〈「自衛隊のミサイルが命中した」「自衛隊標的機が衝突した」…年々盛り上がる「日本航空123便墜落事故」の陰謀論を徹底検証《NHKは「偽動画であり…」と回答》〉から続く
1985年8月12日に発生した日本航空123便墜落事故。事故から40年を経た現在、墜落に自衛隊が関与しているという陰謀論が広がっている。そうした主張の中でも、もっとも大きな影響を及ぼしているのが、元日航客室乗務員の青山透子氏による一連の著作だ。
【閲覧注意】遺体が散乱していたあまりにも壮絶な事故現場。ペディキュアのぬられた足の指が生々しい
しかし、青山氏の著作での主張は、様々な専門家から疑問視されている。ここでは主に軍事面の問題点について検証を試みたい。
青山氏の主張の根幹部分を成すものに、日航機を追尾していたというF-4ファントム戦闘機2機の目撃証言がある。しかし、青山氏の記述は致命的な矛盾を抱えている。以下に青山透子氏の『日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』から引用する。
自衛隊のF-4EJ戦闘機 時事通信社
この記述によって、群馬県吾妻郡上空を18時40分頃ファントム2機が飛行していたことが明らかになった。そうなるとやはり、Kさんが語ってくれた静岡県藤枝市上空を18時35分頃にファントム2機が通過したという目撃情報と一致する。したがって、明確にしておかなければいけないことは、まだ明るい墜落前に航空自衛隊では日航機を追尾して飛行状況を確認した。さらに墜落するその時までしっかりと見ていた、という事実である。
この記述から青山氏は目撃証言の信憑性を精査していないか、戦闘機の性能について誤解していると思われた。静岡県藤枝市と群馬県吾妻郡まで直線でも約200kmの距離がある。この距離を18時35分から40分までの間に移動するには、最良の条件でも時速2400km、秒速667mの速度で飛ばなければいけない。これは音速の2倍であるマッハ2に近い(正確にはマッハ1.96)。
カタログスペック上、F-4はマッハ2.2まで出せる。しかし、超音速戦闘機でも超音速飛行には様々な制約が伴う。超音速飛行で生じる衝撃波はソニックブームと呼ばれる爆音を伴うが、仮に超音速飛行をした場合は地上で爆音を聴く人は多数にのぼり、青山氏が取り上げる数人の証言に留まらない目撃者が出るはずだ。
しかも青山氏が取り上げた目撃証言は稜線ギリギリの低空飛行としており、これでは衝撃波により地上の家屋に被害が出るだろうが、そのような報告は寡聞にして知らない。

仮に日航機をマッハ2近い速度で追尾していたとして、音速より遅く飛ぶ日航機をすぐに追い越してしまうとは考えなかったのだろうか。この目撃証言は青山氏の主張の根幹を成すものだが、あまりに検証がズサン過ぎるだろう。
目撃証言そのものが抱える問題もある。元日航パイロットの杉江弘氏は著書の中で、世界中の墜落事故における目撃証言では時系列的な錯誤が多く、記憶の混同が起こり得ると記している。
また、人の記憶に関連することとして、筆者は過去に印象深い取材をしたことがある。1989年夏のコミックマーケット(コミケ:同人誌即売会)において、開催直前に東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の容疑者として宮崎勤元死刑囚が逮捕され、過去に宮崎がコミケに参加していたことからテレビ局がコミケ会場に取材に来て、「ここに10万人の宮崎勤がいます」とレポーターが叫んだという広く伝えられていた噂の真偽についての取材だ。
多数の目撃証言はあっても細部はまるで異なっており、噂について書いてある文献も「数万人の宮崎勤」から「40万人の宮崎勤」にまで年を経るごとに膨れ上がっていた。叫んだレポーターと名指しされていた女性は噂を否定し、当時のコミックマーケット準備会のスタッフも当時見たことも、話題になった記憶もないという。 こうした現象について中央大学の松田美佐教授に伺うと、「記憶の研究では、見ていないものを『見た』という、後で記憶をすり替えられることは珍しくない。目撃証言もあいまいな部分があって、時間が経つにつれて映像はこうだったと本当に思ってくる。本人が嘘をつくつもりでも、不誠実な訳でもない」と目撃証言が持つ問題を語って頂いた。(Yahoo!ニュースエキスパート「10万人の宮崎勤はあったのか?」より)

青山氏の仮説は目撃証言に頼りすぎていて、その精査も怪しいとなれば、仮説としても問題があるだろう。
青山氏は乗客が撮影した写真解析(どこの研究機関が解析したかは明らかにされていない)や目撃証言から浮上した「赤色のだ円、または円筒形のもの」に着目し、低空で右旋回中の飛行機の左側腹部にピタッとついてきた物体として、それがミサイルであると推測して次のように書いている。
なお、このような武器については、一般の方でもわかりやすいように基本的なことだけを書いておく。以下ミサイル開発の歴史について簡単に述べる。

ミサイルの第一世代(1956年~1973年)は、ミサイルをワイヤーでつなぎ、そのワイヤーをひきながら飛行する型式であった。第2世代(1970年~1985年)から、そのワイヤーによる有線誘導方式にプラスして、照準装置による赤外探知機を使って、ズレを修正する半自動方式となった。これで命中率が向上したという。第3世代に入った1985年当時は、有線方式からレーザー・セミアクティブ誘導方式への移行期であり、その後命中率をさらに上げるために様々な誘導方式が考案された時期である。(以下続く)

青山透子『日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』

筆者はこれを読んで頭を抱えたし、これを読んでいる少し軍事に詳しい方も同様かもしれない。これは陸上で車両に向けて撃つ対戦車ミサイルの解説(にしてもおかしいところがある)で、およそ日航機とは関係ない。青山氏はミサイルの種別について区別がついていないのではないか? だが、これはあくまでミサイル全般の概説と擁護できるかもしれない。
しかし、『日航123便墜落の新事実』に続く『日航123便墜落 遺物は真相を語る』では、筆者の推測を裏づける青山氏の「仮説」が登場した。
八月九日に日本海側(若狭湾)での国産巡航ミサイルの飛行テストが無事成功したのはよいが、なぜ今度は相模湾で行ったのかがまず疑問である。ある軍事関係者の詳しい話では、次の訓練として大型爆撃機または大型輸送機をターゲットとして訓練したのではないだろうかということであったがこれはあくまでも仮説である。特に、考えられるとすれば、当時のソビエト連邦が一九八三年に初飛行を行った空中給油機イリューシン78(-78)を模したジャンボジェットが狙われたのではないだろうか。
この引用でいう「国産巡航ミサイル」とは、開発中の地対艦ミサイルSSM-1のことである。軍事の一般常識として、軍艦を狙うミサイルで航空機をターゲットにするのは考えにくいし、SSM-1に当然その機能はない。いったい、こんなことを主張する「軍事関係者」とは、どういう人なのだろうか? そして、これを鵜呑みにする青山氏は、ミサイルの種別を混同しているのではないか?

あるいは、青山氏が掲載している1985年8月11日の読売新聞記事にある、開発予定の空対空ミサイルのことを指している可能性もある。しかしその場合、記事文中の「来年度から空対空ミサイル(短距離、格闘用)と空対艦、艦対艦巡航ミサイルの開発に着手する」を読み取れていないことになる。
まだこの時点で存在しないミサイルをどうやって試験するのか? このことは、防衛庁技術研究本部(当時)がまとめた『防衛庁技術研究本部五十年史』の開発線表でも分かる。ここでいう空対空ミサイル、後の90式空対空誘導弾は昭和61年度に試作が始まり、技術試験は昭和62年度からである。1985年(昭和60年)には存在しない。

一方で、「国産巡航ミサイルの洋上飛行実験中に突発的事故が起きて、日航123便の飛行中、伊豆稲取沖で垂直尾翼周辺に異変を発生させた」という推測を青山氏は記している。SSM-1は巡航ミサイルだが、空対空ミサイルは巡航ミサイルではない。
日航機に異変を生じさせたミサイルはなんなのか、青山氏の記述からははっきりと分からない。間違いなさそうなのは、青山氏はミサイルの種別について混同しているということだ。
さて、ここまで筆者なりの問題点を書いてきた。しかし、青山氏は『日航123便墜落の新事実』のあとで、様々な批判を受けたのだろう。次に出した『日航123便墜落 遺物は真相を語る』で次のように書いている。
そのような中で、私の調査結果について『まさかそんなはずはない』と言わなかった人たちがいる。私がお会いした元自衛隊員たちや、零式戦闘機搭乗員の訓練を受けた直後に終戦となり、自衛隊を経て日航機長となった信太正道氏、海軍少佐で零式戦闘機教官だった上野村村長の黒澤丈夫氏である。日航123便の検視担当医師がまとめた『ご遺体状況一覧表』に書かれた内容からは、明らかに武器燃料を被ったのではないかと思われるのだが、自衛隊の武器が関係している可能性があるのではないだろうか、という私の見解について『なるほど』と納得していただいた。実際に戦闘機に乗って戦う訓練を受けた人間や、レンジャー過程(引用者注:ママ)を修了した特殊隊員のようなスペシャリストで、過酷な戦闘訓練を重ねた人のほうが、そういうことはあり得ると思った、ということになる。

つまり、経験のない部外者や都合の悪い部内者がとやかく言える次元のことではなく、そのような人たちの勝手な憶測による否定などは、真相を明らかにするのに障害こそあれ、何の役にも立たないのである。
これはある意味で無敵の論法である。自分の主張をスペシャリストが「なるほど」と言ってくれれば、それ以外の反論は無価値だというのだ。一般論として、「なるほど」には納得や同意以外の意味も含まれると思うが……。

青山氏の批判者に対する態度は、このように突き放すか見下すものが多い。前述の杉江氏についても名指しせず、「便乗本を出版した元日航パイロット」について、「高齢になってまでも、自分の人生を他人に飼い慣らされて生きていくのだろうか。その精神には独立も自尊心もなく、なんらこの事件を語る資格などない」と切り捨てている。
杉江氏は青山氏の自衛隊・米軍関与論を陰謀論と批判しているが、事故調査委員会に不信感を持っていて、ボイスレコーダー公開と再調査の必要性を訴えており、この部分は青山氏と同じ主張なのだ。この部分で協力できたかもしれないのに、青山氏は誰かの走狗と認定して拒絶している。
このような批判者に対する態度は、東京大学で博士号を取得されたはずなのに不可解だ。研究に批判は欠かせないものなのだが……。

しかし、これで軍経験のない筆者の反論も青山氏の前では無価値化されてしまった。
そこで、ジェット戦闘機に乗っていた元パイロットに、長らく情報分野で活動していた分析官。元航空自衛隊のスペシャリスト2人に、青山氏の主張について話を聞いてみることにした。
〈「日本航空123便墜落事故」の陰謀論を元航空自衛官が実名で否定する“明確な論拠”「ないですね。これは即答です」〉へ続く
(石動 竜仁)