日本維新の会が今、岐路に立たされている。連立政権への参画、相次ぐ離党者、そして表面化した党内対立。その中で、藤田文武共同代表を巡る公金還流疑惑に対し、橋下徹氏が放った「外形的公正性を欠く」という言葉は、単なる一議員への批判に留まらない、維新という政党、そして橋下氏自身の根源的な矛盾を浮き彫りにしている。経済誌プレジデントの元編集長で作家の小倉健一氏が解説する。
【画像】X上で藤田共同代表を断罪した橋下徹氏のポスト
維新の党内対立は、共産党機関誌「赤旗」による「藤田文武共同代表への公金還流疑惑」報道から急速に顕在化した。
報道によれば、藤田氏が代表を務める会社が、維新からの業務委託で利益を得ていたとされる。これに対し、橋下徹氏は即座にXで反応し、「外形的公正性を欠く」と厳しく断罪した。
多くの報道が「維新の内紛」と表層的に報じる中にあって、一方で、その背後にある橋下徹という評論家が掲げる「公正」の物差しが、いかに危ういものであるかも問われるべきだろう。
橋下氏の言葉は、まるで裁定者の如く党内に響き渡り、一部からは「言葉が強すぎる」「党の混乱を助長している」との批判も上がった。しかし、吉村洋文代表は「丁寧に説明させる」としながらも、党としての統一見解は示さなかった。
当事者である藤田氏は「法的には問題ない」と反論するも、この一件は、問題の本質が「法的違反の有無」にあるのではなく、「見た目の公平さ」をめぐる価値判断、すなわち「外形的公正性」の解釈にあると、橋下氏は主張している。
しかし、この「外形的公正性」という概念こそ、橋下氏自身ですら守れていない基準ではないか。彼の主張は、政治の透明性を求める高邁な理念に見えながら、その実態は、彼自身の政治的立ち位置や利害によって、都合よく適用される危うい刀として振るわれている危険性がある。
「外形的公正性」とは、法律上の正しさや内面的な動機がどうであれ、外から見て誰の目にも公平で、疑いを抱かせないように見えることを意味する。これは難解な法律用語ではない。まさに「見た目の公平さ」と読み替えれば、誰でも容易に理解できよう。
橋下氏自身はかつて、この概念を「法に触れなくても、国民から見て不信を持たれるようなことはアウト」と定義した。
例えば、学校の先生がテストを採点する際を想像してみよう。先生は自分の子どもにだけ100点をつけた。ルール上、先生は自分の子どもの答案も採点してよいことになっている。
しかし、他の生徒や保護者はどう思うだろうか。「ズルい」「不公平だ」という声が上がるのは当然である。この場合、たとえ先生が本当に公平に採点したとしても、「見た目」が公平ではないため、先生への信頼は失われる。
「外形的公正性」とは、まさにこの「見た目でズルいと思われるなら、公正ではない」という感覚に基づいている。これは、政治家が国民の信頼を失わないために、法的な正しさのさらに手前で、疑念の芽を摘むための「予防的な正義」として機能するとされる。政治の信頼を守るための、いわば「疑わしきは避ける」という行動規範である。
しかし、この概念が、その提唱者自身によって恣意的に運用される時、それは公正とは真逆の、不公正を生むこととなる。
橋下徹氏が藤田文武氏を断罪した「外形的公正性」という物差しは、彼自身の過去の言動にこそ、鋭く向けられるべきである。彼の発言の一貫性を検証すれば、その公正性が、時としてダブルスタンダードにまみれているかが、わかるだろう。
橋下氏は、吉村洋文氏(大阪府知事、維新代表)に対しては、常に擁護的な姿勢を取り続けている。例えば、かつては「飲み食い政治」そのものを「永田町の古い慣習」「領収書抜きの飲み食い政治の撲滅!」と強く批判していた。
しかし、吉村氏が維新の代表に就任した2022年以降、橋下氏の批判は「<ルールなき>飲み食い政治」へと矮小化された。つまり、「ルールさえあれば飲み食いは容認される」という、批判の基準を一歩後退させているのである。
一方、藤田氏に対しては、法的な問題がないにもかかわらず、「外形的公正性がない」と即座に断罪した。これは、橋下氏が批判の対象を「外見の印象」で選んでいるとしか言いようがない。
橋下氏が主張する「見た目の公正性」は、他者に対しては厳格に適用されるが、自身や身内に対しては、いとも簡単にその基準が緩められているのではないか。
「外形的公正性」とは、本来、誰に対しても等しく適用されるべき普遍的な基準である。それを、自らの都合の良い時だけ持ち出し、気に入らない相手を攻撃する道具とするのであれば、まさに「外形の不公正」そのものである。
このような運用の裏には、橋下氏自身の政治的影響力の維持や、党内における自身の路線への求心力確保という思惑が透けて見えてしまう。
これらは、一見、清廉な政治を求める理想のように見える。しかし、その過度な強調は、民主主義社会において極めて危険な弊害をもたらす。
第一に、形式主義に陥る危険性である。外形的な見た目ばかりを重視すれば、政治家は中身が腐っていても、体裁だけを整えれば良いという思考に陥る。
これは、「中身より見た目」という逆転現象を招き、実質的な政策論議や社会貢献が軽視される風潮を生む。国民の目をごまかすためのパフォーマンスが横行し、政治の本質が空洞化するのだ。
藤田氏のケースも、「法的に問題ない」にもかかわらず「外形が悪い」と断罪されることで、実質的な貢献の有無よりも、形式的な「疑わしさ」が優先されてしまう。
次に、そして最も問題なのは、恣意的な適用である。橋下氏の事例が示すように、この概念は批判する相手にだけ厳しく、自らの側や身内には甘く適用される傾向がある。これは、公正の名のもとに不公正が行われる、という欺瞞に他ならない。
副首都構想なる、莫大な税金が必要なプロジェクトを吉村氏はぶち上げた。しかし、副首都構想という防災目的の政策を無理やり都構想(これも必要性が疑われている)に結びつけることこそ、外形的公正性を欠くのではないか。
大阪は南海トラフ地震での被災が予測されている。公平な基準に見せかけて、実際には政敵を攻撃し、自己の政治的立場を強化する道具として使われるのであれば、このような「都合のいい正義」は、国民の政治への信頼を根底から揺るがす。民主主義社会において許されるものではない。
本来、「外形的公正性」は「説明責任」とセットで語られるべき概念である。「疑われるような見た目」があったとしても、それに対して透明性のある説明を尽くすことで、国民の理解と信頼を得るのが民主主義の健全な姿だ。
疑惑を発生させないこと以上に、発生した疑惑に対し、誠実に説明責任を果たすことの方が、政治の信頼を維持するためにははるかに重要である。疑念を払拭する努力を怠り、「見た目が悪いからダメ」の一言で思考停止を求める態度は、説明責任の放棄であり、民主主義の精神に反する。
藤田文武氏は、たとえ法的には潔白であったとしても、公金還流疑惑によって国民の疑念を招いた点で、政治的説明責任を十分に果たしたとは言えない。その点において、政治家としての責任を免れることはできないであろう。
しかし、より深刻な問題は、その藤田氏を断罪した橋下徹氏が掲げる「公正の物差し」が、自らの発言や態度に対しては、いかにもろく、いかに恣意的であるかという点にある。このような態度は、橋下氏が主張する「見た目の公正さ」を、彼自身が最も欠いているという痛烈な皮肉を呈している。
橋下氏のいう「外形的公正性」は、一見すると国民に寄り添った清廉な政治を求める主張のように響く。しかし実際には、政治を形式主義に陥らせ、政治家から活力を奪い、最終的には彼自身の都合に合わせて解釈・運用されかねない危うい二重基準である。
維新の内紛が激しさを増しているのは疑いようがない。さらに経済合理性を欠いた政策に頼る姿は、これまで維新が批判してきた「ザ・自民党」と変わらない。
藤田氏が共同代表に就任して以降、教育費の税負担化といった分配政策や、万博などの公共事業に依存する従来のリベラル的傾向から、ようやく抜け出そうとする兆しが見え始めていただけに、今回の問題は極めて残念である。
とはいえ、藤田氏には丁寧な説明責任を果たしたうえで、維新が本来の改革政党として再生していくことを願いたい。
文/小倉健一