「はい、論破!」教室は”マウント地獄”と化している…小学校で広がっている「静かな学級崩壊」のヤバすぎる実態

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学校に居心地の悪さを感じている子どもたちは、フリースクール、子ども食堂、無料塾などに比較的多く集まっている。こうしたところで子どもたちに「学校の何が嫌なのか」と尋ねると、おおよそ同じ言葉が返ってくる。
「教室の“アツ”がすごい」
アツとは、圧力、プレッシャーのことだ。教室の空気があまりに重苦しく、耐えられないほどだという意味だ。
現在の教室には、コンプライアンスの徹底により、あからさまないじめや体罰はなくなった。だが、それと入れ替わって出てきたのは次のような諸問題だ。
長い学校滞在時間、人の一面のみでの決めつけ、静かな学級崩壊、新たな校内暴力、褒められ中毒……。これらが子どもたちの足枷となって登校意欲を減退させる。
校長(東海、50代男性)は言う。
「教室では、子どもたちがそこかしこで“マウント合戦”をしています。今の子どもたちは、昔みたいに乱暴な言動で相手を抑圧しない代わりに、『受験しないヤツはクズ』とか『え、お前、スマホ持ってないの?』といった陰湿で間接的な表現で他人を貶めようとします。現代は、ゲーム、アプリ、アイドル、漫画などいろんなものが世の中に溢れていますよね。子どもたちは各々得意なところでマウント(優位性)を取ろうとするので、あっちへ行っても、こっちへ行っても、何かしらの圧力を加えられるのです」
どれだけ学校が協調を呼びかけたところで、子どもが“カースト”を作り、少しでも立場を上げようとするのはいつの時代も同じだ。
昔は、ガキ大将に象徴されるように、それが腕力などわかりやすい形で行われていた。先生はそんなガキ大将の頭をゴツンとやればよかった。
だが、今の子どもたちは大人に気づかれないように、言葉で他人を貶め、自らのカーストを上げようとする。先生にしてみれば、こうした状況を改善するのは簡単なことではないだろう。多忙な業務と並行しつつ、子どもたちの一言一句に耳をそばだて、介入していくことなど不可能に等しい。
校長はつづける。
「今の子どもたちは、幼い頃から雑多な人間関係の中に身を置いていないので、人との接し方が驚くくらいに下手です。その場の空気を読むとか、相手の気持ちを考えるとか、言葉を選ぶといったことができない。
そのせいなのでしょう、友達と他愛もない話をしていても、簡単に『おまえ、雑魚でしょ』とか『はい、論破~』なんて驚くような冷たい言い方をする。我々が『そういう表現はやめなさい』と注意しても、何が悪いのかという顔をしてきます。そんな言葉を使ったら相手がどれくらい傷つくかを考える力がないのです。
こうした悪い表現は子どもたちの間にすぐに広まります。それで子どもたちのマウント合戦は、知らないところでどんどん攻撃性の強いものになっていくのです」
加害者側が罪の意識を持っていなければ、それをやめようという意識にはならないだろう。
この他にも、先生たちからは、ネットで使われている言葉や表現が子どもたちのマウント合戦をエスカレートさせているのではないかという意見も上がった。
たとえば、「草」とはネット用語で「笑える」「ウケる」の意味だが、子どもたちは簡単に「こいつ、点数悪すぎて草」とか「マジで草」といった表現をする。ネット用語なのであからさまな悪口ではないが、言われた子どもは大きなショックを受けるはずだ。
また、一時期流行った「それってあなたの感想ですよね」も頻繁に使われている。発言する側は流行語を発しただけという認識だが、言われた側にしてみれば、対話を一方的に遮断されたと感じる。完全否定されたのと同じだ。
教室の中で、そんな言葉の応酬がくり広げられれば、子どもたちがアツを感じるのは仕方のないことだろう。
今の学校の教室で行われているマウント合戦。柔軟性のある子なら、うまく受け流せるかもしれないが、そうでない子は飛び交う言葉に傷つき、疲弊していく。
そんな子どもたちがわが身を守るためにするのが“キャラ化”だ。
先生(関西、40代女性)は言う。
「学校では個性を出そう、自己表現をしようと伝えています。それが主体性を築き上げていく上で大切なことだとされているのです。
しかし、傷つきやすい子どもたちは、生身の自分を表に出そうとしません。みんなの前で、個性を見せて自分なりの意見を言って、それを周りから否定されたらつらいじゃないですか。自分の全人格が否定されたようなショックを受ける。
だからどうするかっていうと、子どもたちは本当の自分ではなく、代わりの何かに扮するのです。最近はそれを“キャラ”と呼ぶ人もいますが、何かしらのキャラを演じるようになるのです。
たとえば、教室で何かのキャラに扮していたとしますよね。もし周りの人から馬鹿にされても、それはキャラが否定されただけで、自分がそうされたわけではないと考えられ、気持ち的に楽になるらしいのです」
子どもたちのキャラ化現象は、2009年に筑波大学の土井隆義教授が『キャラ化する/される子どもたち』(岩波ブックレット)で指摘している。先の先生によれば、あれから15年ほどが経ち、キャラのバリエーションが膨らんでいるという。
彼らが口にするキャラとしては、「陽キャ」「陰キャ」「キモキャラ」「天然キャラ」「いじられキャラ」「キラキラキャラ」「突っ込みキャラ」「真面目キャラ」「姉御キャラ」「癒しキャラ」などがある。
最近の子どもたちはキャラに合わせてあだ名を作るらしい。たとえば、「陰キャ」の子が日高太陽という名前だとちぐはぐな感じがする。そこで、みんなで話し合って「ゾゾ男」みたいなあだ名を決めるのだ。
このようにして、子どもたちは教室でそれぞれのキャラに扮して過ごす。陽キャはどこまでも陽キャに徹し、いじられキャラはどこまでもいじられキャラに徹する。
そこで多少傷つくことを言われても、これはゲームのようなものなのだと思えるので、痛みを緩和することができる。そしてどこかでうまくいかなくなれば、“キャラ変(キャラを変える)”して別のキャラに変身すればいい。
少し前に、この先生が担任していた小学6年のクラスでは、子どもたちがアニメのキャラに自分たちを投影し、お互いをそのキャラの名前で呼び合いながら、演技をするように接していたという。
小学6年の中盤に差しかかった頃、先生は廊下で数人の男の子がD君をからかっているのを目撃した。
D君は肥満体型で、教室では『ポケットモンスター』の太ったキャラの「カビゴン」というあだ名を名乗っていた。いつも食べるか寝るかしている癒しキャラだ。この時、男の子たちは、D君にカビゴンの真似事をさせて笑っていた。
先生は見かねて、その子たちを呼んで注意した。
「寄ってたかって意地悪なことを言ったら、いじめになるよ。絶対にそういうことしちゃダメ。いいね?」
子どもたちは一様に不服そうな表情をしていた。何か言いたいことがあるのかと尋ねると、ある子が答えた。
「別に俺たち意地悪なんてしてません。カビゴンだからカビゴンと言ってただけです」
他の子たちもうなずいた。先生は毅然として言った。
「D君はカビゴンじゃないでしょ。D君はD君です。彼の気持ちを考えてあげて」
すると、D君が言った。
「先生、もういいです。僕、カビゴンって嫌じゃないし、普通に遊んでいただけだから」
「そんなキャラを演じなくていいの。みんなもカビゴンなんて呼ばないで、D君をちゃんとD君と呼んでちゃんと付き合おうよ。わかったね。これからクラスでは変なあだ名で呼ばないこと」
子どもたちは面倒臭そうに「うん」と言って去っていった。
しかし先生の意に反して、翌日からD君は学校を少しずつ休みがちになった。何がいけなかったのか。
後日、先生はD君を呼んで事情を尋ねた。D君は答えた。
「僕、先生にカビゴンをやめろって言われてから、みんなの前でどう振る舞っていいかわかりません。みんなと付き合う自信がないんです」
おそらくこのD君はカビゴンのキャラを演じることで、からかわれても「カビゴンが馬鹿にされているだけ」と考え、なんとか他の子とつながっていたのだろう。
彼にとってキャラは“心を守る鎧”のようなものだった。しかし、先生から教室でそれを禁じられたことで、クラスメイトとの接し方がわからなくなり、学校を休むようになったのだ。
世の中には「ありのままに」とか「本来の自分で」という言葉がもっともらしく飛び交っているが、教室ではそれと反対の現象が起きているのである。
———-石井 光太(いしい・こうた)ノンフィクション作家1977年東京生まれ。作家。国内外の貧困、災害、事件などをテーマに取材・執筆活動をおこなう。著書に『物乞う仏陀』(文春文庫)、『神の棄てた裸体 イスラームの夜を歩く』『遺体 震災、津波の果てに』(いずれも新潮文庫)など多数。2021年『こどもホスピスの奇跡』(新潮社)で新潮ドキュメント賞を受賞。———-
(ノンフィクション作家 石井 光太)

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