幻と消えた「手賀沼ディズニーランド」計画。なぜ“常磐線の我孫子駅”近くの“日本一水が汚い湖沼”に誘致しようとしたのか

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ディズニーの日本誘致は、戦災復興が終わる昭和30年代頃から始められていました。しかし、ディズニー経営陣はなかなかクビを縦に振りませんでした。やはり、アメリカ文化のディズニーが簡単に日本で受け入れられるとは考えていなかったようです。
ディズニーを国内へ誘致しようと考えていた人物は数多く、無数の“ディズニー計画”が存在します。(※本記事は、『鉄道がつなぐ昭和100年史』(ビジネス社)より抜粋したものです)

しかし、戦前までの手賀沼湖畔はあくまでも静かな別荘地でした。そうした静謐な手賀沼を開発しようという機運は、昭和30年代から芽生えます。当初、湖を活用して競艇場を建設することが考えられていましたが、競艇場は手賀沼を埋め立てなければならなかったので計画は頓挫しました。

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