配達されていた郵便物はそのまま、いつも乾いても乾かなくても4時か4時半には取り込む洗濯物もそのままだった。ふだん几帳面なA子さんの性格を考えれば、死亡推定時刻は知人の主婦が帰った午後3時~4時30分と推定される。解剖の結果、A子さんの胃からシイタケ、ワカメ、そして知人の主婦がみやげに持参したイチゴなどの内容物が発見された。>
鑑定結果によると、
<犯行に使われたのは鋭利なカッターナイフかペティナイフのようなもの。しかもその切り口は、刃物の取り扱いに慣れていることをうかがわせるという。>
当時の雑誌記事からもう少し状況を補足してみよう。A子さんは、手は白っぽいひもで後ろ手に縛られ、電気コタツに接続したままのコードで首を絞められていた。服装は青色のマタニティ・ドレス。ピンク色のジャンパーをはおり、黒い下着と長靴下をつけたまま妊婦帯をまくられていた。お腹は同じラインを2~3回ほど切られ、傷の深さは最深部が2.8センチ。子宮にも上下長さ12センチにわたる切り込みがあり、子どもはそこから犯人によって取り出されたと見られている。子どもは右太ももや左膝などに傷があり、チアノーゼ症状も出ていたが、すぐに病院に運ばれ、輸血を受けて縫合手術、命を取り留めた。そして4月2日には無事退院している。
退院時、雑誌の取材にB男さんはこう述べている。
「私がこの子の母親代わりをしなくてはなりません。妻も私にそうしてくれと言っています。今日も家で仏壇に向かって、この子を連れて帰って来るぞと報告し、君もこの子を守ってくれよと頼んできました。これからは普通の子と同じように育てていきます」(「週刊女性」1988年4月19日号)
しかし、まず捜査の矛先が向けられたのは、何と遺族である夫・B男さんだった。
発生から11年後、「新潮45」1999年10月号はこの事件を振り返るレポートを掲載している。それによれば、実はB男さんは事件の帰宅時、ドアの鍵が施錠されておらず、部屋も真っ暗、妻の姿は見当たらないのにまずスーツを着替えていた。また、A子さんの法要の際、B男さんは記者会見を行っている。それに当たり、「家内はワインが好きだったから、ワインを注がせてください」と、報道陣を前にグラスに赤ワインを注ぎ、霊前に供えた。この行為が「芝居がかっている」という印象を捜査陣に与えたという。
しかし、その疑いは晴れた。その日の午後は会社でデスクワークをし、同僚と一緒に退社していたのである。すなわちB男さんのアリバイは完全に成立した。
後にB男さんは雑誌の取材にこう答えている。
<潔白が証明されるのに一カ月かかりました。その間世間は、あれは旦那がやったと噂した。私が犠牲者なのに、弱い者いじめにあっているような気分でした>(「週刊文春」2001年8月16・23日合併号)
このように捜査本部は当初、顔見知りの犯行と見て捜査を進めていた。しかし、捜査は別の展開を見せる。聞き込み捜査から出てきた証言から、ある人物が浮かんできた。「丸顔」と呼ばれる最重要参考人が――。
【後編】では、最重要参考人「丸顔」の行方と、犯人によって取り出された悲劇の子どもの“その後”を詳述する。
デイリー新潮編集部

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