「推し活」という言葉が定着して久しいが、一方で「推し活」の名の下に迷惑行為や支配欲に満ちた振る舞いに及ぶ「厄介ファン」の存在が、少しずつだが確実に目立ち始めている。ライターの冨士海ネコ氏は、「推し活」時代においては「引く」ことが非常に重要だと指摘する。
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あなたの「推し」は誰?――そんな問いに答えられないと、どこか堅物に思われてしまう。それほどまでに日本で「推し活」というのは、ポジティブな営みとして定着したのではないか。かつては限られたファンのみが熱中する行為だったはずが、今では老若男女問わず参加する文化として、社会的にもバックアップする空気ができてきた。推し活をきっかけに地方を訪れるファンが増えるなど、新たな観光資源として活用される事例も増えている。
だが、その一方で、「推し活」の名の下に自らの行為を正当化し、迷惑行為や支配欲に満ちた振る舞いに及ぶ「厄介ファン」の存在が、少しずつだが確実に目立ち始めている。
先日はプロレスラー・KENTA選手に対し、入場時に女性客が口に含んだウーロン茶を吹きかけるという迷惑行為を行った。本人にも注意をして退場となったというが、KENTA選手にとってはプロレスデビュー25周年という大事な日だっただけに、相当な不快感が残ったようだ。
この女性は、もしかすると祝福のつもりだったのかもしれない。しかし、それは応援ではなく、相手の身体的安全を脅かす攻撃行為である。問題は、「推し活」の熱量の高まりが個人的な感情の爆発にすり替わるとき、推し本人の意思や尊厳を完全に無視してしまう点にある。さらにいえば、それは「推し活」という名の下に承認欲求を爆発させているだけ――そんなファンが増えているのではないだろうか。
かつてジャニーズ(現STARTO)タレントの追っかけの中には、過度なつきまといや郵便物を盗んだりするファンを「ヤラカシ」と呼んで忌避する文化があった。一方でそうした迷惑行為を「やらかす」背景にはSNSの普及があり、「顔を覚えてくれた」と他のファンへのアピールやけん制に使うケースも報告されている。
同様の行為として問題になったのが、「ハグ会」でBTSのメンバーJINさんの首筋に突然キスして話題となった日本人女性の存在だ。韓国警察は性暴力処罰法違反の疑いで書類送検した、というニュースは大きな反響を巻き起こした。
真偽は定かでないが、この女性は自身のブログで「唇がJINの首に触れた。肌がとても柔らかかった」との投稿をしていたとされる。それは単に参加報告というよりは、他のファンを出し抜いて推しとキスできたという優越感の誇示でもあったのではないだろうか。
SNSは自分の感情を即座に発信し、多くの共感や「いいね」を得ることで、自分の存在が肯定されたと感じるツールだ。推しの写真を加工して投稿したり、ライブに行った報告をすることは、自分の推し活の「証明」でもある。だがそれが極端になると、「私の推し活を見て!」「私はこれだけ推しを愛している!」という推しを通じた「自己表現」へとすり替わる。それ自体が悪いわけではないが、行き過ぎると「推しに気付かれたい」「私だけの推しでいてほしい」というゆがんだ期待や、他者との競争に転化してしまう。
「好きだからやった」は、決して免罪符にはならない。しかし、「直接思いを伝えたい」「ほかのファンよりも近くで推しを感じたい」といった熱意は、「推し活」を盛り上げる要因にもなる。「推し活」はポジティブな行為とされる空気の中で、ファンを強く注意することにためらいを感じる運営も少なくない。そうした「推し」側の揺らぎにつけ込むようにして、迷惑行為は次第にエスカレートしている。
さらに、それらの行為がネットニュースで取り上げられ、SNS上で拡散されることにより、一部のファンは他者からの注目を「承認」と錯覚し、自己愛を肥大化させていく。その結果、「推し活」の名の下に行われる行動が、いつしか「自分を認めさせること」へとすり替わり、本来の目的を見失った迷走が加速しているように見えるのだ。
4月末に発生した、「≠ME(ノットイコールミー)」のシングル発売記念イベントでの警察沙汰も記憶に新しい。「優先入場券」が当たらなかったファンの一部が押し寄せ、スタッフを負傷させたという一件はネットニュースでも取り上げられた。
ファン同士の小競り合いが、なぜそこまでエスカレートしたのか。根底には「自分の推しをもっと近くで見たい」「接触を邪魔されたくない」という強い独占欲がある。応援という名目で他者や運営を敵視し、物理的な行動に出るというゆがんだ心理状態は、「推し」という存在が自身の行為を正当化する危うさを示している。
報道によれば事前に「もしかしたら伝説の乱闘があるかも」という書き込みを見たという証言もあり、もともとステージの中止をたくらむ「壊し屋」行為だったのではという指摘も出ている。
演者と観客の間には本来、舞台は尊重すべきもの、という共通の認識がある。しかしSNS時代の今、自分自身と推しとの距離が縮まったと感じる人は多くなり、「観ている自分」もコンテンツの一部だという意識が強くなっているのだろう。
最近ではお笑い芸人のトークライブ中や、観劇中に平然と私語を続ける観客の存在が報じられ、自己表現とマナーの境界が曖昧になっていることがうかがえる。推しだけのステージではなく、自分も目立つためのステージであり、「自分が楽しければそれでいい」という観客の姿勢は、昔の見る側の作法とは大きく異なる。
演者との距離が近づいたと感じることは、昔からファンにとって喜びであり魅力の一つだ。だがその「近さ」を履き違えたとき、観客は推しの表現を阻害する存在となる。
客席が騒がし過ぎては、推しにスポットライトが当たらない。同じファン同士でも、「それは違う」「その行為は推しのためにならない」とブレーキをかける風土を育てることが必要なのと同時に、過剰な「推し行為」を正当化しないことも求められているのだろう。1億総「推し活」時代における、「引く」ことの大切さを見直す局面に来ているのではないだろうか。
冨士海ネコ(ライター)
デイリー新潮編集部