【前後編の後編/前編からの続き】
昨年9月に成年となられた秋篠宮家の長男・悠仁さまは、来たる4月から筑波大学へ進学される。一連の成年儀式は5月にも執り行われ、これに先立ち初めての記者会見が予定されている。そんな折、悠仁さまには「帝王学」の習得が急がれているというのだが……。
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【写真20枚】「こんな表情するんだ…!」 文化祭でご学友とはしゃぐ「悠仁さま」
前編【「好みの女性のタイプは新珠三千代」 秋篠宮さまの成年会見を振り返る 悠仁さまの会見は「愛子さまの立ち居振る舞いと比較される」】では、秋篠宮さまの成年会見について振り返るとともに、来月に控える悠仁さまの成年会見への“懸念”について紹介したが、後編では悠仁さまの「帝王学」習得が進んでいないのではないか、という指摘について取り上げる。
皇室ジャーナリストが言う。
「秋篠宮家は従来、ご当主である殿下のご意向もあり、自由な家風で知られてきました。それは“自主性”を重んじられるという、3人のお子さま方の教育方針にも反映されています」
その結果、長女の眞子さんは“類例を見ない結婚”に踏み切ってしまったわけだが、加えて、
「悠仁さまものびのびお育ちになり、将来を見通せば受けておられなければならない『帝王教育』が、十分になされていないという状況が、ご家庭では長らく続いています。実際に12年秋のお誕生日会見で秋篠宮さまは、『(悠仁さまが)どういう立場にいるかというのは、だんだん年を経るにつれて分かっていくのがいいのではないか。今、君はこういう立場なんだよ、というようなことは私たちは話しておりません』などと述べておられたのです」(同)
もっとも、前編で紹介した戦争関連施設へのご訪問もまた、取りも直さず帝王教育の一環ではある。が、悠仁さまの周囲には、肝心の教えを授ける「師」が不在だというのだ。
象徴天皇制に詳しい名古屋大学大学院の河西秀哉准教授は、
「大学の授業を受け、ご学友と触れ合うことも将来の天皇にとっては重要ですが、それだけが『帝王学』ではありません」
としながら、
「上皇さまが自ら現在の陛下を育て、その過程でお二人は象徴としての立場を自覚していきました。実際に陛下の高校から大学時代にかけ、上皇さまは東大や学習院大の先生を東宮御所に呼び、ご一緒に過去の天皇のご事績を学ばれています。ところが現在、悠仁さまにとって陛下は伯父であり、父である秋篠宮さまご自身は次男。幼少時からそうした教育をお受けになってこなかったでしょうから“親から子へ”という伝授が難しい状況にあるのです」
陛下は、およそ500年前に即位した後奈良天皇(105代)が、飢饉(ききん)や疫病が流行した時代、いかにして民衆に寄り添ってきたかについて、これまで会見でたびたび言及されている。
麗澤大学の八木秀次教授も、こう指摘するのだ。
「昭和天皇は東宮御学問所で、一流の学者から国史、倫理、憲法など幅広い科目の講義を受けて学ばれました。また上皇陛下は皇太子時代、教育係の小泉信三と一緒に読書をして語り合う経験を積まれています。ところが、そうした存在が悠仁さまにはうかがえません。皇位継承順位2位であられる悠仁さまが帝王学を修める体制を整えなければならないのは、他ならぬ宮内庁なのですが……」
そこには“不作為”が散見されるというのだ。
「あるいは、悠仁さまが自由に学ばれるご姿勢を大切になさっている秋篠宮さまが、特別な帝王教育を拒まれているのかもしれません。しかしこれは、国として将来のお世継ぎをどうお育てしていくかという、極めて公的な課題です。宮内庁は不作為を決め込まず、信頼に値する見識を持った年長者らを選出し、“指南役”として悠仁さまを導いていけるようサポートしなければなりません」(同)
4月から大学生となられる悠仁さまが、ご自身のお立場を学ばれるには一刻の猶予もあるまい。そして、来たる成年会見でもその“チャンス”があるというのは、皇室解説者の山下晋司氏である。
「眞子さんの結婚に端を発した一連の秋篠宮家に対するバッシングを、悠仁親王殿下はどのように受け止め、そして向き合っていかれるのか。18歳とはいえ成年皇族としての記者会見ですから、この点をご自身の言葉でお話しされればいいと思っています。そのお話しぶりや内容から国民は、将来の天皇となられる方のお人柄に触れることができますし、ご本人にも世間の反応がダイレクトに伝わるでしょう。それが国民との“相互理解”につながっていく可能性もあります」
まさしく“実地の帝王学”というわけである。
前編【「好みの女性のタイプは新珠三千代」 秋篠宮さまの成年会見を振り返る 悠仁さまの会見は「愛子さまの立ち居振る舞いと比較される」】では、秋篠宮さまの成年会見について振り返るとともに、来月に控える悠仁さまの成年会見への“懸念”について紹介している。
「週刊新潮」2025年2月27日号 掲載