「私は23歳のとき、私が両親から生まれた子供ではないことを知りました。誰かと母親から、生殖医療によって生まれた子供だと知ったのです」
こう話すのは石塚幸子さん(45歳)である。慶応義塾大学病院で、母と第三者の精子との間に生まれた子供のひとりだ。
正式には非配偶者間人工授精(AID)というが、国内では1940年代に慶應義塾大学病院で始まった。主な精子提供者は大学内で集められた医学生で、病院側は子供を望む夫婦や提供者に、相互の情報は一切知らせず行ってきたという。
そうやって生まれた子供は国内で2万人以上いるとも言われ、多くの人は自分がAIDで生まれた子だと知らないまま生きていると考えられている。
「当時の医師たちはAIDで子供が産まれた後のフォローはせず、親には『子供には第三者の精子で生まれたことを隠し通したほうがいい』というアドバイスをするのが“常識”でした。医者のいうことは素直に聞く時代でしたから、母もそれに従った。私の出自は母にとって、墓場まで持って行く秘密だったと思います。
でも私は知ってしまった。あの日以来、私たち親子の信頼関係は崩れてしまったままです。親との関係を回復したいのですが、いまもできていません」
AIDは国内で半世紀以上、「生まれた子供が事実を知ったとき、どんな影響を与えるか」という問題を棚上げにしたまま、続けられた。子供の出自を知る権利もないがしろにされているため、AIDで生まれてきた子供たちは、事実を知っても自分の半身の素性を知ることができない。
なぜ石塚さんの親子の信頼関係が崩れてしまったのか、話を聞いた――。
「私は高校生になった頃、調子の悪かった父が遺伝性の難病を患っていると知りました。両親は私に「遺伝しない」と説明しました。当たり前ですよね。両親は父と私の血が繋がっていないことを知っているわけですから」
そんな石塚さんは、大学院に通い始めた頃、父の病気を少しでも理解したいと思って、診断書を見せてもらい調べたという。そこで彼女はショックな事実を知る。
「父の病気は50%ほどの確率で、私にも遺伝する病気であることを知ったのです。それで父と血が繋がっていないことを知らない私は、自分も遺伝しているかも…と悩むようになり、周囲にも相談するようになりました。
それが母の耳に入ったわけですが、悩み続ける私の姿をみて『もう隠してはいられない』って思ったのかもしれません。風呂からあがったところで『大事な話がある』と言って呼び止められました」
石塚さんはその日の出来事を日付まで覚えていた。2002年8月8日夜――。
「母はすごい短い時間の中で、『父さんとは血が繋がっていないから病気は遺伝していない』ということを最初に伝え、『その昔、慶応大学病院で他の人から精子をもらい妊娠することができて、それで産んだ』『誰の精子を使ったかはわからないからね』と言って、話を切り上げました。
それを聞いて、DNA検査をしようかと思うくらい悩んでいた私は、正直、父の病気が私には遺伝しないことを知ってほっとしたのですが、部屋に戻ってから、夫の精子以外を使って子供をつくるという行為に驚き、さらにそれによって自分がいま、生まれて動いていることにびっくりしました」
母の告知に理解が追い付かなかった石塚さんは、その日からAIDについて調べるようになったという。
「今ほど不妊治療が話題になっていない時代でしたので、そもそも他の人の精子を使って夫婦の子供をつくること自体が衝撃的で、それがどういうことなのかをまずは調べたかったし、私と同じような境遇の人が他にいないのか知りたかった。そこで、その日の夜から、「精子」「妊娠」「慶応大学」「患者会」など、思いつく限りのワードでネット検索するようになりました。
その一方で、『精子提供者がわからない』という状況を両親が了承していることにもショックを受けました。それは、私が将来、出自を知りたくても知ることができない状況をよしとしているのと同じことですから…。
もし私が病気の遺伝について悩まなかったら、両親は一生何も言わずに終わらせたと思います。その事実が、私のなかにある『両親に裏切られた気持ち』をより強くしていきました」
その頃から石塚さんは、感情をうまくコントロールできなくなり、体調もおかしくなってご飯も食べられなくなったという。
「悲しみ、怒り、そして病気が遺伝しなくて良かったという複雑な安堵感…。さまざまな感情が入り乱れ、涙が溢れるようになりました。詳しく話を聞きたくても、母はこの話題を避けてくる。父もベッドの上で暮らしている状態で、それ以前から関係性があまり良くなかったため聞けない。かといって、助けを求めて誰かに相談しようとすれば、家庭の問題を外に漏らすことをよしとしない母は嫌がる。
それでも自分の感情をうまく消化できない私は、いろいろなところに相談したのですが、多くの人たちは『育ててくれた親に感謝をすればいい』とか、『育ててもらったこと自体を幸せに思って』などと言ってきました。
善意でそれを言ってくれたことも理解できます。でも親に騙されたと感じてつらくなっている時に、そんなことを言われたら、思うことすらダメなのかと追い込まれる。悩んでいること自体、『誰にも言うべきではない悪いこと』のようにされて、この感情を消化できなくなってしまった」
石塚さんは「善意の言葉ではなく、感情を吐き出して、気持ちを共有できる場所が欲しかった」と話しを続ける。
「しかしいくらネットで調べても、相談先は見つかりません。患者会もなく、気持ちを共有できる相手もいなかった。それがとてもつらかった。家の中はギスギスし、これ以上、一緒に暮らしているとお互いに良くないと思うようになり、翌月の9月末には部屋を決めて、ほとんど何も持たずに実家を出ました」
以来、石塚さんと母は気持ちがすれ違ったままで、「いまも正直、うまくちゃんと話せていない」という。いま石塚さんが願うのは、自身と遺伝的繋がりのある精子提供者の実在を確認すること、そして親との関係回復だ。
「私は、確立してきた自己の半分が23歳のときに完全に否定され、自分がわからなくなってしまった。私は母と「精子というモノ」から生まれたという感覚が拭い去れなくなり、自分の半分がわからなくなってしまったのです。
私は、一度崩れてしまったアイデンティティのようなものを立て直したい。そのために精子提供者と会って、精子というモノではなく、きちんと実在する人がいたからいま自分がいると実感して、『自分のこういうところはこの人から来たものなのかもしれない』という確認をしたい。でも精子提供者に求めるのはそれだけなんです。私がいま一番本当にしたいのは、親との関係性の回復です」
石塚さんは家を出た後、患者会がないのなら自分でつくってしまおうとAIDで生まれた人たちの自助グループを立ち上げた。現在は会社に勤めながら、精子や卵子提供で生まれた子供と、提供者を結ぶことを目的とした社団法人ドナーリンク・ジャパンの理事としてボランティアで活動している。
「家の中の問題を外で話すことを嫌がる母は、この問題について私が表にたって発信していることをよしとは思っていません。でも、自分の感情が消化できない私は、それも承知の上でいろいろやっています。お互いに、自身の行動で相手につらい思いをさせている。その悪循環にウチの家庭は陥っている。親との関係を回復したくても、昔のようにうまく話したりすることがなかなかできない」
石塚さんのようなケースは、AIDで生まれた子たちにとって決して特異な例ではないだろう。自助グループには、石塚さんのように感情を消化できず「もやもやした気持ちが続き、常にイライラし、体調が悪くなった」、あるは「自分がAIDで生まれたことを知って、大きなショックを受けて悩んだり苦しんだりしたことを、今でも親には言えません」と気持ちを押し殺して生活している方の声などが届いている。
これは、さまざまな問題をはらんだままAIDが70年以上続けられたツケを、生まれた子たちが払わされている状況と言っていいのではないか。
「医者は妊娠させることに成功しさえすればいいと考え、子供が生まれた後の家庭のケアはまるでしようとしません。近年、非匿名が大事だと気づいて、提供者の情報がある程度わかる仕組みを独自でつくっているクリニックもわずかに出てきましたが、いまだに匿名の精子を使ったAIDを行っているクリニックが多いのが現状です。
AIDを選択する親は、幸せな家庭を築きたいと願っていると思いますが、告知のタイミングや方法によっては大切なはずの我が子が深く傷つくこと、匿名の精子を使えばこうした問題がでてくる可能性があるということを理解して、熟考して欲しい」
つづく後編記事『横行する「精子の闇取引」が許せない…身元を明かす「国内初の非匿名精子バンク」のドナーに登録した「男性の本音」』では、精子提供者の男性たちに、なぜ自分の精子を提供したのか、その理由に迫ります。
(取材・文 「週刊現代」記者・後藤宰人)
【つづきを読む】横行する「精子の闇取引」が許せない…身元を明かす「国内初の非匿名精子バンク」のドナーに登録した「男性の本音」