中学3年生のときに脳出血を発症。脳幹部にある血管奇形の一種「海綿状血管腫」によって左の顔面麻痺や右の半身麻痺など、いくつかの障がいが残ったしぶきさん。将来はモデルの仕事に憧れながら、楽しく過ごしていた日常が一変して── 。(全3回中の1回)
【写真】「鏡を見た瞬間頭が真っ白に」脳出血を発症した中学3年生のしぶきさん ほか(全18枚)
── しぶきさんは中学3年生のときに脳出血を発症し、左の顔面麻痺や右の半身麻痺など、いくつかの障がいが残ったと聞いています。まず、病気を発症する前は、ご自身ではどんな学生だったと思いますか?
しぶきさん:中学ではソフトテニス部に所属し、明るく元気なタイプでした。洋服やメイク、おしゃれも大好きで、私が小学生のときは、母がファッションショーのモデルに申し込んでくれて、結婚式場で開催された小さなステージにも立ったことがあるんです。将来は本格的にモデルの仕事をしてみたいなと思ったこともありました。
── 将来に夢を抱くなか、どういった状況で病気を発症されたのでしょうか?
しぶきさん:中学3年生のとき、4時間目の授業中に具合が悪くなって体が前に倒れ、机の上に置いてあった教科書やノートを閉じて、寝てしまったようでした。その後、授業が終わって立ったときに、視界が定まらずにフラフラしてしまって。トイレに行って自分の目を鏡で見ようとしたら焦点が合わず。「これはおかしい」と思って友達にお願いして、一緒に保健室に連れて行ってもらう途中で倒れてしまったんです。
友達が慌てて先生を呼びに行き、先生におんぶされながら保健室につきました。保健室のベットに横になるころには右半身の痺れを感じてきて、唾は飲み込めず、しゃべりにくさもありました。先生は私の異変にそこまで気づかなかったのですが、母が学校に呼ばれて駆けつけると、すぐに私の様子に気づいてくれて。水を飲ませようとしたら全部吐いてしまい、「これはただごとじゃない」と救急車を呼んでもらいました。
ここから意識がなくて後から聞いた話になりますが、はじめに運ばれた病院では「ここではどうにもできない」と言われ、すぐに大学病院に運ばれたと聞いています。ただ、大学病院に運ばれてそのまま手術になったわけではなく、いろいろ検査をした結果、数日後に手術をすることになりました。
── その後、手術が終わって目を覚ましたときの状態は覚えていますか?
しぶきさん:ぼんやりしていますが、自分の体が思うように動かなくて、体が麻痺していることはわかりました。この体が治るのかどうかを母に聞いたような気がします。母は「治るかどうかわからないけど、リハビリ次第」って言っていたのかな。その後、リハビリを少しずつ始めていきました。
── 左の顔面麻痺についてわかったのはどのタイミングですか?
しぶきさん:リハビリで少しずつ体を起こす練習をして、ベッド上で座れるようになってきたとき、手は動いたんですけど、自分の手が届く範囲に鏡や携帯が置いていなかったんです。母があえて鏡や携帯を遠くに置いて、私が自分の顔を見せないようにしていたようでした。でも、自分の顔の筋肉が何かに引っ張られているような感じがしたし、口がうまく動かせない違和感もあったので、母に「鏡を見たい」と言うと見せてくれました。
「これが私の顔?」と鏡を見た瞬間、かなりの衝撃とショックが強くて頭が真っ白に…。パニックになって、母と2人で大泣きしながら何も考えられませんでした。涙が全然止まらなくて、この先どうやって生きていけばいいのか。恋愛や友達作り、将来の仕事とか結婚とか、当たり前にできると思っていたこともできなくなってしまうんだな思うとまた泣けてきて。
── 顔面麻痺について、事前に先生から説明はあったのでしょうか?
しぶきさん:たぶん、事前に説明もされていたと思うんですけど、そこまで状況の理解が追いついてなかったんでしょうね。
── 顔の左側が顔面麻痺、体の右半分に麻痺が残ったそうですが、体の麻痺はどんな影響がありましたか?
しぶきさん:体幹の筋肉が極端に落ちて、体のバランスを保つことが難しかったです。体も足も麻痺でグラグラ揺れている感じがして、平行棒で歩く練習をしたときも、足を床につこうとしても足の位置が定まりませんでした。飲みこみ(嚥下)もうまくいかず、水を飲んでもこぼしてしまう。左目が見にくく、右手はうまくペンを持つことができず、字を書いてもブレてしまいました。そのため、まずは筋力をつけたり、歩く練習をしながら日常生活に戻れるようなリハビリをしました。
── 大学病院では1か月程度入院して、その後リハビリ専門病院に転院されました。
しぶきさん:継続してリハビリをしていましたが、転院して半年程度経ったとき、再び状態が悪くなって大学病院に戻りました。ここでもすぐに手術はせずに、検査を続けながら様子を見ていましたが、あるとき呼吸状態がだんだん悪くなって、心臓が一度止まってしまい、緊急手術をすることになりました。再度、同じ部位が出血していましたが、奇跡的に回復することができました。
顔面麻痺の状態はほとんど変わりませんでしたが、それ以外の機能はさらに悪くなってしまい。特に開口障害と言って、口が開けにくくなりました。
また、今でもそうですが、麻痺している部分は温度がわかりにくいんです。たとえばお風呂のお湯が熱い、冷たいがわからないので、火傷をしても気づきにくい。湯船に入るときは麻痺してない足から入れるなど、注意しています。また、麻痺の影響でうまく瞬きができないため、左目の乾燥を防ぎ、目を保護するためにラップをつけています。
── その後、再度リハビリ病院に転院したのち、数か月後に退院されました。病院では医療従事者が周りにたくさんいますが、自宅に戻った後の生活はいかがでしたか?
しぶきさん:体は徐々に慣れましたが、気持ちの落ち込みがありました。入院中は、たとえばお風呂から上がった後に自分で下着をつけることも難しかったので、看護師さんや介護助手の方が手伝ってくれたんです。自宅に戻って母が手伝ってくれようとしましたが、自分でできない情けなさと恥ずかしさを感じて、母に感情をぶつけてしまうこともありました。
しばらく療養していましたが、家で過ごす時間が長いぶん、「どうして自分はこんな大病を患ってしまったんだろう」とネガティブなことも考えてしまって。街に出たら、他人は自分の顔を見てどう思うんだろうとか考えることがありましたし、実際ジロジロ見られたこともありました。気持ちのコントロールができず、部屋に閉じこもってしまう日も。
── かなりつらい思いをされたかと思いますが、そうした思いを相談する相手はいましたか?
しぶきさん:私の父の同級生の妹さんです。その方も過去に大病を経験されていたので、私の気持ちをとてもわかってくれました。なにかあるとその方に相談してアドバイスをもらっていましたね。もちろん、親に相談しても親身になって聞いてくれると思いましたが、親を悲しませてはいけないと思うと言いにくくて、その方にお話しすることが多かったです。
── 心強い相談相手がいらっしゃったのですね。自宅で療養しながら、その後の学校生活はどうなりましたか?
しぶきさん:学校は卒業式だけ参加しました。仲のいい友達には事前に状況を伝えていましたが、ほとんどの友達は倒れて以来の再会です。顔も体もすっかり変わってしまった私ですが、みんなと会うなり「久しぶり!」「元気になってよかった」と他愛のない話をしながら、あまり深刻な雰囲気にはならなかったと思います。
その後、1年間は通院と療養生活を送りながら同級生より1年遅れて、高校に進学することになりました。
中学生でまさかこんな大病を患うとは思わず、病気の発症から数年間は自分の障がいを受け入れることができませんでした。それでも、常に寄り添ってくれた両親や、何かあれば相談に乗ってくれた父の同級生の妹さん。そして医療従事者の方々や友達。場面場面でたくさんの方に助けがあって、つらい状況ながらも少しずつ前に進むことができたと思っています。
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高校、短大へと進学したしぶきさん。最初こそ周囲と打ち解けられず悩んだものの、次第に道を切り開いていきます。そのころには飲食は問題なくできるようになり、友達と一緒に遊びに出かけて奪われた青春を謳歌するように。そんなときに出会ったのが今の旦那さんでした。障がいがあることで恋愛は無縁と思っていたしぶきさんに寄り添ってくれた彼の存在で「人生が心から楽しい!」と思えるようになったそうです。
取材・文/松永怜 写真提供/しぶき