イタリア人が営む「老舗ラーメン店」の人生ドラマ

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

西武新宿線・西武柳沢駅にある老舗ラーメン店「一八亭」を営むジャンニさん。イタリア出身の彼が、1984年から続く店を経営している理由とは?(筆者撮影)
西武新宿線・西武柳沢駅の南口から徒歩7分。都道4号線沿いの東伏見稲荷神社の近くに一軒の老舗ラーメン店がある。「一八亭」(いっぱちてい)だ。
ここはイタリア人の店主・ジャンニさんが切り盛りするお店として話題だ。昔ながらの中華そばから、ジャンニさんの繰り出すイタリアンな創作ラーメンまで人気で、朝方まで多くのお客さんでにぎわう。
「今でも忘れませんが、初めて食べたのは辛味噌ラーメン。それ以来、味噌ラーメンが大好きになりました。毎日が楽しく、大変と思う事もありません」
今でこそそう語るジャンニさんだが、店を継いで数年間は、客が来ない苦しい時期を過ごした。
彼はいかにして、異国の地・日本でラーメン店を営み、自分らしい生き方を手に入れたのか。奥深い、ライフストーリーを伺った。
【画像11枚】西武柳沢の人気ラーメン店「一八亭」。イタリア人店主だからできた、ラーメン×イタリアンな超絶品メニューがこちら
店主のジャンマリオーリ・ジャンニさんはイタリア・ローマ生まれの57歳。2004年1月、タイに遊びに行っている時に、後に妻となる知枝さんに出会う。知枝さんはタイ語の勉強のためタイに行っていて、ジャンニさんは知枝さんに一目惚れをした。ジャンニさんと知枝さんはすぐ仲良くなった。
3月にジャンニさんはイタリアに戻った。当時ジャンニさんは植木屋をやっていたが、友人とタイで仕事を始めることになり、仕事をやめてタイに移ることにした。
そこでもう一度知枝さんに会うことになる。ここから2人の交際が始まった。その後、知枝さんはタイ語の勉強を終え、7月に日本に戻ることになる。
そして9月、ジャンニさんは知枝さんに電話をし、「私も日本に行く」と伝える。ジャンニさんは六本木のイタリア料理店でウェイターの仕事を見つけ、日本に移住することにした。知枝さんと出会ってから、約8カ月でのことだった。
そんな知枝さんの実家は西東京市でラーメン店を営んでいた。それが、1984年にオープンした「一八亭」だ。
こちらが「一八亭」の現在の様子(筆者撮影)
ジャンニさんは「一八亭」の2階に転がり込んだ。ラーメン店を手伝うという選択肢も浮かんだが、知枝さんから「ラーメン屋を手伝うのは無理よ」と断られた。ジャンニさんは「なぜ?」と疑問に思ったが、しばらくイタリアンのお店で働き続けた。
しかし、年末年始にはお店が猫の手も借りたいほど忙しく、ジャンニさんはついにお店を手伝うことに。はじめは皿洗いからスタートしたが、そのうち休みの日に仕込みの手伝いをすることになる。ジャンニさんはイタリアンの仕事から帰ってはカウンターで「一八亭」のラーメンを食べ、その作り方を目で見て覚えていた。
ふたりは2005年8月に結婚。11月には、出会った地であるタイの教会で結婚式を挙げた。
そして時は2007年1月、働いていた中国人のスタッフが故郷に帰ることになり、人がいなくなってしまった。
そこで、ジャンニさんはそのスタッフに付きっきりで1カ月かけて必死でラーメン作りを覚えた。そして、その後、4月からはジャンニさんがお店を切り盛りすることになった。
ところが、そこからは苦労の連続だった。
「お客さんたちは急にヨーロッパ人がお店に立ち出したのでビックリしたようです。お店に入って私の顔を見て出ていく人が毎日3~4人はいました。ショックとストレスで何度も辞めたいと思いました」(ジャンニさん)
ジャンニさんは語学学校に通うこともなかったので、日本語のコミュニケーションも厳しく、ラーメン作りよりも接客に非常に苦労した。店に立ち出してから3~4年は大変な時期が続いた。
「『外国人がラーメンなんか作れるわけがない』と思われていたんだと思います。そもそも外国人が好きではない人も多かったと思いますし、味がわかっていないと判断されていたんだと思います。都心にはまだ外国人のラーメン店はあったかもしれませんが、ここは田舎なのでなおさらだったんです」(ジャンニさん)
その後、リーマンショックや東日本大震災などの影響で売り上げが落ち込んでいった。知枝さんからは、
「無理しなくていいよ。お店をやめよう」
と声をかけられた。店の2階に転がり込んだ時に、知枝さんから「ラーメン屋を手伝うのは無理よ」と言われた、その真意に気付いた。
だが、ジャンニさんが諦めることはなかった。
「ここで諦めてはダメだ。まだまだ頑張ろう」
(筆者撮影)
そう自分に声をかけながら、2010年ごろからは新しいメニューにチャレンジしようと、イタリア風の油そばをラインナップした。もともと営業が終わった後にジャンニさんがまかないとして作っていたメニューだったが、
「これ美味しいからメニューにしてみよう。ダメだったらやめればいいから」
という知枝さんの意見からメニュー化された。結果、知枝さんの予想は見事に的中し、油そばは若いお客さんには一番人気になった。
それまでは創業当時からのラーメンを出していたが、ここからジャンニさんのオリジナルのメニュー開発がスタートする。その後、自家製麺をスタートし、パスタ用のセモリナ粉をブレンドして作った極太麺が誕生した。
こちらが「ジェノヴェーゼ」。ラーメン好きにも、パスタ好きにも響くこと必至の一杯だ(筆者撮影)
2012年からは「ジェノヴェーゼ」の提供がスタート。塩ラーメンにバジルペーストを合わせた斬新な一杯で、ここに自慢の極太麺を合わせた。バジルがたっぷり入った緑色のスープだが、ベースの塩スープがしっかりラーメンらしい味わいで、ラーメンとしてきちんと仕上がっているのが特徴だ。
現在は「味噌ポナータ」「ジェノヴェーゼ」「ローマのまぜそば」などのメニューが並ぶ。これも、知枝さんの後押しがあったからこそだ(筆者撮影)
この他、サイドメニューとしてモッツァレラ餃子などもラインナップし、ジャンニさんオリジナルメニューが次々ヒットする。このころから、テレビの取材も入るようになり、客足も一気に伸びていった。
「一八亭」は昼の11時から朝方4時まで営業している。昼営業はジャンニさん、夜営業は知枝さんで切り盛りしているため、平日はほとんど一緒に過ごすことができない。唯一日曜日は22時半までの営業なので、日曜の夜と定休日の月曜日だけ2人で過ごすことができる。
ジャンニさんと知枝さん。ラーメンはもちろんのこと、ふたりの人柄に惹かれて足を運ぶ常連も多い/筆者撮影)
今や、ジャンニさんに会いに来る常連客がたくさんいる。老若男女さまざまなお客さんがいるが、みんなジャンニさんとおしゃべりしに来たり、週末はお酒を飲みに来てくれたりする。
ラーメン店だが朝方まで営業。飲むこともできる(筆者撮影)
「私がお店に立ち始めた頃は、外国人がラーメン屋で働いていること自体がまだまれでした。その後、日本料理を外国人が手がけることが増えてきて、今や世界は日本ブーム。ラーメンも世界のものになりました。
日本人のシェフがイタリアンを手掛けるのと同じく、外国人がラーメン屋をやることも珍しくなくなりました。当時はここまでラーメンがすごくなるとは思わなかったです」(ジャンニさん)
調理中のジャンニさん。熟練の腕を感じさせる、ほれぼれする手際の良さだ(筆者撮影)
外国からの日本ツアーが増えて、一気にラーメンが人気になった印象だという。
ジャンニさんが来日した当時は、外国人にとっては「ラーメンって何?」という状態だった。日本と言えばマンガやアニメのイメージで、ジャンニさんもラーメンという食べ物自体知らなかった。
ジャンニさんが「一八亭」に立ち始めた頃、地元の友達にその話をしてもまったく伝わらなかったが、今ではイタリアにも当たり前にラーメンがある。時代が変わったのだ。
セモリナ粉を混ぜて作ったコシのある極太麺。独創的なアイデアは、ジャンニさんのバックボーンから生まれた(筆者撮影)

「私は日本に来てこの店で初めてラーメンを食べました。今でも忘れませんが、初めて食べたのは辛味噌ラーメン。それ以来、味噌ラーメンが大好きになりました。
毎日が楽しく、大変と思う事もありません。美味しいものを出せばお客さんはまた来てくれます。妻とは『2人で続けられるまで続けよう』と話しています」(ジャンニさん)
知枝さんと出会ったことで、ジャンニさんの人生は変わり、そして一軒の老舗ラーメン店が歴史を絶やさずに、地域で愛され続けることとなった。
外国人がラーメン屋の厨房に立つのが、当たり前の時代になりつつある現在。ジャンニさんの半生は、現在のラーメン業界の一端を象徴する物語でもあるのだ。
調理中のジャンニさん。立ち振る舞いに、気品を感じる(筆者撮影)
ここでしか食べられない一杯は、夫婦の物語の先に生まれたのだ(筆者撮影)
この連載の一覧はこちら
(井手隊長 : ラーメンライター/ミュージシャン)

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。