〈「ほかの男とやったことがわかると頭に来る」女子高校生を男4人で監禁・集団暴行・コンクリート詰めに…心理鑑定で見えた、準主犯格Bの屈折した精神状態〉から続く
史上最悪の少年犯罪と呼ばれる「綾瀬女子高校生コンクリート詰め殺人事件」。たった7日間しかなかった昭和64年(1989年)1月に被害者のX子さんは命を落とした。
【衝撃画像】「自分に科される刑はなんだろう」準主犯格Bから著者に届いた直筆の手紙を見る
事件から15年後、「報道ステーション」ディレクター(当時)で、現在は北海道放送(HBC)報道部デスクを務める山裕侍氏は、準主犯格Bの母親に話を聞いた。事件前後の家庭環境と、母親の視点から見た息子の姿とは――。1月7日の発売直後に重版がかかるなど大きな注目を集める山氏の著書『償い 綾瀬女子高校生コンクリート詰め殺人事件 6人の加害少年を追って』より一部を抜粋して紹介する。(全2回の2回目/最初から読む)
aflo_211540899_Z
◆◆◆
1990年7月20日、東京地裁で一審判決が下された。検察はBに対して懲役13年を求刑したが、判決は〈Aに次ぐ地位で、Aの指示を受けずに自ら被害者に暴行を加えたこともあった〉として、懲役5年以上10年以下の不定期刑を言い渡した。求刑よりも軽くした理由を〈Bにはさしたる保護処分歴がないこと、両親が法廷で被害者らに対する心からのお詫びの心情を述べ、金額的には僅かながら、遺族らに将来償いをする資金のための預金を継続的に開始し、今後も同被告人を温かく支え続けることを申し出ていること〉と説明している。
1990年8月1日、東京地検がA・B・C・D4人全員について、量刑不当として東京高裁に控訴。翌2日、Bの弁護人は検察側の控訴に対抗し、量刑不当を訴え東京高裁に控訴した。
1991年7月12日、東京高裁で控訴審の判決が言い渡された。Bに関しては懲役5年以上10年以下の不定期刑とした一審判決を支持し、検察側・弁護側双方の控訴を棄却した。東京高裁はBの量刑を考慮した理由を以下のように述べている。
〈同被告人が、本件を深く反省し、原判決後も、弁護人の熱心な指導を受けて、勉学、読書、写経などを続け、いっそう内省を深め、成長の跡が相当に窺えることなど、同被告人のため斟酌できる事情もある〉
高裁判決でBの情状が認められた要因のひとつに、母親が一審判決後も被害者遺族に対する賠償金の積み立てを続け、判決当時で161万円に達していたということがあった。
「賠償金を払うために161万円を積み立てましたね。その金はそのあとどうしたんですか?」
「そのあと、店のほうもうまくいかなかったんで、それを使ったこともありました」
「まだいくらか残っているのですか?」
「いや、残っていないです。今、私は一銭もないです。ですから、今、ほかに家を借りる金銭的なこともできないわけですから」
X子さんの遺族は主犯格Aの両親からの賠償金5000万円は受け取ったが、ほかの加害者からの賠償金は受け取りを拒否した。確かに日々の生活にも苦労したのはわかる。だが、一銭も残っていないとは。店の赤字にまわしたことを、悔やむ素振りすら見せない。
Bは川越少年刑務所、奈良少年刑務所、滋賀刑務所と3つの刑務所で8年間過ごした。逮捕・勾留された期間も含めると10年に及ぶ。Bは毎日写経し、母親から差し入れてもらったドストエフスキーの小説を読んでいたという。母親は2カ月に1回は面会を重ね、月に2、3通は手紙をやり取りしたと話す。
「面会したときのBは?」
「とても嬉しそうに……していました」
「どんな会話をしましたか?」
「刑務所に来る途中のこととかで終わっていたと思います」
面会では事件のことは一切触れなかったという。
「Bの様子は?」
「うーん、自分を弱く見せたくない感じの。本当は弱いんだけど、弱く見せたくないという生き方をしているなっていう感じはありました」
「どんなところで、ですか?」
「人がちょっかい出すことも、自分で受けて立つ。ここのなかでは、おとなしくしてなきゃいけないんだよ、と思うことも、挑発されるとそれに乗っちゃう」
Bは刑務所で度々トラブルを起こし、長くて40日間の懲罰を受けたこともあった。ほかの受刑者から挑発を受け、喧嘩や口論を起こしたのが原因だ。模範囚ではなかったため仮釈放とはならず、満期での出所となった。出所したときの所持金は15万円だった。
1999年8月3日に出所したとき、Bは28歳。人生の3分の1以上を獄中で過ごしたことになる。30度近い暑さのなか、母親が車で迎えに行った。Bは母親の姿を見ると子どものようにはしゃいだ。刑務所では成長を感じられた息子だが、このときは逮捕された17歳のころに戻ったようだった。喜ぶBとは対照的に、「どうやって社会復帰させようか」と母親の胸には不安が押し寄せていたという。母親は事件発覚の翌年には綾瀬から埼玉県内のマンションに引っ越していた。3歳上の姉はすでに結婚して家を出ていたため、母と息子の2人暮らしが始まる。
Bは服役中に簿記2級、第二種情報処理(現・基本情報技術者)、危険物取扱者の資格を取り、プログラミングを独学した。服役中も、綾瀬事件の弁護団の一人だった弁護士から、コンピューター関連の会社を紹介されていた。会社の社長は出所する前から「いつ帰ってくるんだ」と待っていてくれたという。
出所して半月後に本格的に仕事を始めた。サーバーの組み立てや設定・保守などを行う技術部に配属された。朝5時に起床し、黒く染めた髪を整え、スーツを来て出勤する日々。更生に向けて順調に新しい生活を始めた息子を母親は見守っていた。
「母親から見てBの仕事ぶりは?」
「すごく生きがいがあって、はい。元通りになったんだという安堵感はありました。そのときは。普通の年相応の男の人に見えました」
当時のBについて話す口調は明るい。時計の針は午後5時を過ぎていた。夏の日差しはいくぶんおさまり、畳には母親の小さな薄い影が映る。
「頑張っているように見えました?」
「はい。そうです」
「彼としては、出てきたあとは、社会に溶け込んでまじめにやろうという意思があったんですか?」
「そうだと思います」
月収は30万円で待遇は悪くなかったが、自宅にパソコンはなく、刑務所で取った資格と異なる仕事で苦労した。Bは皆勤を続けてきた会社を1年で辞めてしまう。そして新宿に事務所があるコンピューター派遣会社を自分で探してきて、プログラマーやシステムエンジニアとして働き始める。そこでは月収40万円をもらったときもあった。
「とても一生懸命やっていました。刑務所で習ってきた内容だけでは、自分の知識が足りなくて、自分なりに勉強していました。本を買って」

出所してすぐに、Bは足立区の都営団地に住む父親を突然訪ねている。父親は再婚した妻とのあいだに一男一女をもうけていた。異母弟は19歳、異母妹は13歳になっていた。
「父親の息子と、サーフィンをやるといって、それで、なんか、セットを買い込んできた記憶もあります。そうしたら、義理の弟が悪いことをしていたようだったので殴ってしまった。それで、結局その母親とうまくいかなくなったんですね」
父親の家を訪ねて暴力を振るったことは確かなようだ。Bなりの正義感なのか、暴走なのか、わからない。
休日は自宅で過ごすことが多かった。このころ、綾瀬事件の本を読んだり、事件を題材にしたビデオをレンタルビデオ店から借りてきて観たりしていたという。
「暇に飽かして自分の事件の本を読んだりしてましたから。ビデオも観ていますね。『内容は違うよ』とひとこと言っていましたけど」
「息子さんは償いの意思はどうだったのですか?」
「刑務所から帰ってきてから、何回かは(遺棄現場の)若洲に行っていると思います。本人もあまり、言わないけど」
「何回くらい行っていましたか?」
「何回か、わかりませんけど……そんなような会話はしていました」
「どんな会話ですか?」
「ずいぶん変わっちゃってという言い方をしていた気がします」
「若洲で何をしたか話しました?」
「わかりません。そういう細かいこと、自分がしたことを言う子ではないので。いつも、自分の気持ちと違う、本当は優しいんですけど、それを出せない性格になっているという……」
「ご自身としては、どう償っていこうと? お金以外でどういうことを考えていましたか?」
「まあ、(被害者遺族は)住所も引っ越されちゃって、だから気持ちとしては、いつも、忘れることはできないですけど、何もできない状態」
「気持ちとしては?」
「気持ちとしては、いつも引きずって歩いています。一緒に。引きずるという言い方はないですけど」
若洲に行ったのは何のためか。裁判で決意した「償い」のために何をしたのか。母親の話からはまったくわからなかった。
(山 裕侍/ノンフィクション出版)