琵琶湖のほとりという風光明媚で静かな温泉地のすぐ目の前に、高度成長期、突如としてできあがった一大遊興街・雄琴。昭和49年時点で31軒のソープが並び、総部屋数600室を誇り、従業員女性は800人を越え、1日3000人の客が訪れたとされている。
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しかし現在は、ソープの店舗数が激減し、家族連れや女性が訪れる温泉地としての賑わいを取り戻しつつある。
いったいなぜ、静かな温泉地だった雄琴に色街が誕生したのか。どんな人たちが雄琴の色街で働いているのか。ノンフィクション作家のフリート横田氏が、現地で取材した。(全2回の1回目/2回目に続く)
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「客引きの男たちがね、車のボンネットに乗っちゃって足止めするくらいの激しさだったの。それが雄琴。なにもない、車でしか来られないところにできた、『トルコ街』だったわけだから」
とある元「トルコ嬢」が私の前で、昔見た光景を回想してくれたことがある。彼女は昭和末期、関東・関西の色街を行き来し働いた女性だった。田んぼの真ん中に人工的に造成された、陸の孤島のような遊興地、一角へと進んでくる車はすべて見込み客と見なし、荒っぽく取り合ったのだ。
ゴールデンゲートというアーチの向こうにソープ街が広がっている(筆者撮影)
〈※「ソープランド」はかつて「トルコ風呂」と呼ばれていた。1984年、トルコ人留学生の抗議をきっかけに「トルコ風呂」の呼称は撤廃されたが、本記事では時代的文脈を生かすべき箇所は当時の呼称とし、ほかはソープランドの呼称にそろえる。〉
「大阪の奥座敷」――。
そう表現した昭和40年代の週刊誌もある。比叡山のふもと、琵琶湖のほとりという風光明媚で静かな温泉地のすぐ目の前に、高度成長期、突如として一大遊興街ができあがった。それはまさに唐突としかいいようのないスピードと規模だった。滋賀県大津市・雄琴温泉から数百メートルの一角。
私は以前、山梨県の石和温泉のことを書いたことがある。昭和30年代末に、梨畑に忽然と温泉が湧いて、やがて一時期は、ほとんど色街同然となった。その時期の石和は、「高度成長期の色街」だったと言い換えてもいい。
これまであちこちの歓楽街のことを書いてきたが、由緒をひもとけば、江戸以来の遊郭が、当局半ば公認の集娼街「赤線」となって続いていった、伝統的色街も少なくなかった。だが、雄琴も石和とどこか似て、戦後昭和期に突如生まれた。西の「高度成長期の色街」と言えそうな成り立ちなのである。
往時の姿、街の人と「色」の結びつき、そして今を、色街・温泉街、隣り合う2つの街の両方の視線を交差させて書いてみたい――。
おごと温泉駅から、車で県道558号線を南へ進むと、建物がまばらに立つ田園風景が続き、琵琶湖に突き出た突端のような土地までくると、こつ然とゲートが現れる。奥にはお城のような現実感のない建物が密集している。くぐって進むとそこは一大ソープランド街なのだ。だが、放棄されている建物もあるようだ。
「そう、廃墟にまでなってしまっているところは、あとは駐車場にでもなるしかないです」
数十年の歴史を持つある店の関係者はため息をついた。彼をA氏とする。A氏は街の歴史について口を開く。
「田守さん。彼がこの一角を作ったんですよ。たしか北陸やったかな。そっちの新地で商売をされ、ホテル経営などもされて、財を成した方です」
雄琴の色街の仕掛け人といわれる実業家、田守世四郎氏を指している。「新地」とは、遊郭由来の遊興地を言っている。田守氏が昭和46年に、ソープランド(当時はトルコ風呂)1号店『花影』を開業した(昭和44年開業の『歌麿』を1号店とする資料もある)。その経緯については後述する。
さて、最盛期ごろの雑誌記事(「週刊朝日」1974年5月3日号)には、昭和49年時点でここに31軒のソープが並び、総部屋数600室を誇り、従業員女性は800人を越え、1日3000人の客が訪れたとある。現在、滋賀県特殊浴場協会の公式サイトによれば今も29店舗が営業中であり、店舗数は維持され、表面的には賑わいは続いているように見える。
だがここ30年の変遷を現場で見てきたA氏は、昔と今で相当の違いを感じていた。
「(来店数は)ぜんぜん違う。年末なんかね、大渋滞して車がゲート内にも入れない時代だってあったからね。もう、いまは、全く……」
往時の賑わいについては、冒頭の元トルコ嬢の証言と一致する。現役嬢にも話を聞くことができた。
「そう。私も働きはじめたころは、1週間前に予約がぜんぶ埋まってたくらいだから」
結婚・出産を経て20年以上にわたって、今も雄琴ソープで働くB子は続ける。
「昔は女の子が足らんかったぐらいやから。今は逆やからね」
20余年前は、どんな境遇で雄琴にやってくる女性たちが多かったのだろうか。
「そのころ、先輩のお姉さんたちにお話きいてたら、ヒモ飼ってはる人が多かった」
これは筆者が昭和期の色街の話を聞くときも、最もよく出た「女性供給ルート」である。ヒモの男が女性をあっせんするのである。「飼う」、と表現しているが実質は逆だ。ヒモの男は生活費を女性からもらい、飼われているように見えながら、実際は彼女を精神的に縛って君臨、寄生し、搾取し続けるのである。
「ヒモに店からカネを払っていたところもあるくらい。昔の雄琴を『ソープの墓場』という人もいた」
A氏も同意する。立地がわるく陸の孤島のような雄琴の色街へ流れてくることを、墓場、と揶揄する人もいたのだった。女性たちの給料を、あっせん役の男に支払っている場合さえあった。男たちは多くの場合、堅気ではなかった。ヒモは、れっきとした彼らのシノギのひとつなのだった。
「昔は『スカウト』も盛んやったけど、もう長いこと一切うちは使っていない。まあ、人身売買やからね」
「スカウト」と横文字で小綺麗に言おうとも、実質は女衒(ぜげん)。前述のヒモと大差はない。借金で女性を縛って、その身を仲介役として店側に売る。むろん、背後には反社会的組織の存在があった。こうした人々による「女性供給ルート」は制度化され、確固とした歯車に組み込まれることで、色街は日々回転していた。
だが、街も人もすべてを悪とみなすと見誤る。自由意志で働き、家族や子供を養った人々もいる。B子がそうだ。――墓場、とまで言われた遊興街を選んだ理由は?
「金津園も福原も、高級店は、生。でも昔も今も、雄琴は着用です。だから私は雄琴がよかったんです。ここは働きやすいし」
中部地方最大規模の色街・金津園、神戸のソープ街・福原も、高級店は避妊具を使用しないことを売りにしていた一方、雄琴はそうではなかった。雄琴を好んで働く女性たちも同時期に大勢いたことも記憶にとどめたい。
歯車は、ゲートの中ばかりでなく、外側の人々も回していた。
「『リベート』っていうて、キックバックもありましたから。だって、私自身、昔は温泉ホテルまでお客を迎えにいきましたよ。1日で同じ宿に4台も5台も車を出して迎えに行ったこともあります。もう今、一切ないですけどね」(A氏)
やはり、温泉宿と連携していた時代があった。
旅館スタッフが、ソープに一人客を紹介するたびに店側から謝礼が支払われていた。リベートの額も明確に設定されており、やはり制度化されていた。ソープ側スタッフが温泉宿との送迎をするのも常で、ソープ街の路地には、色々な宿の名の入った浴衣を着た男たちがそぞろ歩きする姿が日々見られた。
客はおもに、京阪神エリアの人々。京都にソープランドはない。A氏は、押し付けがましさは少しもみせずに、温泉地や周辺事業の人々にとって、自分たちソープ側からの恩恵は大いにあったはずだと、さらりと言う。
「(雄琴温泉は)大昔からの湯治場ではあったでしょう。でも、戦後は不況なところもあったらしいんですよ。それが、ソープが来てから持ち直したってこともあったと思うんです」
ところが蜜月関係は、今はまったくない。なぜなのだろう。ソープ側からだけみては、その理由は分からない。温泉地からの視線も重ねて見てみよう。
――ということで、温泉宿の人々への取材交渉を試みた。色街の人々への取材交渉も難航したのだが、たった数百メートル先にある温泉街への交渉は、数段難航した。しかし最後に、しかも戦後以来のこの温泉地の変遷をみてきた温泉街の中心的人物、C氏に話を聞くことができた。彼の第一声で、難航の理由は明白だった。
「みんな死ぬ思いで耐えてきて、ようやくそのイメージから脱却できたのに、なぜこんな話をむし返すの?」
〈「今は外国人経営の店が増えている」1日3000人の風俗客が訪れた滋賀県の“ナゾの歓楽街”「雄琴」が、“色街”として衰退していった本当の理由〉へ続く
(フリート横田)