【前後編の後編/前編を読む】30代同棲カップルを毎夜悩ます“謎の赤ん坊”の泣き声 その矢先に「私、妊娠したみたい」……
これまでに6,000件以上の怪異体験談を蒐集し、語り部としても活動する川奈まり子が世にも不思議な一話をルポルタージュ。
和真さんと歩さん(ともに仮名)は交際中の30代カップルだ。親からのプレッシャーで同棲を決めマンションに入居した2人だったが、近隣の部屋に赤ん坊がいるのか、毎夜、泣き声に悩まされ続ける。だが和真さんが確認すると、右隣に暮らすのは中年の男女、左の部屋には愛想の悪い老人と、それと思しき家族はいない。四方八方から響く赤ん坊の声に再度の引っ越しも考え始めた矢先、歩さんから「妊娠したようだ」と告げられる……。
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【写真を見る】「幽霊でもいいから会いたい」残された遺族の心を救う“死者との再会”
その夜は2人して、頭から蒲団を被って無理やり寝た。不思議と、明け方から日中にかけては赤ん坊の声がしたためしがなかった。そのときも、しらじらと夜が明ける頃にはすっかり静まっていた。
歩さんは翌日、産婦人科を受診した。妊娠5週目に差し掛かっていたと昼休みに電話で報告してきた声は、すっかり落ち着きを取り戻していた。
「順調だって。産んでいいよね?」
「もちろんだよ!」
「安定期に入ったら、実家と和真くんのご両親に報告しなきゃね」
歩さんの声は軽く弾んでいるように聞こえ、和真さんもそこでやっと喜びを感じ始めることができた。
妊娠発覚からおよそ3週間後の、11月のとある日曜日。昼から2人で外出をして、午後6時頃に帰ってきた。この日の天気は曇り。日が沈むと顕著に気温が下がった。2人で体を寄せ合い、近所を歩いていると、前方に右隣の部屋の女性がいた。こちらに背を向け、うつむき加減で、のろのろと歩いている。地味な普段着姿で、手ぶらのようだ。
部屋のすぐ手前で追いつきそうになった。だが、彼女はそのまま、スススーッと右隣の部屋のドアを……開けずに、戸板に、まるで吸い込まれるように消えた。
ギュッと、和真さんの二の腕に歩さんがしがみついた。その手が小刻みに震えている。
「今の、見た?」
「うん。あの人、なんか不気味だと思ってたけど……やっぱり幽霊だったんだ……」
「でも、前に挨拶に行ったときは普通の人だったし。今のは何かの見間違いじゃないかな」
和真さんは、右隣の部屋のドアを開けてみたい衝動に駆られたが、そんな非常識なことはとてもできない。衝撃を受ける歩さんとともに自宅の玄関を開けると……それと同時に、泣き喚く赤ん坊の声が溢れ出した。
真っ暗な室内に、声だけが響く。何処からともなく聞こえ、電気を点けても、何かの姿が見えるわけでもない。ただ泣き声だけが延々と……。
「おかしくなりそう」
歩さんは呻くように呟くと、そのまま床にうずくまってしまった。
「どうした?」
「お腹が痛い。救急車を呼んで!」
一緒に救急車に乗り込むとき、和真さんは再び、先ほどの隣人女性の姿を見た。ひっそりと佇み、こちらを見ていたが、なぜか靴を履いていない。異様だ。やはり幽霊なのか。混乱の中、そんなことが気になった。
救急車が道を急いだが、その甲斐なく、歩さんは流産してしまった。
あの女性の正体は何か。その疑問は、比較的早く解消された。歩さんが入院した産婦人科は大きな総合病院であり、その売店で和真さんは、右隣の部屋に住む男性と偶然出会ったのだ。
「ああ、お隣の……。奇遇ですね。どこかお悪いんですか?」
男性の方から話しかけてきた。和真さんは「連れが……ちょっと」と曖昧に答える。
「そうですか。うちもね……うちのは、もう長いんですよ」
男性は和真さんに応えてそう言った。
「ああ、越してきたときにご挨拶させていただいた……奥さまですよね。一昨日も外でお見掛けしました」
男性は急に怪訝そうに眉根を寄せて、和真さんを見つめた。
「うちのを見かけた? そんなバカな。引っ越してこられたのは、たしかお盆の頃ですよね。あのときもアレは入院していたはずです。おかしなことをおっしゃる……」
「ああっ、すみません。今のは忘れてください」
男性は足早に去って行った。歩さんの病室に戻りながら頭を整理した。
“入院中だし亡くなってもいない……つまり、きっとあれは生霊なのだ”
隣人女性についてそう結論づけたが、弱っている歩さんにそれを言うのは控えた。
歩さんは涙に暮れている。昨夜は一睡も出来ず、今は無理やり薬で眠らされている。心身の衰弱が著しいため、1泊2日の入院で済むところ、1日入院が延びた。担当医によると、妊娠中にもかかわらず、歩さんは日ごと体重が減少していたそうだ。
「すでに痩せすぎですし、以前から不眠傾向が続いていたのでは……」 責める口調でそう問われて、和真さんは冷や汗を掻きながら、己を恥じた。それからというもの、歩さんは薬なしでは眠れなくなった。彼女の耳には、毎晩、赤ん坊の声が聞こえるようだった。和真さんは賃貸契約を結んだ不動産会社に引っ越したい旨を伝え、新たな賃貸物件を探し、年明け早々に家を移った。
以後、歩さんの不眠症は徐々に回復。新しい家では赤ん坊の声がしなかったので、場所自体に問題があったのだろうと考え……いつしかその出来事を忘れていった。
それから数年後、以前、住んでいた町の名をテレビのニュースで耳にしたという。
「あのとき僕たちが住んでいた家の、隣の家から赤ん坊の遺体が出てきたんですよ!」
和真さんは興奮気味に、筆者にそう訴えた。
「なんなら住所をお教えしますよ。だって、事実ですから……」
荒ぶり始めた和真さんに、まったく疑っていないこと、住所を聞いたとしても、特定を避けるため書けないことを伝える。
今はいろいろと気を遣わざるを得ないのだという筆者の説明に、そういうものなんですね……と和真さん。続けて、
「そうそう、妻が第1子を無事に産んだときにも奇妙な現象が起きたんですよ。出産に立ち合ったんですが、赤ちゃんがオギャーって産声を上げたときに、ハモる感じで二重に聞こえたんですよ」
「産声がダブって聞こえたんですね?」
「はい。僕だけでなく妻にも、そう聞こえたそうです」
そして今回、実際に新生児の死体遺棄事件があったと知り……
「僕たちは、うちの子が生まれたときに、お隣の家で亡くなった赤ちゃんの魂も、生まれ直したに違いないと話しているんです。川奈さんは、どう思いますか?」
濁りのない瞳で和真さんは問いかける。事件になったかわいそうな赤ん坊は、産声をあげる間もなく命を絶たれたのかもしれない。
「そうですね。和真さんのおっしゃるとおり、おたくの元気な赤ちゃんの生命力を借りて此の世に産声を響かせたのでは。そしてその後に彼岸に旅立ったのではないでしょうか……」
歩さんが流産してしまったのは、不眠から来る体調不良によるものか、はたまた祟りによるものか。また、女性が生霊となって和真さんたちの前に姿を現した理由は、いったい何だったのだろうか……。
疑問点は多々あるが、きっと永遠に謎のままだろう。それよりもいまは和真さんのお子さんたちの健やかな成長を願ってやまない筆者であった。
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【記事前半】では、30代同棲カップルの転居先で起きた騒音トラブルと、彼女の妊娠が明かされるまでを紹介している。
川奈まり子(かわな まりこ)1967年東京生まれ。作家。怪異の体験者と場所を取材し、これまでに6,000件以上の怪異体験談を蒐集。怪談の語り部としても活動。『実話四谷怪談』(講談社)、『東京をんな語り』(角川ホラー文庫)、『八王子怪談』(竹書房怪談文庫)など著書多数。日本推理作家協会会員。怪異怪談研究会会員。2025年発売の近著は『最恐物件集 家怪』(集英社文庫8月刊/解説:神永学)、『怪談屋怪談2』(笠間書院7月刊)、『一〇八怪談 隠里』(竹書房怪談文庫6月刊)、『告白怪談 そこにいる。』(河出書房新社5月刊)、『京王沿線怪談』(共著:吉田悠軌/竹書房怪談文庫4月刊)
デイリー新潮編集部