しっかり楽しもうと思うと、1人あたり2~3万円程かかるようになったディズニーランド。もちろんビジネスの戦略は企業の自由ですが、ここまでの「寂しさ」を感じるのはなぜなのでしょうか(筆者撮影)
デフレが終わり、あらゆる物が高くなっていく東京。企業は訪日客に目を向け、金のない日本人は”静かに排除”されつつある。この狂った街を、我々はどう生き抜けばいいのか?
新著『ニセコ化するニッポン』が話題を集める、”今一番、東京に詳しい”気鋭の都市ジャーナリストによる短期集中連載。
先日、『ディズニーで進む「デジタル音痴の排除」の真因 資本主義の加速で「機械が人を選ぶ」時代に?』という記事を書いた。
東京ディズニーリゾートのチケット代は上昇し続けており、ある程度裕福でなければそこで遊べなくなった。また、コロナ以後取り入れられたアプリのシステムによって、デジタル機器を使いこなせない人もパークを楽しめない。
記事では、こうした取り組みによってオリエンタルランドは「客層のコントロール」を行っているのではないか、と指摘した。
記事に寄せられたさまざまなコメントの中で目立ったのは「変わっていくディズニーに対する寂しさ」を語るもの。ディズニーの政策に理解を示しつつも、どこか寂しさがあるのだ。
実はこの感想は現在のディズニーリゾート、さらには日本の社会のあり方を考えるうえでも重要な意見である。
大前提として、ディズニーが「客層の選択」を行うのは責められないし、仕方のない側面がある。
【画像9枚】ディズニーで起きる「金持ちへの注力」と、訪日客の街・ニセコで筆者が見た”驚きの光景”
さまざまな娯楽が普及し、テーマパーク以外に多くの選択肢がある現在、ディズニーとしては、たくさんの人々を入れるよりも、よりその場所で多くの消費をしてくれる人に対してマーケティングを行う必要がある。
この方向はオリエンタルランドも「量から質へ」という方向で認めているところで、現代では必然的な流れだともいえる。ビジネスの展開として正しいし、筆者もことさらこの方向を否定するつもりはない。
コロナ前は「大人(40歳以上)」の割合が20%程度だったが……(出典:オリエンタルランドの2019年ファクトブック)
直近のデータでは、3分の1を占めるまでに増加している。また「中人」「小人」を合わせた数値も、30%程度から25%程度になり、数ポイントの減少が見られる(出典:オリエンタルランドの2024年ファクトブック)
しかし、どこか一抹の「寂しさ」を覚えるのは、おそらく、この変容の中に、日本における「格差」が目に見える形で浮かび上がっているからだと思う。
実際、筆者の記事には、こんなコメントがいくつも寄せられた。
「夢の国とはいえ、オリエンタルランドも企業として利益を上げる事を考えるのは当然だし、富裕層をターゲットにする戦略は正しいと思う。ただ、子供の頃から行っていたディズニーランドの姿からは離れていってしまったな、と寂しい気持ちにはなる。(中略)今のスマホを活用する状況も便利なのだとは思うが、もし何も知らずに行ったらできることが制限されてしまう。事前に情報を集めないほうが悪い、ということになるのだろうが、誰でも楽しめた夢の国が変わっていくのはやはり寂しい気持ちが大きい」
「アプリのおかげで待ち時間が分かるという意見もあるけど、空いていてふらっと入れる穴場のレストランやアトラクションがなくなってしまった(運営としてはそのほうが利益出るんでしょうが)。ちょっと休みたくてレストランに行こうとすると『予約してますか?』と聞かれてしまう。(中略)効率よく回るためにスマホにかじりつくの必須。体力があって、アプリ使いこなせる人じゃないと楽しめない場所になった。以前よりお年寄りや子供連れが減った印象です。仕方ないのかもしれないけど、昔のディズニーを知っているとものすごく満足度は下がった」
そもそも、日本におけるディズニーランドの歴史を見ていくと、それは戦後の「一億総中流」と呼ばれた大衆と深い関係を持ちながら展開してきたことがわかる。
1958年から1972年には、テレビ番組『ディズニーランド』が放送され、夢の国のようなディズニーランドの姿をアメリカへの憧れとともに、多くの日本人家庭の目に焼きつけた。
東京ディズニーランドの前にあるボン・ヴォヤージュ(筆者撮影)
1983年、浦安に東京ディズニーランドが誕生したときのチケット代は大人・3900円。その後は、数百円程度の値上げをする年があるものの、基本は料金据え置きの状況が続く。チケットが5000円を超えるのは、1997年3月、つまり開園から14年後のことなのだ。毎年、1000円ずつ値上がりをしていく現在とは、まったく違う状況だったことがわかる。
コンサルタントの鈴木貴博は「一億総中流であり、かつ、みんなが浮かれていたバブル時代にはあまねく若者を受け入れてきたディズニーリゾート」と表現している。
確かに、現在よりもさまざまな人々を迎え入れてきたのがディズニーリゾートだっただろう。もっと言えば、(1980年代にはすでに格差の拡大傾向はあったものの)「一億総中流」という「みんな横並び」の時代を体現するような存在であったともいえる。
しかし、上述したように近年のディズニーリゾートはそうした「みんなのため」という幻想というか、呪縛を脱ぎ捨て、明確にそこに訪れる人のコントロールを行っている。
早稲田大学教授の橋本健二が指摘しているように、特に東京に絞ってみると1980年代中頃からさまざまな面での格差が進行している。2006年には「格差社会」が流行語になったが、この格差は現在もなお進行し続けているのだ。
東京の中でさえそうなのだから、地方・都会でいえばその差はさらに顕著になっているだろう。「一億総中流」は幻の言葉となって久しいのである。
そんな中、ディズニーはよりそこで多く消費をしてくれる人に向けた戦略を打っていく。いわば、ディズニーの変化は「格差社会」がそのまま可視化されたようなものなのである。
そもそもテーマパークとは、その初めから、閉鎖性の強い場所であった。ディズニーランドは創設者であるウォルト・ディズニーの思想を強く反映させた「ユートピア」として作られた側面が強く、その「理想郷」を実現するためにパークの中からはその外側が見えないようになっている。まさに「排他的」な空間なのである(ちなみに、「高級な」を表す「exclusive」は「排他的な」という意味も持つ)。
その意味で東京ディズニーリゾートは、この40年の間で、より「テーマパークらしさ」を純化させていったともいえる。
「みんなの場所」から「選ばれた人の場所」へ。そしてその背後には「格差の拡大」がある。こうしたつらさも漂わせる空気を感じるから、どこかディズニーランドの変容には寂しさを覚えてしまうのではないだろうか。社会の変化が、ディズニーランドという空間に可視化されて表れている。
このような「格差」がより露骨に可視化されている場所がある。スキー場で有名な、北海道の「ニセコ」だ。
たくさんのインバウンド客が来ることですっかり有名になった街・ニセコ。写真のような、外国人向けのホテルがたくさんある(筆者撮影)
ここ数年、ニセコで売られているものの値段が常軌を逸している……というのは、よくニュースになるところだ。最近も、ニセコエリアのスキー場1日リフト券が1万円を超したことが報道され、「地元民が行けない」「もはや外国人の街だ」という感想がSNSを賑わせた。
実際に私も現地を訪れたことがあるが、そこにはほとんどインバウンド観光客しかおらず、北海道のローカルコンビニ「セイコーマート」では1万4000円以上するシャンパンが売られていた。つまり、ここは「裕福な外国人観光客のための街」になっている。
ニセコ・ひらふのセイコーマート。高いシャンパンがゴロゴロ(筆者撮影)
興味深いのは、この変化は空間にも表れていることだ。
ニセコを訪れてまず気付くのは、そこには英語の看板ばかりが目立つこと。空き地の売却を示す看板には「For Sales」とあるし、お店のメニューも英語が多い。
ニセコでは、英語の看板がいたるところに確認できる(筆者撮影)
そこら中に建っているコンドミニアムは外国人向けの作りになっていて、日本の住宅では見ないような景色を作り出している。
日本なのに、日本じゃない感がスゴい街・ニセコ(筆者撮影)
この写真だけを見ると、アメリカの映画に出てくるワンシーンのようだ(筆者撮影)
聞いた話によれば、働く従業員は日本人であっても英語ばかりを使うというから、まるでそこは「日本であって日本でない」、ある意味「テーマパーク」のような空間になっている。
しかも、それは裕福な外国人観光客に向けられたテーマパークである。まさにある種の「排他性」がそこを支配している。
『なぜニセコだけが世界リゾートになったのか「地方創生」「観光立国」の無残な結末』(講談社+α新書・2020年)の中で著者の高橋克英氏は、ニセコが観光地として成功しているのは、外国人富裕層に向けて「選択と集中」をした観光地作りをしたからだ、という。
ニセコの特徴は、「ジャパウ」とも呼ばれる良質なパウダースノーにあり、それに惹かれて欧米圏を中心とした外国人富裕層がやってくる。そんな彼らに向けてさまざまなサービスや取り組みを「選択と集中」してきたことが、ニセコの活況を招いた。
実際、先ほど見たニセコの空間的な特徴は、すべてこの外国人富裕層向けに「選択と集中」された結果であろう。英語の看板もそうだし、コンドミニアムの作りもそうだ。その結果として、北海道のある区画に異質な「日本でない」ようなテーマパークのような場所が出現している。
いわば、ニセコでは「選択と集中によるテーマパーク化」が進んでいる。
少し逆説的な表現になるかもしれないが、その意味ではディズニーリゾートもある意味、富裕層に向けて「選択と集中」を行う「テーマパーク化」が進んだ場所だといえるだろう。チケット代の値上げやIT弱者の排除は、こうした「選択と集中」を行うためのツールの1つなのである。
実は私はこうした「選択と集中によるテーマパーク化」を「ニセコ化」と名付け、最新作である『ニセコ化するニッポン』においては、この「ニセコ化」が日本中に広がっている、と述べている。観光地や都市、さらには商業施設に公共空間まで、この「ニセコ化」が日本を覆っている。
東京でも、そのような変化はすでに起こっている。
例えば、近年の「渋谷」の変容もまた、「ニセコ化」として捉えることができるのだ。現在、渋谷は「100年に一度」と言われる大規模な再開発が進んでいるが、その目的の1つは「渋谷を『大人の街』」にすることだ。
開発の大きな主体である東急は、もともと「若者の街」として知られていた渋谷について、近年集まり始めていたビジネスパーソンや、インバウンド観光客に向けて街を作り替えている。
実際、そこに誕生している高層ビルに入居するテナントの多くはお高めの店が多いし、オフィスやホテルが入居して、若い人がいる街ではなくなってきた。ここでも、「選択と集中」による空間の変容が起こっているのだ。
よく「渋谷はもう若者の街ではない」なんて言葉がメディアを騒がせることがあるが、本質的には「ニセコに起きている変化」と同じなのだ。
ここではいくつかの例を見てきただけだが、こうした「ニセコ化」は都市や観光地、さらに商業施設までさまざまな場所で進んでいる。
もちろん、私はそれを否定しない。ただ、気をつけるべきは「選択と集中」には、必ず「選ばれなかった人」が生まれるということだ。
ニセコにおいて「地元民がないがしろにされている」と感じられるように、その裏には「排除」が伴う。ディズニーリゾートだってそうだ。そして、一度愛着を失うと、人々はもう心を向けてくれないのである。
テーマパークのようになっていく東京、あるいは日本を私たちはどのように生きていけばよいのか。そして、ビジネスを展開する企業も、どのように戦略を組み立てていくのか。私たちは今、問われているのだ。
連載の次の記事はこちら:「インバウン丼」食べない人にも批判された深い訳 テーマパーク化するニッポンに、どう向き合うか
(谷頭 和希 : 都市ジャーナリスト・チェーンストア研究家)