「生きる希望が持てない…」20年間、病院とコンビニと家だけ。「介護だけの人生」だった55歳女性の決意

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予期せぬ別れに直面したとき、人は何を思い、どう乗り越えるのか。書籍『もう会えないとわかっていたなら』(扶桑社)では、遺品整理会社、行政書士、相続診断士、税理士など、現場の第一線で活躍する専門家たちから、実際に大切な家族を失った人の印象深いエピソードを集め、「円満な相続」を迎えるために何ができるのかについて紹介されています。本連載では、その中から特に印象的な話を一部抜粋してご紹介します。
両親の遺品整理ができず引きこもっている「順子さん」これは二人の「じゅん子さん」のお話です。それはまだ、僕が遺品整理業を始めたばかりの頃のことでした。付き合いのある不動産会社から電話があり、「遺品整理ができずに困っている人がいる」というので、話を聞きに行きました。その不動産会社で紹介されたのが、保険会社に勤める純子さんです。純子さんには小学生の頃から仲のよい順子さんという幼馴染みがいて、もう五〇年近くの付き合いになると言っていました。その幼馴染みの順子さんが、ご両親が亡くなった後も遺品整理ができず、引きこもりのような生活をしており、まるで廃人のようになっているというのです。順子さんに元気を取り戻してほしいと思った純子さんは、遺品整理がそのきっかけになるのではないかと思ったというのです。どこまでお役に立てるかはわからないけれど、話だけでも聞いてみようと、僕は純子さんと一緒に順子さんの家へ向かいました。到着した順子さんの家はいたって普通の外観をしていました。庭も荒れているわけではなく、外から見える障子や網戸なども破れてはいません。「今日はお任せするので、順子ちゃんをお願いします」純子さんはこれまで、何度もここを訪れ、順子さんに話しかけ、話を聞き、寄り添ってきたのだといいます。それでも、順子さんを立ち直らせることはできませんでした。玄関に入って驚きました。家の中は半分、ゴミ屋敷状態だったのです。歩く場所やドアの開閉に必要な場所以外は、片付けられていないもので埋もれているのです。純子さんに連れられて入ったリビングも同じ状態でした。暗く、重い空気が漂っていました。そして、その奥に順子さんが座っていたのです。純子さんが僕を紹介してくれたので、「こんにちは」と挨拶をしましたが、順子さんは僕を一瞥しただけで、すぐに目を伏せました。純子さんから二人は五五歳と聞いていたのですが、順子さんは七〇代に見えました。一方で、明るく元気な純子さんは四〇代に見えます。僕は順子さんのそばの床に腰を下ろしました。純子さんは順子さんの隣に座ります。何でもいいので、とにかく話をしてもらおうと思いました。順子さんの気持ちが内側に閉じこもっているように見えたからです。「花粉症は平気ですか? 僕はひどいんですけど」「あそこのビル、取り壊されるそうですよ」「この商品、好きなんですか?」季節の話や窓から見えるもの、室内に散乱しているものなど、とにかくいろいろな話をしてみましたが、順子さんは曖昧な相槌を打つ程度しか反応してくれません。気がつけば三時間も話し続けていました。時計の針は一七時に近づいています。日をあらためたほうがいいかもしれないと思いました。親友がくれた人生を再出発する勇気「何かお役に立てることがないかと思って伺ったんですけど、すみません、しゃべりすぎちゃいました。ご迷惑だと思うのでそろそろ帰らせていただきますね」そう言って、僕が立ち上がろうとしたとき、順子さんが初めて声を漏らしました。「この二〇年、私の居場所は病院とコンビニとこの家だけだったんです」座り直して、僕が顔を合わせると、順子さんは「生きる希望を持てないんです」と言って、静かに話し始めました。二〇年前、順子さんが三五歳のとき、お父さんが脳梗塞で倒れました。半身麻痺と言語障害が残り、介護が必要になったのだといいます。そしてそのすぐあとに、お母さんがパーキンソン病とわかったのです。順子さんは三五歳で仕事を辞め、両親の介護を始めました。一人っ子で、頼れる親戚もおらず、両親を施設に入れるお金もありませんでした。デイサービスを利用しても、二人同時に面倒を見てくれる日はなく、順子さんには介護から逃れられる時間がなかったのです。やがて、貯金も底を尽き、両親の年金と生活保護でなんとか日々の暮らしを凌しのいできたと言います。「気がつけば、結婚もしないまま、こんな歳になってしまって……」涙ながらに話す順子さんの手を、純子さんがしっかりと握ります。順子さんの辛さが伝わって、僕の涙も止まりませんでした。順子さんがぎりぎりの状態まで追い込まれ、心中したいという思いが強くなった頃、お父さんが亡くなりました。そして、それを追うように一年もせずにお母さんも亡くなったのです。純子さんは順子さんの肩を抱き、「つらかったね。つらかったね」と身体をさすりました。「私の人生は介護だけで終わったの。だから私は、このままでいい」そんな順子さんの言葉に、純子さんが強く首を横に振ります。「なに言ってんの順子ちゃん! 五五歳なんて、人生まだまだこれからだよ!」僕は順子さんに、純子さんのことを話しました。「あなたのことをこれだけ思いやってくれている人がいるんですから、きっと大丈夫ですよ」そして、純子さんの思いが通じたのか、順子さんはようやく遺品整理に応じてくれたのです。遺品整理にかかる二日間、順子さんには純子さんの家で過ごしてもらいました。僕たちは遺品の整理だけでなく、家の中も順子さんが過ごしやすくなるよう、きれいに片付けてから二人の「じゅん子さん」を招き入れたのです。その部屋を見た順子さんは、涙を流して純子さんの手を取りました。「純ちゃん、ありがとう。これからはお父さんとお母さんの分も、純ちゃんみたいに頑張る」前向きになってくれた順子さんは、「まずは仕事を探さなくちゃ」と言って笑いました。ずっと想ってくれた友人が支えとなって、再出発する勇気が持てたのです。
これは二人の「じゅん子さん」のお話です。
それはまだ、僕が遺品整理業を始めたばかりの頃のことでした。付き合いのある不動産会社から電話があり、「遺品整理ができずに困っている人がいる」というので、話を聞きに行きました。
その不動産会社で紹介されたのが、保険会社に勤める純子さんです。純子さんには小学生の頃から仲のよい順子さんという幼馴染みがいて、もう五〇年近くの付き合いになると言っていました。
その幼馴染みの順子さんが、ご両親が亡くなった後も遺品整理ができず、引きこもりのような生活をしており、まるで廃人のようになっているというのです。
順子さんに元気を取り戻してほしいと思った純子さんは、遺品整理がそのきっかけになるのではないかと思ったというのです。どこまでお役に立てるかはわからないけれど、話だけでも聞いてみようと、僕は純子さんと一緒に順子さんの家へ向かいました。
到着した順子さんの家はいたって普通の外観をしていました。庭も荒れているわけではなく、外から見える障子や網戸なども破れてはいません。
「今日はお任せするので、順子ちゃんをお願いします」
純子さんはこれまで、何度もここを訪れ、順子さんに話しかけ、話を聞き、寄り添ってきたのだといいます。それでも、順子さんを立ち直らせることはできませんでした。
玄関に入って驚きました。家の中は半分、ゴミ屋敷状態だったのです。歩く場所やドアの開閉に必要な場所以外は、片付けられていないもので埋もれているのです。純子さんに連れられて入ったリビングも同じ状態でした。暗く、重い空気が漂っていました。そして、その奥に順子さんが座っていたのです。
純子さんが僕を紹介してくれたので、「こんにちは」と挨拶をしましたが、順子さんは僕を一瞥しただけで、すぐに目を伏せました。純子さんから二人は五五歳と聞いていたのですが、順子さんは七〇代に見えました。一方で、明るく元気な純子さんは四〇代に見えます。
僕は順子さんのそばの床に腰を下ろしました。純子さんは順子さんの隣に座ります。何でもいいので、とにかく話をしてもらおうと思いました。順子さんの気持ちが内側に閉じこもっているように見えたからです。
「花粉症は平気ですか? 僕はひどいんですけど」「あそこのビル、取り壊されるそうですよ」「この商品、好きなんですか?」
季節の話や窓から見えるもの、室内に散乱しているものなど、とにかくいろいろな話をしてみましたが、順子さんは曖昧な相槌を打つ程度しか反応してくれません。
気がつけば三時間も話し続けていました。時計の針は一七時に近づいています。日をあらためたほうがいいかもしれないと思いました。
親友がくれた人生を再出発する勇気「何かお役に立てることがないかと思って伺ったんですけど、すみません、しゃべりすぎちゃいました。ご迷惑だと思うのでそろそろ帰らせていただきますね」そう言って、僕が立ち上がろうとしたとき、順子さんが初めて声を漏らしました。「この二〇年、私の居場所は病院とコンビニとこの家だけだったんです」座り直して、僕が顔を合わせると、順子さんは「生きる希望を持てないんです」と言って、静かに話し始めました。二〇年前、順子さんが三五歳のとき、お父さんが脳梗塞で倒れました。半身麻痺と言語障害が残り、介護が必要になったのだといいます。そしてそのすぐあとに、お母さんがパーキンソン病とわかったのです。順子さんは三五歳で仕事を辞め、両親の介護を始めました。一人っ子で、頼れる親戚もおらず、両親を施設に入れるお金もありませんでした。デイサービスを利用しても、二人同時に面倒を見てくれる日はなく、順子さんには介護から逃れられる時間がなかったのです。やがて、貯金も底を尽き、両親の年金と生活保護でなんとか日々の暮らしを凌しのいできたと言います。「気がつけば、結婚もしないまま、こんな歳になってしまって……」涙ながらに話す順子さんの手を、純子さんがしっかりと握ります。順子さんの辛さが伝わって、僕の涙も止まりませんでした。順子さんがぎりぎりの状態まで追い込まれ、心中したいという思いが強くなった頃、お父さんが亡くなりました。そして、それを追うように一年もせずにお母さんも亡くなったのです。純子さんは順子さんの肩を抱き、「つらかったね。つらかったね」と身体をさすりました。「私の人生は介護だけで終わったの。だから私は、このままでいい」そんな順子さんの言葉に、純子さんが強く首を横に振ります。「なに言ってんの順子ちゃん! 五五歳なんて、人生まだまだこれからだよ!」僕は順子さんに、純子さんのことを話しました。「あなたのことをこれだけ思いやってくれている人がいるんですから、きっと大丈夫ですよ」そして、純子さんの思いが通じたのか、順子さんはようやく遺品整理に応じてくれたのです。遺品整理にかかる二日間、順子さんには純子さんの家で過ごしてもらいました。僕たちは遺品の整理だけでなく、家の中も順子さんが過ごしやすくなるよう、きれいに片付けてから二人の「じゅん子さん」を招き入れたのです。その部屋を見た順子さんは、涙を流して純子さんの手を取りました。「純ちゃん、ありがとう。これからはお父さんとお母さんの分も、純ちゃんみたいに頑張る」前向きになってくれた順子さんは、「まずは仕事を探さなくちゃ」と言って笑いました。ずっと想ってくれた友人が支えとなって、再出発する勇気が持てたのです。
親友がくれた人生を再出発する勇気「何かお役に立てることがないかと思って伺ったんですけど、すみません、しゃべりすぎちゃいました。ご迷惑だと思うのでそろそろ帰らせていただきますね」そう言って、僕が立ち上がろうとしたとき、順子さんが初めて声を漏らしました。「この二〇年、私の居場所は病院とコンビニとこの家だけだったんです」座り直して、僕が顔を合わせると、順子さんは「生きる希望を持てないんです」と言って、静かに話し始めました。二〇年前、順子さんが三五歳のとき、お父さんが脳梗塞で倒れました。半身麻痺と言語障害が残り、介護が必要になったのだといいます。そしてそのすぐあとに、お母さんがパーキンソン病とわかったのです。順子さんは三五歳で仕事を辞め、両親の介護を始めました。一人っ子で、頼れる親戚もおらず、両親を施設に入れるお金もありませんでした。デイサービスを利用しても、二人同時に面倒を見てくれる日はなく、順子さんには介護から逃れられる時間がなかったのです。やがて、貯金も底を尽き、両親の年金と生活保護でなんとか日々の暮らしを凌しのいできたと言います。「気がつけば、結婚もしないまま、こんな歳になってしまって……」涙ながらに話す順子さんの手を、純子さんがしっかりと握ります。順子さんの辛さが伝わって、僕の涙も止まりませんでした。順子さんがぎりぎりの状態まで追い込まれ、心中したいという思いが強くなった頃、お父さんが亡くなりました。そして、それを追うように一年もせずにお母さんも亡くなったのです。純子さんは順子さんの肩を抱き、「つらかったね。つらかったね」と身体をさすりました。「私の人生は介護だけで終わったの。だから私は、このままでいい」そんな順子さんの言葉に、純子さんが強く首を横に振ります。「なに言ってんの順子ちゃん! 五五歳なんて、人生まだまだこれからだよ!」僕は順子さんに、純子さんのことを話しました。「あなたのことをこれだけ思いやってくれている人がいるんですから、きっと大丈夫ですよ」そして、純子さんの思いが通じたのか、順子さんはようやく遺品整理に応じてくれたのです。遺品整理にかかる二日間、順子さんには純子さんの家で過ごしてもらいました。僕たちは遺品の整理だけでなく、家の中も順子さんが過ごしやすくなるよう、きれいに片付けてから二人の「じゅん子さん」を招き入れたのです。その部屋を見た順子さんは、涙を流して純子さんの手を取りました。「純ちゃん、ありがとう。これからはお父さんとお母さんの分も、純ちゃんみたいに頑張る」前向きになってくれた順子さんは、「まずは仕事を探さなくちゃ」と言って笑いました。ずっと想ってくれた友人が支えとなって、再出発する勇気が持てたのです。
「何かお役に立てることがないかと思って伺ったんですけど、すみません、しゃべりすぎちゃいました。ご迷惑だと思うのでそろそろ帰らせていただきますね」
そう言って、僕が立ち上がろうとしたとき、順子さんが初めて声を漏らしました。
「この二〇年、私の居場所は病院とコンビニとこの家だけだったんです」
座り直して、僕が顔を合わせると、順子さんは「生きる希望を持てないんです」と言って、静かに話し始めました。
二〇年前、順子さんが三五歳のとき、お父さんが脳梗塞で倒れました。半身麻痺と言語障害が残り、介護が必要になったのだといいます。そしてそのすぐあとに、お母さんがパーキンソン病とわかったのです。
順子さんは三五歳で仕事を辞め、両親の介護を始めました。一人っ子で、頼れる親戚もおらず、両親を施設に入れるお金もありませんでした。デイサービスを利用しても、二人同時に面倒を見てくれる日はなく、順子さんには介護から逃れられる時間がなかったのです。
やがて、貯金も底を尽き、両親の年金と生活保護でなんとか日々の暮らしを凌しのいできたと言います。
「気がつけば、結婚もしないまま、こんな歳になってしまって……」
涙ながらに話す順子さんの手を、純子さんがしっかりと握ります。順子さんの辛さが伝わって、僕の涙も止まりませんでした。
順子さんがぎりぎりの状態まで追い込まれ、心中したいという思いが強くなった頃、お父さんが亡くなりました。そして、それを追うように一年もせずにお母さんも亡くなったのです。
純子さんは順子さんの肩を抱き、「つらかったね。つらかったね」と身体をさすりました。
「私の人生は介護だけで終わったの。だから私は、このままでいい」
そんな順子さんの言葉に、純子さんが強く首を横に振ります。
「なに言ってんの順子ちゃん! 五五歳なんて、人生まだまだこれからだよ!」
僕は順子さんに、純子さんのことを話しました。
「あなたのことをこれだけ思いやってくれている人がいるんですから、きっと大丈夫ですよ」
そして、純子さんの思いが通じたのか、順子さんはようやく遺品整理に応じてくれたのです。遺品整理にかかる二日間、順子さんには純子さんの家で過ごしてもらいました。
僕たちは遺品の整理だけでなく、家の中も順子さんが過ごしやすくなるよう、きれいに片付けてから二人の「じゅん子さん」を招き入れたのです。
その部屋を見た順子さんは、涙を流して純子さんの手を取りました。
「純ちゃん、ありがとう。これからはお父さんとお母さんの分も、純ちゃんみたいに頑張る」前向きになってくれた順子さんは、「まずは仕事を探さなくちゃ」と言って笑いました。
ずっと想ってくれた友人が支えとなって、再出発する勇気が持てたのです。

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